13・兄来たる
少女は背後に忍び寄る気配に、振り返った。
そこに立っていたのは、使い込まれた革鎧を身にした大男だった。 少女を驚かせまいとする気遣いか、男は殊更にゆっくりと歩み寄る。
「邪魔するぞ」と、小さな声で告げると、返事も待たず、無造作に少女の隣へ片膝を立てて座り込んだ。その無駄のない立ち居振る舞いは、獲物を狙う野獣のような独特の威圧感を放っていた。
(……誰!? 逃げなきゃ、早く!)少女は地を蹴って逃げ出そうとするが――動けない。
男の放つ威圧感に絡め取られ、立ち上がるどころか、声を上げることすら叶わなかった。
そんな少女の様子を余所に、男は身を乗り出して、少女の腕の中の赤児を覗き込んだ。その途端に、強面が緩む。
「べっぴんさんだな。……俺に似ねえで、本当に良かった」深い慈愛が込められた、その声音に触れた瞬間、少女を縛り付けていた恐怖は、困惑へと塗り替えられていった。
男は少女に同意を求めるように、自嘲気味に笑いかける。剥き出しになった真っ白な歯。その輝きに、少女の胸は高鳴り、残っていた戸惑いさえもが消え失せていく。
間近で見るその容貌は、野性的で荒々しい。頬の古傷が凄みを際立たせている。だが、醜悪さは微塵も感じさせなかった。少女は隣り合う男の存在感に圧倒されながら、激しく脈打つ自分の鼓動を聞いていた。
「……苦労をかけたな」
不意に、節くれ立った硬い手のひらが、そっと少女の頭に添えられた。 ごわごわとした感触が妙にくすぐったく、優しく、温かい。
「……あ」 少女の口から、場違いな声が漏れる。
「事情は詳しく聞いている。母さんを悪く思わないでやってくれ。……ああいう人なんだ、昔からな」男はどこか虚空を見つめ 、悲哀を帯びた言葉をもらす。その真意を測りかねて硬直する少女の隙を突くように、男は赤児へと手を伸ばした。
男への不信感は消えていたが、赤児を預けるつもりなど、さらさらない。少女は反射的に腕を強張らせたが、赤児が自ら精一杯に身を乗り出し、男の胸へ飛び込もうとするのを止めることは出来なかった。
「ほ~ら、兄さんだぞ」 ぎこちない手つきで赤児を抱き上げた男の一言。その瞬間、少女の中で不揃いだった思考の断片が、一本の線に繋がった。
煌めく一本の線に。
「あ、あの。……これ、って」 少女は肌身離さず持ち続け、誰にも見せることが出来なかった古びた革袋を、震える手で、おずおずと差し出した。 男は一瞬、革袋を横目にしたが、返事もせずに赤児へと視線を戻す。しかし、少女は見逃さなかった。男の口角が照れたように、わずかに緩んだのを。
少女は確信する。(この人が、救ってくれたんだ!『幼き命』を。壊れそうになった私の心を)
「ありがとうございます」 少女が潤んだ瞳で感謝を告げた――――その時だった。
「に、にぃ、に。あいあおう」
幼い唇から、たどたどしく零れたその声に、男は愕然と目を見開いた。 直後、赤児を高く掲げて仰ぎ見る。まるで手に入れた宝物が本物かどうか、陽の光に透かして確かめるような、あまりに不器用で、必死な、そして端から見れば危なっかしい仕草。
「ちょっと、何してんの!」
少女は憤怒の形相で叫び、飛び跳ねるように立ち上がり、男の手から赤児を取り戻す。 救い主だろうと何だろうと、それとこれとは話は別だ。赤児を物のように扱うことは断じて許せなかった。
「――――っ」 我に返った男は、少女の剣幕に気圧され、がっくりと肩を落とした。自分でも何をしようとしたのか分かっていないのだろう。先程までの野獣のような威圧感はどこへやら、今はただ、姉に叱られた弟のように小さくなっている。
すると、少女の腕の中で赤児がむずかりだした。再び男に向かって小さな手をいっぱいに伸ばす。
「にぃに。あいおうう?」
「い、今、なんて言った!?」 その赤児の言葉に、男は弾かれたように顔を上げる。
「『兄さん、大丈夫?』って言ったんだよね~。よく言えたね。偉いね~」 少女は先程の怒りを忘れ、赤児に満面の笑みを振りまく。 その横で、男は、ただ呆然としていた。
男が呆然とするのも無理はない。まだ誕生日も迎えていない赤児が、二つの単語を並べて意味を成したのだ。しかもその言葉は、他者の心情を推し量って発せられたもの。それは脅威を超え、神秘的でさえあった。
『黒髪黒瞳 の死神』の伝承が、頭をよぎる。
男はまるで生涯の宿敵と対峙したかのような、射抜くような視線を赤児に投げつける。
「――っ!」 その視線の鋭さに、少女は息を呑みながらも、赤児を庇うように抱え込む。そして、男を真っ向から睨み返した。
ところが、肝心の赤児は、キャツキャとはしゃいで、大喜びだ。男の気迫を、元気を取り戻した証だとでも受け取ったのだろうか。
男は二人の対照的な反応に、精根尽き果てたように崩れ落ちた。




