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2025恋愛年表

シュレディンガーの港

作者: 本宮愁

 潮風が苦く鼻についた。独特の重さを含んだ空気の不快感に、ミラはハンカチで口元をおさえる。しらなかった。海って、爽やかな朝陽の輝きを反射して優雅にゆらめく見た目ほどには、美しい香りをしていないのね。


 乗船予定の旅客船はすでに停泊していた。

 数刻もすれば、あの船が私を連れ出してくれる。


 ここではないどこかへ。

 私が私のために生きられる場所へ。


 今ごろ婚前旅行の道中で花嫁が失踪したとの報せが届いて、屋敷は大騒ぎになっているにちがいなかった。行き先は誰にも告げていない。このまま新大陸行きの船に乗ってしまえば、お父さまも私を諦めるだろう。


 ごめんなさい。お母さま。

 貴女も耐えた苦しみなのに。

 私は一人こうして逃げ出そうとしている。

 貴女から人生を奪っておいて、私は――。


 最低限の身の回り品を詰め込んだ鞄の持ち手を硬く握る。暗い顔をしてはだめ。あとすこし、目立たないように時間をつぶさなくてはいけない。活気に溢れた港の町娘とはいかずとも、せめて旅慣れた商家の令嬢に見えているといいのだけど。


 海を渡った先のことも考えなくては。偽りの身分証とチケットの手配で路銀は使い尽くしてしまった。手荷物の中に資金に換えられそうなものは、ほとんど残っていない。……たった一つ、身につけることも手放すこともできずにポケットの底に眠らせた、母の遺品(アミュレット)を除けば、もう。


「――様」


 湿った風が吹くたびに、長い髪が暴れる。やはり船に乗る前に、バッサリと切り落としてしまうべきだろうか。髪もアミュレットも売ればお金になるとわかっている。わかっては、いるけれど。心のどこかでまだ決断をしかねている自分がいた。


「お嬢様」

「ああもう! お静かになさい。私、今は集中したい、の」


 耳馴染んだ呼びかけに、ミラは思わず使用人を叱責するように答えてしまってから、はたと我に帰る。しまった、おかしなことを口走ってはいないだろうか。いえ、それよりも前、この方は、なぜ私を。


「あなた――」


 振り向いた先にいたのは、車椅子に座った老婦人だった。


「可愛らしいお顔が台無しですよ、お嬢様」


 どこかおっとりとした品のある口ぶりで、老婦人は親しげに話しかけてくる。花柄のヘアターバンに包まれたシルバーブロンドの巻き毛にも、目元と頬にくっきりと笑い皺の刻まれた顔にも、見覚えはなかった。


