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16・少女と赤児、未来への誓い

 

 男の腕に赤児が抱かれていた。


 少女を連れて別棟の片隅にある空き部屋へと向かった。


「……ここを使ってくれ」 男に促され、少女は扉から半分だけ身を乗り出し、恐る恐る中を覗き込む。次の瞬間、彼女は驚きに目を見開いた。


 男にとっては、よく手入れはされているものの、古びた調度品で設えられた、質素な一室に過ぎない。だが、虐げられ、地を這うように生きてきた少女の瞳には、眩いばかりの宮殿のような場所に映っていた。


 少女は、真っ先に目についた天蓋付きのベッドへ駆け寄った。そして、まるでそうすることが、『義務です』とでも言いたげに、その身を投げ出した。柔らかな布の感触に、張り詰めていた心の糸がふっと緩む。


「……くっ」 男から、押し殺した笑い声が漏れる。少女の無邪気なはしゃぎぶりにではない。腕の中にいる赤児が、少女の落ち着きのない様子を見咎めるように、その小さな眉をひそめたからだ。


 はしゃぐ少女を横目に、苦笑いしながら、男はゆったりと長椅子に腰を下ろす。


「ん? 少し埃っぽいか」男のつぶやきを聞き逃さず、少女が跳ね起きた。


「お掃除します!」「まぁ、そう慌てなくても、良いさ」「いえ、すぐにでも。お掃除の道具はどちらに?」


(自分の、いや、赤児の居場所を守ろうと必死なんだな。どんな些細な不手際もしないという、決意の現れか)男は少女の切実な瞳を受け止め、軽く手を挙げて少女を制した。


「まぁ、掃除は後で良い。それより、お茶を淹れてくれるか、炊事場は……」「あちら、ですね」


 男が指し示すより早く、少女は脱兎の如く動いた。


 ほどなくして、お茶が運ばれてくる。男は自分の前に置かれたカップを、迷わず少女の前へと押し戻した。


 代わりに取り出したのは、腰の革袋に忍ばせていた亜麻布の包みだった。包みを開いた瞬間、ふわりとバターと砂糖の甘い香りが漂う。香りに誘われるように、腕の中の赤児が身を乗り出し、男の頬を小さな手で押し退け、包みを興味津々と言った様子で見つめる。


「甘いものなど、食べたことがないんです」少女は、その香りを嗅ぐことさえ贅沢すぎると言わんばかりに、恥じ入るように顔を伏せた。


「茶を飲むにはまだ早いよな。菓子を食べさせてやってくれるか」男は赤児を少女の腕へと預けた。


「はい、お預かりします」


 少女は、壊れ物を扱うような手つきで赤児を抱き上げた。そして焼き菓子をひとかけら口に含むと、ゆっくり、丁寧に噛み砕く。少女の唇から取り出した、柔らかくなった焼き菓子を、赤児の小さな口へと移した。


 初めて「甘い」という感覚に触れた赤児は、驚いたように目を丸くした。


「『甘い』よ。言ってみて。あ、ま、い」

「あ、ああい……?」

「あ、ま、い」

「……あ、ま、い?」


「そう、よく言えたわね」少女は満面の笑みを浮かべ、赤児の柔らかな黒髪を優しくなでた。


 その光景を頬を緩ませ眺めていた男が、頬を叩いて気を引き締めると、静かに、口を開く。


「これからのことを話しておきたい」


 男の声に、少女の肩がわずかに震える。


「俺は今、国境警備の任についている。領地、領館での出来事は、逐一連絡兵から報告を受けていたが、持ち場を離れるわけにはいかなかった……」


「済まん」「にぃに!」「やめて下さい!」


 男が頭を下げるのを、押し留めようと、少女が手を伸ばしたのが先か。赤児の声が先か。


 男が言葉を継ぐ。


「家族が王都に向かい、領地を開けるので、一時的に帰領したが、またすぐ持ち場に戻らなくてはならない。俺がいない間の配慮は尽くすが……」


 男が言葉を切り、赤児を見つめる。その視線の先にある不安を、少女は敏感に感じ取る。


「まだ、黒髪を毛嫌いする人が、この領館にもいるんですね。でも、それが誰だか分からない……」少女の声は、不安に染まるように、尻すぼみに小さくなった。


「ああ。国境沿いでは今も小競り合いが続いている。中には肉親や縁者を、東方の蛮族に……」男の声もまた、苦渋に染まって消えていく。


「きゃつきゃ!」部屋を支配した重苦しい沈黙。それを破ったのは、赤児の天真爛漫な笑い声だった。


「……うん。そうだね。私、頑張るよ!」少女は赤児を抱き直し、自分自身に言い聞かせるように力強く頷いた。


「そうだな。悩んでいても始まらない」男もまた、赤児の笑い声に、少女の真っ直ぐな『強さ』に、救われたように表情を和らげた。


「一人、信頼できる心当たりがある。かつて俺に『黒髪排斥法』の歴史を説き、『世界の歴史に残る天下の悪法、まさに国辱そのものです』と説いてくれた家庭教師の、娘さんだ」


 男の脳裏に、正義感に瞳を燃やしていた、かつての『娘さん』の面影が浮かぶ。


「一緒に講義を聞いていた彼女は、俺が恥ずかしくなるほど聡明な娘さんでな。俺はただ、『はぁ~なるほどね~』と聞き流していただけなのに、まだ幼いながらも、あの法を『馬鹿げています!』と断じ、悔し涙を流していたよ」


 男は、少女の目を見つめ、力強く断言する。


「彼女なら、必ず力になってくれる」

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