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(これは一体誰なの)
いつも優しく笑顔を絶やさないブランはどこに行ってしまったのか。
「……まあいい。国もアルルも、僕の物になるんだから。すべてが正しい形になるんだよ」
ひとしきりわめいて気が済んだのか、ブランは急に背筋を伸ばした。
そしていつもの兄らしい笑みをアルルに向ける。
先ほどの姿はひどい夢だったのかもしれないと錯覚するほどに、優しい笑顔だ。
「安心してアルル。あいつはみんな死ぬから。テリウスもだよ」
「……えっ」
まるで明日の天気は雨だから、というようなさらりとした口調だった。
「今頃、あの城では僕の忠実なる部下がすべてを掃討している頃だ。テリウスには救国の英雄として散ってもらう計画だったんだよ。本当になんて馬鹿で純粋な男だろうね。僕の言葉を信じて、先陣を切って攻め入ってくれた。仕事が速くて助かるよ」
にこにこと嬉しそうに語る言葉に、吐き気がこみ上げてくる。
「お前のことがなければもう少し生かしてやってもよかったんだけどね……まあ、面倒ごとは一度で終わらせた方がいいからちょうどよかったのかもしれない。クーデターを起こした張本人であるテリウスは国王軍と相打ち。生き残った僕が、国を建てなおす。うん、いい筋書だろう? そしてお前は夫を失った悲劇の王女として、僕の傍らに侍っていればいい。一生大切にしてあげるよ、愛しいアルル」
「いやぁ!」
アルルは渾身の力でブランを突き飛ばしていた。骨張った細い身体は簡単に床に転がった。
「いてて……ひどいな、アルル」
身体をさすりながら立ち上がるブランは、怒る風でもなくにんまりとした笑みを貼り付けていた。
おぞましさに身体がわななく。
「まさか僕を拒むのかい?」
「っ、私はテリウス様の妻です! お兄様のものではないわ!」
「…………」
「テリウス様……テリウス様を助けないと……!」
ブランの言葉が本当なら、今頃テリウスは危険な状態だ。
今すぐ城に駆けつけて助けなければ。
賭けだそうとするアルルの背中に、ブランの笑い声が覆い被さってくる。
「お前が行ってなんの助けになるんだ? ここから城までどうやって行く? ああ、本当に愚かでかわいいなアルルは」
「っ……!」
自分には何もできないとわかっていた。それでも、ここにいるよりはずっとマシだとアルルは走り出そうとした。だが。
「え……」
がくりと足から力が抜けていき、気がついたときにはその場にへたり込んでいた。
何が起こったかわからず、呆然としていると、ブランがわざとらしく足音を立てながらゆっくりと近づいてくる。
「本当にかわいいよアルル。僕がどうしてお前をここに連れてきたと?」
「い、いや……」
こちらに手を伸ばすブランは天使のように慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「僕の身体は本当に役立たずでね。なんとか人並みに生きるために、僕はたくさん勉強したんだ。他国からたくさんの薬も仕入れた。その中に面白い薬に出会ったんだ」
脈絡のない言葉なのに、なぜか耳を傾けてしまう。
身体の芯がぐにゃりと溶けて、自分と空気の境界が曖昧になっていく。
「飲めばただの鎮静剤だけど、焚きしめて吸引すると全身の神経が麻痺するんだよ。僕のように常飲してると耐性がついて平気なんだけどね」
薬の匂いはブランから香ったのではなく、焚きしめられていたせいだとようやく気づく。
「もう一つ、いい薬があるんだ」
液体の入った小瓶を手のひらでもてあそびながら、ブランが近づいてくる。
逃げ出したいのに、身体に力が入らない。
押し倒され、口に液体をねじ込まれる。喉が焼けそうに苦くねっとりとした味に涙があふれた。
「これはね、負の感情を増幅させ、記憶や意識を書き換えることができるんだ。便利だろう?」
(記憶……を、書き換える……?)
「ただちょっと副作用が強くてね。使うとちょっとだけ壊れてしまうんだ。でも安心して。ちゃんと僕が大事にしてあげるから」
世界がぐらぐらと揺れ、ブランの声が何重にもなっていた頭の中でこだまする。
「アルル、よく聞いて。君は父の命令でテリウスに嫁いだ。だがテリウスはお前を嫌っていただろう」
『お前を愛することはない』
初夜の場で、そう告げられた鮮烈な記憶が蘇ってくる。
幸せになれると信じていた願いを叩き潰された悲しみが今になって心を染める。
「テリウスはずっとお前を拒み、嫌い、憎んですらいた」
顔を合わせるたびに顔をしかめられた。食事を一緒に食べてくれなかった。
寂しくて辛くて逃げ出したいほど悲しかった。
「かわいそうだね。お前はずっと嫌われていたんだよ」
(違う! テリウス様は私を愛してくださった! なんてひどいことを言うの!)
心と感情が切り離れ、どうにもならなくなっていく。
「お前が疎ましくてたまらない男だった。お前はずっと愛されていなかった」
(ちがう……ちが……)
「かわいそうなアルル。お前はずっと虐げられ、苦しめられていた。お前はあいつに死ぬほど憎まれていたんだよ」
(…………)
世界がとっぷりと闇に染まった気がする。何も考えられず。指一本まともに動かない。
「やっと手に入った。アルル、君は僕のものだ」
嬉しそうな誰かの声を最後に、アルルの世界から光が消えてしまった。




