1・聖女の出自と断罪の予感
名前のない黒髪の聖女。
その産声は、とある子爵邸の片隅で、誰にも聞かれることなく虚しく響くだけだった。
実母は、少額の借金の肩代わりとして半ば攫さらわれ、奴隷同然の身に落とされた女性だった。
彼女は子爵家で庭師の手伝いを命じられ、仕事にも慣れた、とある穏やかな昼下がり。互いに淡い想いを寄せる実母と庭師は、花々の手入れに勤しんでいた。慎ましくも確かな幸福に満ちた、つかの間の静寂がそこにはあった。
その静寂は唐突に破られる。通りすがりの子爵の目に留まった実母は、身勝手な権力になす術すべもなく、手酷い仕打ちを受けた。「お前は今日から屋敷内で働け。下賤な庭師の横に置くには惜しい」と、二人の仲睦まじげな様子への当てつけとばかりに、子爵は傲然と命じた。
その後、屋敷内の離れの一室で、幽閉同然の身となった実母は、日夜、子爵の再訪に怯えていた。再訪はなかったものの、やがて妊娠を知り、「もし、これが知られれば……」と、もはや言葉にならない恐怖に震えた。
実母は、膨らみ始めた下腹部を隠すように、古びた亜麻布をきつく巻きつけた。冷や汗が止まらない。もし、『わが子』の存在が知られれば、自分も『わが子』も容赦なく処罰されるであろう。望まぬ妊娠のはずなのに、生命の胎動を感じるたび、『わが子』への想いが募り、この命懸けの秘密は、逃れようのない現実として重くのしかかった。
この身に宿ったものが、どれほど『許されない存在』であるか、彼女には痛いほど理解できた。正妻が、夫の浮気相手の子を慈しむなど、あり得ない。それは正妻自身の存在価値を否定する行為なのだ。
本来であれば、貴族家にとって親族が増えることは、家門繁栄に直結する喜ばしい出来事のはずだった。だが、実母の身分はあまりにも低すぎた。
貴族社会では、結婚は個人の恋愛感情が入り込む余地のない、家同士の絆を強めるためのもの。何よりも家の存続と体面が優先される。正妻は感情ではなく理性をもって家政を取り仕切る能力が求められた。
たとえ子爵のような家柄であっても、夫が勝手に愛人を増やせるわけではない。正妻自身が認めた家柄の女性だけを側女として傍かたわららに置き、自ら進んで子爵に側室として宛てがい、生まれてきた子供たち共々、自らの管理下に置くのが慣習だった。嫉妬心など抱けば、『悪妻』の烙印を押されるため、正妻は常に冷静さを装い、家名永続のために後継ぎを確保するという役割を担っていた。
成人した男性実子が、子爵と正妻の間にいる。すでに限嗣相続げんしそうぞくを国王に奏上し、子爵位を含め、すべての財産を譲り受けることを承認されており、側室に男子が産まれようと、正妻の立場が脅かされることは一切ない。女子なら尚のこと、政略結婚の駒として使うだけだ。
だが、問題はそこではない。ほんの僅かの期間、貴族社会に触れただけの実母にも、直感的に理解できた戦慄すべき事実があった。
それは、子爵が何の利用価値もない女に、感情的な興味を示したという一点が、正妻の『自分が容姿で劣っていたのではないか』という屈辱感を刺激し、何よりも正妻の自尊心を深く傷つけるだろう、という確信だった。
正妻は、常に完璧な家政を求められてきた。感情を表に出さず、理性をもって夫を立て、後継ぎを産む。それが彼女の務めであり、誇りだった。嫉妬などという下劣な感情は、彼女の辞書にはないはずだった。
やがて、実母の下腹部はごまかしようもなく丸みを帯びていった。幽閉同然の身とはいえ、他者との接触がまったくないわけではない。その事態は、娯楽に飢えた口さがない連中の格好の話題となる。「相手は誰だ」と詮索し、働く必要のない実母へのやっかみも手伝って、噂はすぐに広まった。
そして、その事実は正妻の知るところとなった。
噂を耳にした瞬間、彼女の氷のような表情は一瞬だけ崩れた。子爵が、庭師の手伝い風情の女に手を出したという事実は、彼女の完璧な世界に落ちた、取るに足らないはずの汚点だった。だが、その汚れは、拭い去るにはあまりにも醜く、そして彼女の自尊心を深くえぐった。
その瞬間、彼女の心には、ある言葉だけが刻み込まれた。
『断罪せよ』




