表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/24

15・兄妹の絆、伝承を超えて

 

 部屋には、芳しい茶の香りが満ちていた。


 少女は『この子をお願いします』とだけ言い残して席を離れ、初めて立つはずの炊事場へと、迷いなく向かい、慣れた手つきで茶を淹れた。男の腕に預けられた赤児は、先ほどまでの張り詰めた空気などどこへやら、無垢で安心しきった笑顔を男に向けている。


(……温かいな)男は、腕の中に伝わる小さな鼓動に、戸惑いながらも目を細めた。


 少女が戻り、男の前に静かにカップを置く。赤児が香りに誘われて、興味深そうに身を乗り出して覗き込むが、男がそっと遠ざけた。


「美味いな。淹れ方が違うのか?」男は熱い茶を、一口含む。香りが鼻を抜け、凝り固まった思考を解きほぐしていく。


「茶葉が良いだけです」少女は照れたように、小さく微笑んだ。


 その目は、隠しようもなく赤く腫れている。どれほどの涙を流したのか。男も少女も、そのことには触れなかった。それが、この場に漂う安らぎを壊さないための、暗黙の礼儀のようだった。


「……さて」男は表情を引き締め、腕の中の赤児を見つめた。


「大方のことは聞いているが、詳しい話を聞かせてくれ。特に、この子……いや、『妹』については、恥ずかしながら何も知らないんだ」


 男の呼び方の変化に、少女の口角がぴくりと跳ねた。それは、男がこの赤児を『排斥されるべき黒髪』ではなく、『愛すべき妹』として受け入れた証左でもあった。


(今更ですか? でも、言葉にされると…‥嬉しいな)少女は込み上げる熱いものを隠すように、困ったような苦笑を浮かべた。


「あぁ、先に言っておくが、妹に危害を加えるつもりは毛頭ない。ただ……何か不思議に思うことはなかったか? 普通の赤ん坊とは、どこか違うような……。いや、先ほども、こう、なんというか、言葉にはできないのだが」


 少女は男の正面に、遠慮がちにちょこんと腰を下ろした。そして、何ひとつ飾ることなく己の体験を、胸に秘めてきた苦悩を、堰を切ったように吐露し尽くした。男は一言でも聞き逃すまいと、その言葉を真正面から受け止める。


「済まなかった」


 少女が語り終え、口をつぐむと、男は潤んだ瞳を隠すように深々と頭を下げた。過酷な運命を強いてしまった少女へ。そして視線を移し、腕の中の妹へ。


――と、その時。


 赤児が急に激しくむずかりだし、男は取り落としそうになるのを大慌てで抱え直した。しかし、小さな手が伸び、男の頬にある無骨な古傷に触れるのは、止められなかった。


「にぃに。にぃに」向けられたのは、満面の笑顔。


 男は呆然となって固まり、やがて絞り出すように、言った。


「つまり……こういうことか?」「そういうことです!」


 少女は誇らしげに、胸を張って答える。言葉にできない『感覚』を共有できたことに、背筋が震え、肌が泡立つような感動を覚えた。


 だが、男にとって、その不合理な『感覚』は、理解の範疇を、遥かに超えていた。


 男は軍人だ。戦いとは、微細な事象を拾い上げ、不合理を切り捨て、合理的な判断と最適解を積み上げた者が勝利を掴む。そう信じて疑わなかった男にとって、『黒髪黒瞳の死神』などという伝承は、笑い飛ばすべき世迷い言でしかなかった。


 男の矜持が、音を立てて崩れていく。


 その苦渋に満ちた表情は、少女の目には、『妹さん』を抱えることさえ辛そうに映った。


「預かります」少女は男を解放するかのように『妹さん』へ手を伸ばす。


「あぁ、すまない。返すよ」男は、自分の手には負えない、『愛すべき理解不能な存在』を返し、ほっとしたような安堵の表情を浮かべた。


 その男の言葉が、表情が、少女の怒りに火を着けた。


「いいえ! 私は『返してくれ』なんて言ってません!妹さんを『預かります』と、言ったのです!」少女の毅然とした声が響いた。


「あぁ、そうだ。そうだよな。その通りだ」「きゃつきゃ!」


 男は少女の怒声に、身を縮こませるが、少女の腕の中に収まった赤児は、突然の怒声に、驚くこともなく大喜びだ。


「ほら、暴れないの。危ないでしょ」少女が優しく叱った途端、赤児は大人しくなった。――と思いきや。赤児が少女の腕から逃げ出すように、男に向かって勢いよく身を乗り出した。慌てて少女が抱え直そうとするも、間に合わない。


 差し出されたのは、先ほどまで『不合理』に怯えていたはずの、男の手だった。


 赤児がその手にしがみつく。男が、今度は逃げることなく、しっかりと赤児を抱え込んだ。二人の視線が重なる。


「あぁ、そうだ。そうだよな。その通りだ」「きゃつきゃ!」


 同じ言葉が寸分たがわず、しかし今度は確信をもって、繰り返された。


 男は冷めきった茶を一息で飲み干すと、空になったカップを叩きつけるように置いた。


 「妹を預かってほしい。ついてきてくれ」男が面を上げ胸を張る。真っ向から少女に視線を送ると、片手を差し出した。


 少女はその誘いに抗うことは出来ず、差し出された、その大きな手を固く、固く、握りしめた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