「私は、お嬢様などではないわ」


 ミラを『お嬢様』と呼ぶ人間は、この港にはいないはずだった。まさか、お父さまのよこした迎えだなんてこと、ないわよね。緊張した面持ちで、ミラは鞄の持ち手を硬く握る。


「あらまあ。わたくしにはわかりますとも。お嬢様。こちらへきて、素敵なお顔をよく見せてくださらない?」


 風が吹いて、老婦人の車椅子が不安定に揺れた。


「あぶない――!」


 ミラは思わず駆け寄って、正面から覆い被さるように老婦人の車椅子を支えた。そうでもしなければ、そのまま風に流されて、老婦人は海の中に消えてしまいそうな気がした。


 ああ、よかった。でも、鞄を置いてきてしまったわ。

 とっさに手放してしまった荷物を振り返ろうとしたミラの頬に、老婦人の手がそっと触れた。


「わたくしの可愛いお嬢様。お嬢様が、帰っていらした。マルグリットは、お嬢様のお帰りをずっとお待ちしておりました」


 大切な宝物に触れるように、老婦人の手はミラの頬を優しく撫でた。深い皺とシミの刻まれた手のひらの柔らかさに、ミラは戸惑った。

 この方、私を誰かと間違えているんだわ。


「いいえ、私は」


 あなたのお嬢様ではないのよ。ミラが否定しようとしたときだった。


「失敬。妻がお邪魔をしましたかな」


 穏やかな声色で割り入った男性は、ツバ付きの帽子を目深にかぶり、仕立ての良さがひと目でわかる上等な背広を身につけていた。

 口元にたくわえられた髭が白い。

 見たところ、お父さまよりも年嵩の、お祖父さまと同じくらいのお歳かしら。

 磨き上げられた革靴を履き、白手袋に覆われた手で軽やかに杖をつく。その立ち姿からは、まさしく老紳士とでも呼ぶべき品格が漂っていた。


 ミラは湧き上がる緊張を押し隠して、経緯を説明しようとした。


「風が、強くて……」

「ああ、車椅子を」


 柔和な微笑みを浮かべながら、ツバをつまんで脱いだ帽子を胸元に添え、老紳士は優雅な所作で一礼した。


「どうもありがとう。親切なお嬢さん。お名前をお伺いしても?」

「お嬢さんは、やめてください。私はミラです」

「ミラ嬢。素敵な名前だ。私はサミュエル。彼女は妻のマルグリット」


 老紳士サミュエルはそう言いながら、ミラに変わって、マルグリット夫人の車椅子のハンドルを握った。


「やあ、可愛い人。今日は遠くまで出掛けていたようだね」

「サミュエル、お嬢様ですよ! こうしてお嬢様が帰ってきてくださったというのに、なんですか、そのよそよそしい態度は」


 ミラはあわてて否定した。


「私は『お嬢様』なんかじゃないんです!」

「わかっていますとも」


 サミュエルはうなずいて、上着の裾が地面に触れることも厭わず車椅子の隣に膝をつき、夫人の手を優しく握った。


「すまないね、マルグリット。私がボケていたようだ」

「貴方はお嬢様に冷たすぎるんです」

「そうだったかね」

「そうですよ。この間だって、屋敷の使用人は揃ってお嬢様の誕生会をお祝いしたのに、貴方はいなかった」

「ああ、そうだね。きみの言う通りだ」


 サミュエルは穏やかに微笑み、夫人の言葉をひとつも否定することなく受け止めてから、ミラに囁いた。


「よろしければ少しの間、妻の思い出に付き合ってはいただけませんか?」

「……船を待つ間だけなら」


 いずれにしろ出航まで、この港で時間を潰さなければならない。若い娘が一人で待つより、この老夫妻といた方が目立たないかもしれないわ。打算的な狙いも兼ねて、ミラはサミュエルの頼みを受け入れることにした。


 ◆


 ミラはサミュエルと一緒に、夫人が語るとりとめもない思い出話に耳を傾けた。


 お嬢様はよく使用人の目を盗んでお屋敷を抜け出してしまったこと。お身体が丈夫ではないのに、無理をした翌日はいつも発熱して、マルグリットは気が気ではなかったこと。お嬢様がくださったお揃いの御守りを今でも大切に持っていること――。


 夫人は、嬉しそうに瞳を輝かせて、ミラの知らない『お嬢様』の話をつづけた。会話の端々に出てくる時代がかった単語から、夫人の語る『この間』とは、三十年近く前の出来事らしいとわかった。


 ひとしきり話し終えると、夫人はうつらうつらと船を漕いで、やがて眠ってしまった。


 サミュエルは、海風から守るように、夫人の痩せた身体をブランケットで丁重に包み込んだ。それからミラに向き直って、夫人の話に合わせて『お嬢様』を演じたことへの感謝を述べた。


「実のところ妻はもう私のことを覚えていないのですよ」


 サミュエルが切り出したのは、意外な言葉だった。


「お嬢様の記憶は、彼女にとって何よりも大切な宝物だったのでしょう。私と過ごした時間のほとんどを忘れてしまっても、昔の思い出だけは色鮮やかに覚えているらしく……ミラ嬢のような年頃の娘さんを見かけると、どうにも、若かりし頃に女中頭として仕えたらしい、どこぞのお屋敷のお嬢様の話をしたがってね」


