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一度も休ませずに走らせた馬が地面に倒れ込む音が聞こえたが、テリウスは振り返らずに屋敷の扉を蹴破り、中へと侵入した。
武装した人間はほぼおらず、使用人らしき者たちはテリウスの姿におののき、すぐに隠れてしまった。
「アルル! どこだ!」
力の限り叫んでも返事はない。
最悪の事態が頭をよぎったが、ここまで周到な計画を立てて連れ去ったアルルをブランが殺すとは思えない。
(まさかブランが俺の始末まで考えていたとはな)
己の見る目のなさを嘆きながらテリウスは唇を噛みしめる。
復讐心を糧に将軍まで登りつめたテリウスのことを、ブランは見抜いていたのだろう。
だから国王の首という餌につられ、仲間になった。
この国をよくしたいというブランの理想を信じてしまったのだ。
(思えば、アルルを警戒したもの奴の言葉があったからだった……)
結婚が決まったとき、ブランは「アルルは父のお気に入りだから気をつけて」とテリウスを案ずるように声をかけてきたのだ。
その言葉がくさびのように心に残り、テリウスは彼女は国王が寄越した首輪だと思い込んでしまったのだ。
アルルの真実を知ったとき、ブランをもっと疑うべきだったのに。
彼女と心を通わし人として生きる幸せを取り戻したテリウスは、復讐のためではなく、アルルとの未来を生きたいと願うようになった。
だがブランは駄目だと言った。すでに計画は動き出しているし、アルルのためにも王族は根絶やしにする必要があると説得され、テリウスは引き受けてしまったのだ。
すべて終わらせて真実を話し、今度こそ真っ当に生き直すのだと。なのに。
(奴の部下に切りつけられるまで、真実を見抜けなかった俺はなんと愚かなのだろう)
自分ことすべてを消し去るつもりだったのだと理解したテリウスは、ブランの部下を切り捨て後、嫌な予感に襲われた。
(あいつがアルルを俺から遠ざけたのは、何のためだ)
屋敷に戻ったときには、アルルを奪われた後だった。
方々手を尽くして探したが、アルルの居場所どころかブランの居場所さえつかめない日々が続いた。
王族を掃討した後処理もあり、身動きが取れなかったせいもあり、ここを見つけ出すのに数日かかってしまった。
アルルがいない絶望とふがいなさに奥歯を噛みしめ、テリウスは階段を駆け上がる。
奥の部屋を目指せば、外側から鍵のかけられた部屋が見えた。
鍵を壊し、扉を押し開ければ鼻を指す刺激臭が漂ってくる。
「アルル……!」
部屋の奥に置かれた長椅子に、アルルがいた。
掛けより抱きしめても反応はなく、目はうつろで、ここにテリウスがいることにすら気がついていないのがわかる。
「アルル……! どうしたんだ! っ、この匂い、は……」
妙な刺激臭に混ざり甘い蜜のような香りがアルルの全身から香っていた。
その正体に気がつき、テリウスは全身の血が沸騰するような怒りに襲われる。
「まさか、ブランめ……あの薬をアルルに使ったのか!!」
特別な花から生成された薬は、戦場で正気を保てなくなった兵士を呼び戻すために使われる。痛みや苦しみの感情を増幅させ、恐怖で人の心を操る、恐ろしい薬だ。
「なんだ、随分と早かったね」
「……ブラン! 貴様!」
どこか間延びした声に振り返れば、にんまりと笑うブランが扉にもたれるようにして立っていた。
「なぜアルルを壊した!」
強力な作用は心を壊し、薬がなければただの人形に成り果ててしまう。元に戻す術はないというのに。
「素直に僕のものにならないからさ。お前のせいだよテリウス」
テリウスを睨みつけながらかたるブランの表情は醜く歪んでいた。
「かわいそうなアルル。素直に僕を選んでいれば、そんな姿にならずに済んだのにね」
「お前……アルルに何をした!」
「何って……勘違いしないでくれよ。僕は父上のような馬鹿ではない。僕たちは兄妹だよ。ただ僕はアルルに側にいて欲しいだけなんだ。美しく清らかな僕のかわいい小鳥でいてくれればそれでいいんだよ」
