25
書斎で書類にペンを走らせていたネロは、ふと筆を止める。
「ビアンカ」
油断するとつい口からこぼれてしまう愛しい人の名前。
呼んだだけでも胸が苦しくなるのに、ここ数日はまともに顔も見ていない。
顔を見ればすぐに執着心が顔を出して、ビアンカにひどいことをしてしまいそうで怖くてたまらなかった。
彼女の安全のためにも手放すわけには行かない。せめてネロの頭が冷えるまでは距離を置いておこう。
そう考えて顔を合わせないようにしていたら、やめ時を見失ってしまった。
「今さら、どんな顔をして会えばいいのか」
散々傷つけてしまった。今度こそ守るといいながら、泣かせて苦しめて。
果たしてこれは愛なのだろうかとさえ思うが、今さらビアンカを手放すことなどできはしない。彼女が側にいない人生など考えられないし、自分以外の誰かと生きるだなんて許されないことなのに。
「我ながらどうかしているな」
深いため息を吐き出したネロが再び書類に向きなおうとしたとき、扉を叩く音が聞こえた。
「旦那様。お茶をお持ちしました」
聞こえてきたのはメリーの声だ。
窓の外に目をやれば、仕事をはじめてからそれなりの時間が経っていることに気がついた。
ビアンカのことを考えないようにするために、つい逃避するかのごとく集中してしまってよくない。
「助かる」
入室を促す声をかければ、扉が開き、続いてワゴンの音が聞こえてきた。
お茶だけなのに大げさだなと思い顔を上げた瞬間、ネロはひゅっと息を呑む。
「な、ぜ……」
「ネロ様。お茶にしましょうか」
ワゴンを押すメリーと共に入室してきたのは、メイド服に身を包んだビアンカだった。
「メリー。協力して欲しいの」
就寝前。自室で寝る支度を調えてもらっていたビアンカは思いきってメリーに声をかけていた。
「ネロ様とちゃんとお話がしたいの。私、このままなんて嫌だわ」
ネロが何を考えているかちゃんと知りたい。曖昧なままにしてきた前世と向き合い、今世はちゃんとした夫婦になりたい。
そして、ネロに好きだと伝えたかった。
アルルではなくビアンカとして自分を見て欲しい、と。
「お嬢様……! 承知しました! このメリー、お手伝いいたします!」
駄目だと言われるかと思ったが、予想に反しメリーは目に涙を浮かべて感激したように何度も頷いた。
「私どももずっと心配していたのです。ネロ様もずっとお辛そうにしていますし、ご命令とはいえお二人を引き合わせないようにするのは心苦しくて」
「メリー……」
悲しげに目を伏せるメリーにまわりのメイドたちも頷いている。
「それに私どもも責任を感じているのです。お二人が喧嘩をされているのは、私たちがプルメリア様をお屋敷に入れてしまったからでしょう?」
プルメリアの名にビアンカはびくりと身体を震わせる。
アルルそっくりなネロの従姉妹であり、婚約者候補だった女性。美しいが、ビアンカはなぜか彼女を恐ろしいと感じた。
ネロの様子がおかしくなったのは、プルメリアに会った後からだ。
「ネロ様からもきつく叱られたのです。今後は何があってもプルメリア様を通すな、と」
「まあ……どうしてそこまで? 従姉妹だとお聞きしたけれど」
恐る恐る訪ねれば、メリーが困ったように眉を寄せた。
「わかりません。どうしてかネロ様はプルメリア様とは関わりたくないご様子で……もっと気をつけておくべきでした」
「しょうがないわ。あの方は皇族。逆らえないわよ」
(それに、なんだか逆らえない圧があるのよね)
さすがは皇族と言うべきか、対面したプルメリアは堂々としていて従わなければならないような気持ちにさせる雰囲気をまとっていた。自分はまだネロで耐性がついていたし、立場は弱かったが前世で王女だった記憶もあったことから対応できたが、メイドたちで彼女を拒むのは至難の業だろう。
「それに私とネロ様のことにプルメリア様は関係ないわ」
きっかけのひとつではあるが、プルメリアが何かしたわけではない。かたくななネロの態度と、問題を後回しにし続けたビアンカのせいでここまでこじれてしまった。
「私たちには話し合いが足りてなかった。これからもためにもちゃんと解決したいの」
「お嬢様……!」
メリーが瞳を潤ませて両手を組み合わせた。
「だから、少しだけ協力してくれない? ネロ様に逆らうのは難しいとは思うんだけど……」
「なんなりとお申し付けください。ここにいる者たちは皆、お嬢様の味方です」
「そうです。同じ女性として、お嬢様には幸せになっていただきたいです」
「お任せください!」
「みんな……ありがとう!」
メイドたちの励ましの言葉に、ビアンカは頬をじんわりと赤くしたのだった。
メリーたちと相談して立てた計画は単純なものだった。
ネロは忙しくしているものの、毎日城に行っているわけではないらしい。
ビアンカに気づかれないように屋敷の書斎にこもり黙々と仕事していることもあるそうだ。
その日を狙い、メイドたちに手助けしてもらって書斎に突入しようというものだ。
執事や護衛の騎士はネロの命令に忠実な者ばかりなので、ビアンカが書斎に近づけば止められるのは目に見えていた。
だからメイド服に身を包み、帽子とメガネで顔を隠し、さも新人メイドのような風体でここまでやってきたのだ。
メイドたちの華麗な連係プレーにより、執事や護衛たちの意識を絶妙にそらし、ここまで問題なくたどり着けた。
書斎に入るまでは正直緊張していた。
もし顔を合わせた瞬間、ネロに拒絶されたら。逃げられたら。だが。
「ようやくお会いできましたわネロ様」
ビアンカの存在を認めたネロは大きく目を見開き、ぽかんとした表情で固まって動かなくなった。
目の前の事象が信じられないと表情に描いてあるだけで、ビアンカを嫌がっているそぶりはない。
大丈夫だ。そんな確信めいた気持ちが胸を満たす。
「どうして……」
「協力してもらったんです」
「協力……メリー、どういつもりだ」
目を細めたネロが冷たい口調でメリーに問いかけた。
「ネロ様」
一歩前に出たメリーは静かに頭を垂れると、すっと背筋を伸ばした。
「メイドとして主の命令に逆らったことをお詫びいたします。ですが、このままお二人がすれ違ったままなのはどうしても受け入れられなかったのです。どうかお嬢様のお話を聞いてさしあげてください」
「……」
メリーの訴えに、ネロも思うところがあるのか気まずそうに瞳を泳がせる。
「他のメイドたちは私の指示で動いたに過ぎません。罰するならば私だけにしてくださいませ」
「っ! ネロ様、これは私がお願いしたことです。メリーたちに咎はありません!」
「いいえお嬢様。使用人の身で主に逆らったのですから覚悟の上ですわ」
にこりと微笑むメリーの姿に、ビアンカはすがるようにネロに視線を向けた。
ネロは、はぁと困ったようにため息を吐く。
「……まったく。こんなことでメイド長を罰するわけにはいかないだろう。わかった、ビアンカと話をしよう。これでいいか」
「……! はい!」
どうやらメリーたちが罰せられることはないらしい。
ほっと胸をなで下ろしていれば、メリーがこちらを向いた。
「お嬢様。頑張ってくださいね」
「ええ。ありがとう。みんなにもよろしく伝えてね」
「もちろんです」
静かに部屋を下がるメリーを見送れば、今度こそ本当に二人きりの対面だ。