 他人事じみた言い回しを、ミラは奇妙に思った。


「つまり貴方は、そのお屋敷にはいなかったの?」

「私とマルグリットが出会ったのは、お屋敷が戦火に焼かれた後でした」


 サミュエルは、さらりと告げた。

 ミラは生まれる前に、海の向こうであったという大戦のことを思い出した。

 この港町も、一度は焼かれてしまったのかしら。


「ごめんなさい。私、よく知らなくて」

「いやいや謝ることなど。それはとても喜ばしいことですよ。我々が苦労した甲斐がある」

「貴方も、戦争に?」

「ええ。これでも若い時分は、泣く子も黙る凄腕諜報員として名を馳せたものです!」


 サミュエルは大げさに胸を張り、悪戯っぽく瞳を輝かせて言った。『お嬢様』のことを語る夫人そっくりの、無邪気な表情だった。

 ()()()()()()()()とは。

 世情に疎いミラにも、いい加減なことを言われているとすぐにわかった。


「からかっていらっしゃるのね?」

「はっはっは。マルグリットとは仕事を通じて知り合いましてね。今の彼女は私をお嬢様の屋敷の使用人だと思い込んでいますが、同僚という点では間違ってはいないのですよ」

「ご婦人も同じ仕事をされていらしたの?」

「ええ。二人で多くの国々を飛び回りました。彼女は、それはそれはたくましい女傑でしたよ。四方八方から襲いかかってくる敵を、千切っては投げ、千切っては投げ」

「やっぱり、からかっていらっしゃるでしょう?」


 ミラは口を尖らせた。

 見かけによらず、この御仁は冗談がお好きなのね。いかにも上流階級ですと言いたげな風格を備えているのに、寡黙なお父さまや厳格なお祖父さまとはまるでちがう人懐っこさがあって、なんだか困惑してしまう。


「おや、気分を損ねてしまいましたかな。お詫びと言ってはなんですが、ひとつミラ嬢に助言いたしましょう」


 サミュエルは声を低めて囁いた。

 

「市井の娘に見せかけたいのなら、言葉を改めた方がいいね」

「まあ! ……嬉しいわ。知っていらして? こんなふうに良家の子女に()()()()のが、最近の流行りなのよ」


 とっさに考えた言い訳は、とても自然に口にできたはずだった。


「それはそれは。興味深いお話ですが、貴女の発音は()()()()()のです」


 思いがけない指摘をうけて、ミラは固まった。母国も、この港町も、公用語は同じはず。ミラの耳には、今もまったく違いなどわからない。


「嘘をつくなら、うまくつきなさい。真実と見分けがつかなくなるほどに――。内陸の旧家の娘さんが一人旅をしている事情を、お尋ねしても?」


 ミラをじっと見つめるサミュエルの言葉には、確信がこもっていた。なんてこと。すっかり見通されているわ! ミラはサミュエルの視線から逃れるようにうつむき、唇を噛んだ。