うっとりと目をとろけさせる姿は醜悪そのもので、なぜこんな男を信じていたのかとテリウスは自分の頬を殴りつけたくなった。
「最近じゃ薬無しでは喋れなくなってるんだ。そうだ、よければ一瞬だけ正気に戻してあげようか? きっと君を見たら恐怖で大暴れするだろうけど」
「な、んだと?」
けらけらと楽しそうに笑う姿に怒りがこみ上げる。
「今のアルルは、お前に疎まれた記憶しか残っていない。お前に散々冷たくされ、嫌われ、殺されそうになったから、ここに逃げ込んできた。そういう風に作ったんだ」
「……!!」
あまりの衝撃にテリウスは息をするのも忘れてアルルを見つめた。
「悲しいなぁテリウス。最初から優しくしておけばそんな記憶を植え付けられずに済んだのに」
「……貴様!」
「あははは。僕のアルルを奪った罪だよ、テリウス」
心底楽しそうに笑うブランを睨みつけるが、それは無意味なことだ。
たとえブランを殺してもアルルは二度と帰ってこない。
「アルルは一生僕の傍に置いておくよ。たとえ死んでもお前には渡さない」
守れなかった後悔に心が黒く染まっていく。
(アルルが回復する可能性は、もう……)
使われた薬は心も身体も蝕むものだ。元に戻ったという症例は聞いたことがない。
もしも回復したとしても、アルルがすべてを思い出したらどうなるか。
優しい彼女が実の兄に向けられた感情に耐えきれるだろうか。
それならばいっそ、ブランに植え付けられたテリウスに冷遇されて孤独だったという記憶を真実と思ってくれた方がマシだ。
「テリウス。お前には死んでもらうよ。救国の英雄には国の礎になってもらわなくっちゃ」
けらけらと笑うブランの耳障りな声に、はらわたが煮えくり返りそうだった。
自分たちが何をしたというのか。
肩を寄せ合い、ただ身の丈に合った幸せを噛みしめていられればよかったのに。
きっとブランは自分たちを逃がさない。逃げたとしても安寧などない。
テリウスが欲しかったささやかな幸福は、壊れてしまった。
心の中に残っていた小さな灯火が消えていくのがわかった。
「ああ……」
絶望に染まったつぶやきと共に、導かれるように、テリウスは腰に下げていた剣に手をかけた。
これまで戦で何人もの敵を切り捨ててきた穢れた剣しか手元にないことが悔やまれる。
「すまないアルル」
鞘から抜きだした剣が鈍く光る。
美しいアルルに傷を付けるためらいは一瞬だった。
「お前……やめろ!!」
テリウスが何をしようとしているか察したブランが叫ぶが、止められるはずがない。
大きく振り上げた剣の切っ先を、アルルの胸に突き立てる。
「あ……」
か細い声が小さな唇からこぼれた。
薄い身体は易々と貫けてしまった。
「アルル!!!!!!!!!!」
ブランの悲鳴が響いた。その声を聞かせたくなくて、アルルの身体をきつく抱きしめる。
こんな地獄に置いておけない。だったらいっそ、この手で葬ってやりたかった。
「俺を憎んでいい。恨んでいい。すべては俺の罪だから。すぐに俺も逝く」
一人になどしない、そう誓いながら呟けいた瞬間、力の抜けていたアルルの身体がわずかに身じろぎしたのがわかった。
「……さま……」
「……アルル?」
耳に届いた声に思わず顔を上げれば、腕の中でアルルがテリウスを見ていた。その瞳にわずかな光が宿っているのがわかる。
「旦那様……愛しています……」
まるで今起きていることが夢であるかと錯覚するかのような、優しい笑みがテリウスに向けられた。
瞬きをすればここはいつもの寝室で、自分は腕に最愛の妻を抱いて目覚めた幸福なただの男に戻れるような気がした。
だがそれはすべてはかない幻だった。
「アルル……! アルル!!!!」
アルルの身体はどんどん冷たくなっていく。自分で手を下したくせに、アルルを失ったことが悲しくて辛くて呼吸すらまともにできなくて。




