21
雪のうっすらと積もった庭園をアルルはぼんやりと歩いていた。
枯れ枝には残らず雪の花が咲き、歩くたびに雪を踏み締める音が静かな庭に響く。
少し離れた場所には屋敷のメイドと護衛の兵士たちがいるが、皆、アルルが静かな時間を過ごしたいのを理解してくれているので何も言わず見守ってくれていた。
人は冬の景色を物悲しいというか、アルルはこの静寂を愛していた。
まるであの人のようだから。
「あ……」
視界の端を何かがかすめた気がして空を見上げれば、白い雪の粒がちらちらと舞い降りてきている。
きっと、明の朝には外出できないほどに雪が積もることだろう。
「奥様」
メイドの声にアルルは足を止める。そろそろ戻らなければ叱られる時間になったようだ。
屋敷に戻るため振り返ろうとした、その時だった。
あたたかな何かが肩にかけられる。ふわりと鼻をかすめたのは土と草の匂いだ。決して不快ではない、優しい自然の香り。
口元を緩めながら首だけを動かして後ろを見れば、そこには無表情のままのテリウスが立っていた。
「何をやっている。風邪を引くぞ」
「ごめんなさい」
条件反射のように謝れば、テリウスが眉をきゅっと寄せた。
「簡単に謝るなといつも言ってるだろう」
「ご……はい……」
叱られてしまったと頭を下げれば、はぁと短いため息が聞こえる。
また失望させてしまったかもしれない。
せっかく穏やかな気持ちだったのにと心を沈ませていれば、テリウスの手がアルルの肩を抱いた。
「怒っているわけではない」
その声は泣きたくなるほどに優しい。
「あなたは俺の妻なんだ。簡単に謝る必要はない。まっすぐに顔を上げていればいい」
肩をすっぽりと包む大きな手の感触に心臓がきゅうっと跳ねる。
顔を上げれば、テリウスがまっすぐにアルルを見ていた。
表情こそ感情を抱かせない冷たさがあるが、美しい瞳には柔らかな熱がこもっているのがわかる。
「戻ろう。そろそろ夕食の時間だ」
「はい」
肩を抱かれたまま屋敷に戻る道は、雪の中だというのにひどくあたたかく感じられた。
パチリと目を開けた瞬間、ビアンカは自分がどこにいるのかわからずひどく混乱した。
しばらくまわりを見回した後、ここがネロの屋敷にある自分の部屋であることをようやく理解する。
本を読んでいて頭痛に襲われ気を失ったのだ。
きっと誰かがベッドに運んでくれたのだろうか。
窓の外はすでに夕闇に沈んでおり、かなり長い時間眠っていたことがわかる。
自分の状況がわかると、次に思い出すのは先ほどまで見ていた光景のことが頭を占めた。
(さっきのは、ゆめ……?)
雪の中を並んで歩くアルルとテリウスは、まるで想いの通じ合った夫婦のようだった。
都合のいい幻想と言われた方が納得できるのに、なぜかあれは現実だったと魂が訴えている気がする。
だがビアンカはそんなことを覚えていない。アルルだった頃、テリウスとは会話らしい会話などしたことはなかったはずだ。
(一体何なの)
わからないことが多すぎる。
ブランことを思い出そうとすると、再び頭が痛くなった。
「っ……」
こめかみを押さえて痛みをごまかそうとしていると、部屋の扉がノックされ、返事をする前に開かれた。
「……ビアンカ!」
ひどく慌てた声を上げて部屋の中に入ってきたのはネロだ。
ネロはビアンカが起きていることに気がつくと、血相を変えて駆け寄ってきた
そして床に膝をつき、ベッドに横たわるビアンカの顔をのぞき込んでくる。
「倒れたと聞いて驚いたよ。大丈夫なのか?」
「ちょっと頭痛がしただけですよ」
「だが、気を失うなんて……どこか悪いのかもしれない。医者を呼んであるから、診察してもらおう」
「そんな、大げさな」
ネロの慌てぶりにビアンカは苦笑いしてしまう。
今にもビアンカが死んでしまいそうなほどの取り乱しぐあいだ。
「大げさなものか。君に何かあったら、俺は……」
「ネロ様……」
「もう二度と、失いたくないんだ」
絞り出すような声には後悔が滲んでいるように聞こえた。
二度と、という言葉にネロに殺された瞬間の記憶が蘇る。
(え……?)
その光景はこれまで繰り返し見てきたものと少し違っていた。
以前まで見えていたのは、冷酷な表情のテリウスが、アルルに剣を振りかざす姿だ。
だが、今、脳裏をかすめたのは涙を流しながら剣を振り上げているテリウスで。
(何……? っ……!)
再びひどい頭痛がビアンカを襲った。
思わず顔をしかめれば、ネロが顔色を変えてビアンカの身体にすがりついてくる。
「ビアンカ!?」
「う……」
じんじんと頭の芯がしびれていく。
これまで信じていたものが音を立てて壊れていくようだ。
アルルは本当にテリウスに殺されたのだろうか。
そんな疑問が頭をかすめた。
苦しむビアンカの身体をネロは優しく抱きしめ、いたわるように背中を撫でてくれている。
「大丈夫か、ビアンカ」
『大丈夫か、アルル』
テリウスの声とネロの声が重なって聞こえた。
(私、このぬくもりを知ってる……?)
ビアンカとしてではない。アルルだった頃にも、今と同じように抱きしめられていた気がする。
嫌われて冷遇されたと信じていた自分のことが、急に信じられなくなった。
ネロの一途な愛情が演技でも計算でもなく、本気なのだとしたら。
(確かめなきゃ)
頭痛をこらえながらビアンカはネロへに顔を向ける。
今にも泣きそうに顔を歪めるネロを見つめ、少しの逡巡のあと口を開く。
「ネロ様。私たちに本当は何があったのですが。どうしてお兄様が皇帝に……? どうしてあなたは……」
私を殺したの。
一番聞きたかった言葉は口にすることができなかった。