 もうダメかもしれない。

 やっとここまで来たのに。

 あと少しだったのに。

 連れ戻されたらどうしよう――。


「下を向いてはいけませんよ、ミラ嬢。目線はこちらに」


 サミュエルは、杖の持ち手をスッと差し出して、ミラの顔を上向かせた。その手つきは優しくも、どこか逆らいがたい重みを感じさせた。


「目立ちたくないのでしょう? そのまま、どうぞ落ち着いてお聞きなさい。私は貴女にできるお礼の方法を思案しているだけなのです」


 先ほどまでの世間話とまったく変わらない、軽快な口調だった。悪戯っぽい微笑みを浮かべるサミュエルに、ミラはポツリと呟いた。


「……貴方って、本当に諜報員なの?」

「まさか。妻を探して連れ帰るのが日課の、しがない老人ですとも」


 冗談めかした言葉にも、ミラは硬い表情を崩さなかった。

 サミュエルは口髭を撫でながら付け加えた。


「ふむ。私はこれから妻を家まで送らなければならなくてね。ご一緒に散歩でもどうですかな?」


 ◆


 しばし、ミラは黙りこくったまま、雛鳥のようにサミュエルの後ろをついて回った。

 マルグリット夫人の車椅子を押して歩くサミュエルに、港町の人々は道を譲りながら陽気な声をかけた。


「やあサミュエル。奥方は今日も素敵な夢を見ているかい?」

「ええ、おかげさまで」


 サミュエルは、うたた寝する夫人を起こしてしまわないように、町中の段差を避けながら、ゆったりとした足取りで車椅子を押しつづけた。


 市の並ぶ通りに出ると、果物と野菜の載った荷車を引く壮年の男が、土に汚れた無骨な手でサミュエルの肩を叩いた。


「よ! 良い林檎が入ったんだ。アップルパイにどうだい?」

「すみません、今は手が離せなくて。あとで寄りますから、一袋とっておいていただけますか」

「マルグリット婆さんには世話になったからな。このまま届けてやるよ」

「これはこれは。どうもありがとうございます」


 同じ街、同じ人々のはずなのに。今朝、すれ違う人の影すべてに怯えながら、警戒心いっぱいのミラが一人で歩いていたときとは、まるでちがう景色が広がっていた。


 当たり前のようだけれど。ここには、生活があったんだわ。


 上品な身なりのサミュエルが、下町の風景の一部として溶け込んでいる。なによりも奇妙なことに、ミラ自身、すこしも違和感を覚えていなかった。


「そっちの嬢ちゃんは?」

「えっ、わたしは――」


 林檎売りの男から急に話を振られて、ミラは口ごもった。

 サミュエルが後を引き取って答える。


「古い知人の娘です。遥々うちを訪ねにきてくれたので、案内を」

「へえ、若いのに一人旅とはたいしたもんだ」


 別嬪な嬢ちゃんにおまけしてやるよ、と男はミラに向けて、林檎をひとつ投げてよこした。


「ひゃあ」


 ミラはたどたどしい手つきで林檎を抱きとめた。


「おいおい、落とすなよー」


 林檎売りの男は、ガハガハと大口を開けて笑った。

 投げ渡された食べ物を受け取るなんて、はしたないこと、初めてだわ。


 サミュエルの陰に隠れ、余所者気分で町を観察していたはずのミラは、あっというまに彼らの生活の一部に自分が組み入れられてしまったかのような感覚がした。


 サミュエルは、ミラの予想に反して家事手伝いの一人もいない、老夫妻がふたりきりで暮らす慎ましやかな居宅まで、マルグリット夫人を送り届けた。


 玄関先に置き残された紙袋いっぱいの林檎を見つめて、ミラはたずねた。


「アップルパイを、貴方がお作りになるの?」

「私ではなく彼女の十八番だったんですがねえ。昔食べた味が忘れられず、あれこれと試しているうちに、すっかり覚えてしまいました」


 不思議な方。サミュエルのことを知るたびに、かえってよくわからなくなってしまう。


「お礼にごちそうしましょうか?」

「……船の時間があるので」

「そうでしたね。では戻りましょうか。埠頭までお送りしますよ」


 ◆


 埠頭に戻ると、高く登った太陽に照らされて、海の輝きが色合いを変えていた。

 風向きは変わらないはずだけれど、いつのまに慣れたのかしら。もうハンカチで口元を覆わなくても、磯の香りにミラが眉を顰めることはなくなっていた。


 ミラの乗る旅客船は、変わらず桟橋に停まっている。

 揃いの制服を着た人間が、甲板をせわしなく動き回っている様子が見えた。


「それではミラ嬢。よい旅を」


 サミュエルは多くを語らず、優雅な所作で一礼して、踵を返した。

 その背中に向けて、ミラはついに打ち明けた。


「――私、嫁ぎ先から逃げてきたんです」


 責任ある立場にあるまじき、身勝手な理由の、ただの家出。

 ミラ自身、幼い子供のような行動だとわかっている。

 分別のある大人に理解されるようなものではなくても、自分の中に渦巻く複雑な感情を、簡単な一言の中に押し込めてしまいたくはなかったけれど。


「よくある話でしょう?」


 ミラは自嘲した。会ったばかりの歳の離れた男性に、どうして今こんなことを話そうとしているのか、自分でもよくわからなかった。


 こんなみっともないこと、話したくなかった。知られたくなかった。

 けれどずっと、誰かに聞いてほしかったような気もした。


 サミュエルは振り向いて、ふむ、と杖を握っていない左手で口髭を撫でた。


「無理にはお尋ねしませんが、なにかお辛い事情でも?」

「いいえ、なにも。だって私、旦那様になる方と、すこしもお話ししていないんです。お父さまに言われるがままお会いして、私の意思は関係なく話はまとまっていて。婚前旅行を兼ねて領地を巡りながら、あちらのお屋敷に向かう道中で、勝手に抜け出してきたんです」


