12・言葉の始まりと、少女の決意
何もかもが、光の中にあった。
ひと気のない屋敷の裏庭でのこと。そびえ立つ大木の根元に、赤児を抱えた少女が座り込んでいた。微風が頬を撫でるたび、揺れる梢から柔らかな木漏れ日が降りそそぎ、二人を祝福するように包み込んでいた。
少女は腕の中の『幼き命』をじっと見つめていた。ぷっくりと膨らんだ艶やかな頬。その輝きに導かれるように、少女はそっと手を伸ばし、額にかかる濡れ羽色の髪を優しく撫でる。泥を啜るような苦難も、胸を掻き毟るような夜も、この温もりを前にすれば驚くほど遠い出来事に思えた。 ――自分の努力は、無駄ではなかった。その証が、いまここにある。
ふいに、視界が滲んだ。幸せを噛みしめていたはずなのに、知らず知らずのうちに頬を熱いものが伝い、赤児の着衣に小さな染みを作っていく。
「あれれ?……おかしいな」
少女は困ったように笑い、震える指先で目元を拭った。けれど、涙は止まらない。一つ壁を乗り越えても、その先にはまだ、気の遠くなるような不安が山積していることを知っているから。
それでも、少女は赤児を抱く腕に、そっと力を込めた。 「大丈夫。……大丈夫だよ」 それが自分へ言い聞かせているのか、腕の中の宝物に向けた誓いなのか、彼女自身にも分からなかった。
突然のことであった。
赤児が激しく身悶えした。薄い着衣を内側から引き裂かんばかりに小さな手を伸ばし、少女の頬を拭うようにして、告げた。
「まぁま!」
少女は動転し、赤児を取り落としそうになった。今まで「あー、うー」という無垢な母音しか漏らさなかった赤児の唇が、初めて『言葉』を紡いだのだ。それも、明確な意図を宿した響きで。
少女の胸に思いが錯綜する。言葉を発した成長への驚き、『まぁま』と呼ばれ自分を認識し、肯定してくれた喜び、しかし、最後には純然たる戦慄があった。この子に言葉を返さなければならない。この子に、世界を教えなければならない。 ――この子には、『教育』が必要だ。
生命を繋ぐことよりも遥かに困難で、過酷な義務が幕を開けた瞬間だった。
『教育』と言っても、高度な知識を授けるわけではない。少女とて読み書きすらおぼつかず、せいぜい青銅貨の数を数えられる程度の世間知らずだ。けれど、この閉ざされた世界には、他に言葉を交わす相手が、少女しかいない。
自分の痛みは、放っておいても知ることになるだろう。けれど、いつか誰かと出会ったとき、相手の痛みをおもんばかる優しい子になってほしい。苦しむ相手に手を差し伸べる子になってほしい。
差し伸べられた手に感謝を。「ありがとう」の言葉を。されど、向かってくる悪意には堂々と立ち向かう勇気を。
少女の祈りにも似た願いが、その細い肩に重くのしかかっていた。耐えきれず溢れ出した涙を、赤児は不思議そうに、けれど嬉しそうに小さな手で拭った。
「ありがとう……ありがとう」少女の声が震える。赤児は小さく、小さく首を傾げた。
「あいあおう?」
そのつたない模倣が、少女の心を震わせた。堰を切ったように、赤児に向かって話し始めた。それがどれほど無益で、とりとめのない独り言であったとしても、そうせずにはいられなかった。
「赤。花。きれい……」
震える指先で庭に咲いている一輪の花を指し、少女は世界に名前を与え始めた。
――――と、その時。




