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19・みんな頑張れ!

 

 女が離そうとしたその手を、少女は強く、握りしめた。


「お姉さん……家庭教師の娘さんですよね」


 真っ直ぐな問い掛けのなかに含まれるのは、疑問ではなく断定だった。女は不意を突かれ、返答を喉に詰まらせた。だが、少女は返答を待つこともなく、先ほど重いカバンに腕を震わせていた姿が嘘のように、力強い足取りで女の手を引いていく。


 女は無様に転びそうになるのを、必死に堪えるのが精一杯だった。抗う事もできず、少女の部屋へと引きずり込まれる。


「こちらに、どうぞ」


 促されるまま、女は古びた椅子に身を預けた。幾多の経験を積んできたはずの自分が、年端のいかない少女に、いいように扱われている。その事実に、苦笑する余裕すらなかった。


「今、お茶を淹れますね」


 少女は弾むような足取りで炊事場へ向かう。お茶を淹れながら時折、視線が木棚に向けられる。意を決したように木棚の奥に手を差し込み、亜麻布の包みを取り出した。大切に包まれていたのは、残り僅かになった焼き菓子だった。今の少女にとって、この焼き菓子を差し出すのは身を切る思いであったが、初めての『お客さま』を迎え入れる高揚感には抗えなかった。少女は小皿を出し、一枚ずつ、宝物を扱うように丁寧に並べた。


 女の元へ戻り、湯気の立つカップと小皿を置く。


「……いただくわ」


 女が茶を口に含む。少女にとっては例えようもない御馳走でも、女にとってはどこにでもある、ありふれた安物の焼き菓子。女は何の遠慮もなく、その一枚に手を伸ばし、口に運ぼうとした――その時。


「まぁま。……まぁま!」


 背後の寝台から、幼い、けれど、切実な想いを、訴えかけるような声が響いた。その声に弾かれたように席を立とうとした少女。だが、その細い手首を、女の指が穏やかに制した。


「――黒髪の赤ちゃんね」先ほどの少女と同じ、真っ直ぐな響き。その問いかけは疑問ではなく、断定だった。


 少女は素直に頷いた。


「はい。お茶の香りで起きてしまったようです。『焼き菓子がもらえる』と、そう信じ込んでいるみたいで。……困った食いしん坊なんです」

頬を染めて俯く少女を、女は不思議そうに見つめる。


(お茶の香りに反応したというの? 嗅覚が記憶に直結しているの?この香りが『焼き菓子を運んでくる』と、すでに『学習』しているというの?)


 女は少女の肩をそっと抑えて、椅子に座らせる。自分は音もなく立ち上がると、ことさらゆっくりとした足取りで、声の主が呼びかける寝台へと向かった。


 少女は止めなかった。目の前の女に対する、理屈を超えた信頼。けれど、予期せぬ何かが起こるかもしれないという不安に、ただ静かに、頭を垂れて待つしかなかった。


 やがて、女が赤児をその腕に抱いて戻ってきた。少女の目には、逆光を背にした、その姿は、宗教画から抜け出してきた女神のように、美しく映った。

 

 赤児が自分を「まぁま」と呼ぶ。その響きが、少女にはひどく面はゆく、赤児を抱えた女の美しさが、己の幼さを突きつけられるようで、消え入りたいほどに恥ずかしかった。 

女は再び席に着くと、赤児の唇を指先で軽く押し上げ、その口内を確かめる。


「……まだ、そのままじゃ無理ね」独り言ちると、女は迷いのない手つきで動いた。


 小皿の上にある、少女が大切にしていた焼き菓子を指先で細かく砕き、茶をひとたらしする。指先で丁寧に混ぜ合わせ、赤児が飲み込める柔らかさまで練り上げていった。


「……お茶を飲ませても、平気なんですか?」


 少女が恐るおそる、けれど食い入るように、その手元を見つめて尋ねた。女は砕いた菓子を茶で練り上げる手を休めずに答える。


「飲ませるっていうほどの量じゃないでしょう。このくらい、なんでもないわ」


 女は練り上げたものを指先に少しだけ取り、赤児の唇にそっと触れさせた。確かな甘味を感じたのか、赤児が小さく口を動かす。それを見届けてから、女は視線だけを少女へ向けた。


「私、何も知らなくて……」少女の声には、自責の念が混じっていた。


 『幼き命』を預かりながら、その育て方すら正しく分かっていない。その無知が、少女には恐ろしく、ひどく自分をちっぽけな存在に思わせた。

 

 そんな少女の心の内の揺らぎを、女の言葉が鋭く捉えた。


「知らないことは恥ではないわ。知ろうとしないことが、恥なのよ」


 馬鞭を振るうような厳しさと、迷い子を導くような静かな響きが同居していた。


「今のあなたは、知ろうとしている。……それは、この子が生きるための、そして、あなたが生き抜くための、決して誰にも奪えない武器になるわ」


 女は指先を赤児に吸わせながら、今度は少女を真っ直ぐに見据えた。


「まぁま!あんあえ!」突然、赤児が女の腕の中でむずがりだし、言った。


「ほら、この子も応援しているわよ」女の瞳の奥に青白い炎が熾った。それは、はたして、少女に向けたものなのか、腕の中に抱いた赤児に向けたものか……どうやら、自分自身を奮い立たせるためらしい。


 女が叫んだ。


「頑張れ!」


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