 私の望んだものでなくても、お父さまの選択は、きっと正しいのでしょう。

 私の選択が間違っていることなど、わかりきっているんだもの。


 ミラの結婚相手には、すこしの瑕疵もなかった。

 だからこそ、ミラは誰にも言わず、黙って逃げるしかなかった。


「馬鹿らしいと、思われるでしょう? でもこれが私の、生まれて初めてのワガママだったんです」


 ミラの声は、情けなく震えていた。


「ミラ嬢……」


 サミュエルの目が見られない。どんな言葉をかけられるのか、否定されるのも肯定されるのも恐ろしい。


 ごめんなさい、お母さま。愚かな私を許して。


 ミラは、ワンピースのポケットの中で母のアミュレットを縋るように握りしめようとして――愕然とした。

 そんな。

 たったひとつの母の遺品が、ない!


「うそ……どこで……⁉︎」


 サミュエルは、ミラの異変をすぐ勘づいた。


「失くしものですか? 品物はどのような?」

「小さな金のアミュレットです……指先でつまめるくらいの丸いプレートに花の細工が彫られていて……首から下げられる鎖が……」


 かなり古いモノだが、鎖まで金でできていた。古物商に持ち込めばお金になるだろうとわかっていながら、ミラには売れなかった。

 もともと肌身離さず身につけていたのに、父の決定に逆らい、家を出ると決めたときに外したまま――ポケットの底に眠らせて、ことあるごとに触れていた。


「いつのまに……どこで落としたのかしら。この街に着いた時にはまだ……ああ、うそ……だめなんです。あれがないと、私……」


 蒼白な顔でふらつくミラの肩を、サミュエルの手が支える。


「落ち着いて、ミラ嬢。まだ船の時間まで余裕はありますね? 私も一緒に探しましょう」


 ◆


 ミラは、サミュエルと歩いた道を戻り、手分けをしながら町の人々に尋ね歩いた。


「このあたりで金のアミュレットを見ませんでしたか? とても大事なものなんです」

「あみゅ……? なんだって?」

「アミュレット、ぁ、ええと――魔除けのお守りです。金細工のプレートに鎖がついた、ネックレスのような」

「すまないが、そんな上等なものは見た覚えがないねえ。そういうのは、ほら、あのサミュエルに聞きな」


 魚屋の女将が指差す先で、古物商の戸口を出たサミュエルが首を横に振る。残念ながら、あちらも収穫はなかったようだ。


「いえ、私もこうして尋ね回っているところなのですよ」


 女将は、サミュエルにわからなきゃお手上げだ、と気の毒そうにミラの背中を叩いた。


「これだけ探して見つからないってことは、もっと前に落としたのかしら……」

「失せ物係や貴金属の店も回ってみましたが、まだ持ち込まれてはいないようです」


 ミラが立ち寄った先をしらみ潰しにあたったものの手がかりはなく、残る場所といえばサミュエルの家の中くらいだった。


 荷物を抱えながら硬い石畳を行き来したミラの脚が、ズキズキと痛む。こんなに必死で歩き回ったのは、宿を抜け出した日以来だわ。


 サミュエルは、重い足を引きずるようにして歩くミラから、旅行鞄をそっと取り上げた。


「一度、我が家に戻りましょう」


 ◆


 サミュエルとマルグリット夫人の暮らす居宅は、活気ある表通りから一本入った裏通りにある。

 先を歩くサミュエルにつづいて、ミラが角を曲がろうとした時だった。

 サミュエルの手が後ろに伸びて、ミラの身体をぐっと押し戻す。状況が理解できずに、ミラはひょっこりと顔を出してしまった。


「いたぞ――あそこだ!」


 黒い背広を着た、二人組の男だった。

 具体的にどう、とは言えない。ただ、サミュエルよりも明らかに()()()()()とミラは思った。


 この街にいるはずのない存在。

 今朝までの私とおなじ、異物。


 それが、明らかにこちらを認識して、まっすぐに迫ってくる――。

 ひゅっと息を吸い込んだミラを宥めるように、サミュエルは微笑んだ。


「やれやれ、待ち伏せとは無粋な真似を。ミラ嬢、隅にしゃがんで、少しばかり耳を塞いでいてくれますかな」


 なぜ耳を、と戸惑っているうちに、破裂音がミラの鼓膜を揺らした。何か、カラカラと金属が跳ねる音。潮の香りに満ちた港町には似つかわしくない、火薬の匂い。


「おい馬鹿、あのお嬢さんには傷つけるな」


 二人組の男の片方が、もう片方に詰め寄っている。その手に持つ銃口から、煙。なにがなんだか、理解が追いつかない。

 サミュエルは杖を両手に持ち、胸の前に構えていた。……まさか、あれで銃弾を弾いたなんてこと、ないわよね。きっと外れたんだわ、とミラは胸を撫で下ろす。


「んなこと気にしてられるかよ!」


 男たちが揉めている間に素早い身のこなしで距離を詰めたサミュエルは、L字状になった杖の持ち手を斧のように振り下ろし、男の握る拳銃を叩き落とした。そのまま手の届かない位置に蹴り飛ばしながら、くるりと回した杖の石突で、鳩尾をひと突き。


「ぐ……っ」

「が……っ」


 サミュエルは、あっという間に二人の男を制圧してしまった。

 気を失った男たちが他に武器を隠し持っていないか調べ、スラックスから抜き取ったベルトで、背中に回させた両手を拘束してしまう。


「ミラ嬢。もう大丈夫ですよ――すみません、鞄を下に置いてしまいました。汚れていなければいいのですが」

「い、いえ、……そんなことはいいんです!」


 すっかり呆けていたミラは、あわてて首を振った。


 気が動転して思い至らなかったが、男たちは誰かを探しているようだった。街中を派手に聞き込み回ってしまったせいで、ミラの居場所が伝わってしまったのかもしれない。


「巻き込んでしまってごめんなさい。今のはきっと、お父さまの」

「いや、私のお客様ですよ。なにせ私、あちこちに名を轟かせた凄腕諜報員でしたので」


 どこまで嘘か本当かわからない話を、サミュエルは、おどけたようにくり返す。

 先ほどの身のこなしからして、従軍経験があったのは本当なんでしょうけれど……私が気に病まないように気を遣ってくださっているんだわ。

 ふと、サミュエルの視線が動き、ミラの後方に釘付けになった。


「サミュエル!」


 勝手口からマルグリット夫人が顔を出していた。

 いまの騒ぎで目覚めてしまったのね。


「なにかあったのですか? お嬢様の身に、なにか」

「なんでもないよ、マルグリット」

「まったく。いつもそう言って、貴方は無茶をするのですから」

「おや? 私のことも心配してくれるのかね」

「いい加減に、お嬢様を街へ連れ回すのはおやめなさい。ただでさえお身体が弱いのに、近頃は物騒で――」

「はは! そうか……ああ、すまないね。かならず私は君のもとに帰るとも」


 夫人とサミュエルは、顔を寄せ合って、さらに会話をつづけた。噛み合っているのか、いないのか。わからないけれど、あの二人の間には、とても立ち入れないような独特の雰囲気があるわ。愛し合って結ばれた夫婦が重ねてきた時間の賜物なのかしら。


 ミラは二人の様子を、三歩離れた位置から、眩しいものを見るようにじっと見つめていた。


 ◆


「ミラ嬢の探しものは、こちらではないですかな?」


 花の細工が刻まれた丸いプレートに、金の鎖。


 サミュエルが差し出した品は、ミラが探し回っていた母のアミュレットそのものだった。なんどもなんども指でなぞった、彫り物の感触を忘れるはずがない。


「ええ! ええ、そうです! まちがいありません。でもどうして」

「妻が貴女にと。どうやら港で貴女と話す前から持っていたようです」


 サミュエルの後ろで、マルグリット夫人が嬉しそうにミラを見つめて微笑んでいる。

 もしかして、これを渡すために話しかけてくださったの?


 ミラは涙を浮かべながら、アミュレットを両手で包み込むようにぎゅっと握りしめた。ああ、戻ってきた。たったひとつの、お母さまとの繋がりが。私の心の支えが。


「とても大切な品物なんですね」

「ええ、お母さまの形見なんです。いつも肌身離さず持ってらした」

「失礼ながら、お母さまはもう――」

「亡くなっています。私が幼い頃に、病で」


 元々、あまり丈夫な方ではなかったらしい。ミラを産んだ後は、ほとんど寝たきりだった。離れに閉じこめられたまま、若くして亡くなった母の生涯を思うと、胸が詰まる。


「お身体に障るからと、私はお母さまと会わせてもいただけなくて。このアミュレットの由来も知りません。お父さまが贈られたものではないのでしょう。お母さまは、お父さまのことも、私のことも、きっと憎んでいらしたから」

「そんなことは」

「――私は望まれずに生まれた子供なんです」


 サミュエルの言葉を遮るように、ミラは言い切った。

 どうか否定しないでほしい。哀れまないでほしい。

 抱え込んだ傷を口にするのは、慰めがほしいからではない。


「お母さまは、お金で買われたようなものでした。お父さまは家名が欲しかった。お母さまは没落した生家の使用人を呼び戻したかった。利害の一致、いわゆる契約結婚です。そこに愛はなく、いずれは解消される予定でもありました。……けれど、期日を迎える前に私を孕って、お母さまはどこにも行けなくなってしまった」


 なぜ。白い結婚のはずでは、なかったのか。


 屋敷の使用人たちは口々に噂を囁いた。奥様が旦那様を誘惑したのだろう、いや旦那様の方こそ奥様を縛りつけたのだ、と。ミラの耳に流れ込んできた話は雑然としていて、なにが真実かはわからない。中には不義の子だという説まであった。


 ひとつだけ確かなのは、ミラを産んだことで、母の人生は決定的に変わってしまったということだった。


「私には、お母さまの人生を奪ってしまったことへの負い目があります。だからずっと、お父さまの言いつけ通りに生きてきました。それが私の義務なんだと。なのに、いざ定められた相手と結婚するとなった時、どうしても、怖くなったんです」


 お父さまは、私のために、最高の縁談を選んだと言ったわ。それはきっと嘘ではないのでしょう。承諾した瞬間の私の気持ちも、嘘ではなかった――。

 たしかに、そのとき、嘘ではなかったとしても。

 ミラは逃げ出した。


「私は、誰かを愛する自信がなかった。お母さまと同じことをくり返すのが、どうしても怖かった。政略結婚した相手の子供を産み育てるなんて、当然の立場なのに。身勝手に逃げ出して、私はここにいます」


 馬鹿なことをしているとわかっている。

 最低なことをしているとわかっている。

 それでも。

 逃げ出したいと、思ってしまった。


「ミラ嬢。貴女の人生は貴女のものです。ただ、申し上げられるとすれば……そうですね。私は貴女にひとつ嘘をついていました」


 サミュエルは、ミラの目を見つめて言った。


「私とマルグリットは、本当の夫婦ではないのです」


 これまでにない真剣なサミュエルの声色を聞いて、ミラは、冗談ではないと察した。

 親しげに寄り添う二人の様子が目に浮かぶ。てっきり、愛のある結婚とはああいうものかと。


「けれど、……けれど、愛してらっしゃるのでしょう?」

「貴女の目に、そう映ったのであれば」


 サミュエルは、マルグリット夫人を振り向いて、優しく微笑んだ。



 いよいよ出航の時間が迫っていた。


 ミラは、ふたたび埠頭に戻り、サミュエルとマルグリット夫妻に見送られながら、乗船に必要な手続きを終わらせた。偽りの身分証で手配したチケットは、思いの外あっさりと受理され、拍子抜けした。


 手荷物は、鞄一つきり。それから、二度と失くさないように、襟元に隠して身につけたアミュレット。ひさしぶりに肌に感じる金属の冷たさと重さに、ミラは気を引き締めた。


「それでは、ミラ嬢。今度こそお別れですね」

「本当に、ありがとうございました」

「いえいえ、礼を言うのはこちらの方ですよ。私は妻の昔話に付き合っていただいた恩を返したまでです」

「そんなお話も、ありましたね」


 なんだか、随分と昔のことのように感じるわ。


 ミラはくすりと笑って、差し出されたサミュエルの手を、そっと握り返した。あたたかい手。たった半日ほど一緒に過ごして、どうしようもなく馬鹿な身の上話を聞いてもらっただけなのに、離れがたく感じてしまう。


 けれど、……もう、行かなくては。

 サミュエルの手を離し、ミラは桟橋に停泊する旅客船を見つめる。


 ここではないどこかへ。

 私が私のために生きられる場所へ。


 ――あの船は、連れて行ってくれるのだろうか。


 その時。

 おもむろにマルグリット夫人が立ち上がった。


「いってらっしゃいませ、()()()()()


 かくしゃくとした声で告げ、ゆっくりと頭を下げる夫人の姿に――凛と背筋を伸ばしながら腰を折る、女中頭の美しい礼が重なって見えた。


 サミュエルの手から杖が離れた。

 ごとり、と重い音が響く。

 倒れ込んだ杖は、ほとんど転がらなかった。


「マルグリット!」


 よろめいた夫人をサミュエルが両手で抱きとめるように支え、車椅子に戻す。

 ハッと我に返ったミラは身をかがめ、サミュエルの杖を拾おうとした。


 木目の美しいマホガニー材。 持ち手の下に金の帯。装飾はただそれだけの、一見するとありふれた紳士用の杖――しかし、指をかけた途端、ズッシリとした予想外の重さが肩にかかって、ミラは目を瞠った。

 ミラの細腕ではとても持ち上がりそうにない。ひ弱な自覚はあれど、老人が持つには、あまりにも。


 この杖――もしかして。

 よく目を凝らすと、金の帯の下にわずかな隙間があり、微かに白い筋が浮かんでいた。


 戸惑うミラの視界に、白手袋に覆われたサミュエルの手が伸びる。

 サミュエルは、異様に重たい杖を軽々と持ち上げ、片手でくるりと回した。優雅な所作で、空いた手の人差し指を口の前にかざして、シーッと息を吐く。


「誓って申し上げますが、私が貴女についた嘘は()()()()()ですよ――どうか、御内密に」


 ミラが船に乗り込むのを待って、サミュエルは生涯を共にした伴侶の座る車椅子を押し、あの二人が暮らす慎ましやかな家に帰っていった。


「……貴方は大嘘つきね、サミュエル」


 乗船口の隣でサミュエルの背中を見送りながら、ミラは最初の助言を思い出した。


“嘘をつくなら、うまくつきなさい。真実と見分けがつかなくなるほどに”


 サミュエルとマルグリットの過去に本当は何があったのか、ミラにはわからない。けれど、この街の人々の中に刻まれた彼らの記憶は、ミラの目に映る二人の現在は――とても仲睦まじい夫婦に見えた。


 貫き通された嘘は、真実と見分けがつかなくなる。


 このまま海を渡ってしまえば、きっとなにもかも曖昧になって。今は胸の奥にひそんだ傷も、時間とともに塞がり癒えていく。信じたいものを信じたまま、マルグリット夫人のように、いずれすべてを忘れ去ってしまうのかもしれない。


 秘密の箱を、開けるか否か。


 ミラは、胸元から取り出した、心なしか記憶よりも美しく輝くアミュレットを握りしめて、出航間際の船から飛び降りた。――自らの眼で、望む真実(こたえ)を見極めるために。

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