第9話「記録なき遺構」
陽が傾き始めた台北の街に、蒸し暑さと共に夕刻の喧騒が押し寄せていた。
劉宗憲は、林海翔と共に「華苑ホテル」の敷地裏手にある古い石畳の小道を歩いていた。
すでに一般の利用客が立ち入ることのない区域。かつて日本統治時代に神社が存在したとされる場所である。
ホテルのスタッフはこの場所の存在を知らないか、知っていても口を閉ざしていた。
都市再開発によって建て替えられた「華苑ホテル」は、その裏に旧神社跡の一部を取り込んでいた。
観光案内にも記されず、地図上では空白地帯となっている。
「ここに……父さんが記録を隠したのか」
宗憲の手には、父・劉明哲の残したメモが握られていた。
そこには「玉垣の下、向かって左」とだけ書かれていた。
林は慎重に周囲を確認しながら、小道の先にある苔むした石柱へと近づいていった。
草に覆われた玉垣の名残、半ば土に埋もれた石の隙間に、宗憲は手を差し込んだ。
感触の異なるもの。
そこには、錆びついた鍵付きの小箱が埋められていた。
「これだ……」
鍵を開けると、中には湿気で紙が歪んだ冊子と、古びたSDカードが入っていた。
「KW-47……」林が呟いた。
SDカードには「KW-47_Archive」と手書きのラベルが貼られていた。
宗憲の脳裏に、かすかに記憶していた父の声が蘇った。
『お前が真実に触れるとき、それを世界が受け入れる準備ができているか分からん……だが、見極めろ、宗憲』
林がバッグからノートPCを取り出し、カードリーダーに差し込んだ。
瞬時に起動した画面には、暗号化された複数のファイル群。
そのうちの一つを開くと、かすれた音声データが再生された。
『……映像記録ログNo.87、地点:華苑旧跡、対象人物……』
その声は、明らかに中国語圏の標準語ではなかった。台湾語混じりの、感情を抑えた女性の声だった。
「これ、誰の声だ……」
宗憲が目を細めたそのときだった。
バチッ。
周囲の灯が一瞬暗転した。
林が顔を上げ、背後を振り返る。
気配。
人の気配が、二人の背後に迫っていた。
だが姿は見えない。
物音すらない。
「離れるぞ、今すぐ——」
林の言葉を遮るように、突然石畳が軋む音。
まるでそこに「いた」かのような、不自然な沈黙と共に。
宗憲はSDカードと資料をバッグへと滑り込ませると、林と共にその場を離れた。
──その夜、台北市内の監視カメラネットワークの一角で、異常ログが検知された。
映像の一部が意図的に切り取られ、記録されていなかった。
公安部の分析官は眉をひそめる。
「またか……これで三件目だ」
彼らの背後に迫る影。
記録を拒絶する、何者かの意志。
──その頃、台北郊外。
古びた倉庫の中、監視モニターを眺めていた男が、微かに笑った。
白髪混じりのその男の背中には、黒い龍の刺青が浮かび上がっていた。
「神社の封印は解かれたか……だが、まだ“鍵”は足りん」
男の手元には、もう一枚の地図。
そこには、点で繋がれた3箇所の印が記されていた。
「次は……“彼女”の番だ」
──台北市内、ある居酒屋の奥の個室。
原住民族出身の立法委員・マカライ(マカライ・ダウホワン)は、秘書から一通の封筒を受け取った。
中には、小さな写真。
ホテル華苑の裏手で、宗憲と林が石の間を掘る姿が映っていた。
「ついに、動き出したのか……ミンジョー」
彼の目は、静かに細められていた。
彼もまた、過去に劉明哲と深い関わりがあった。
そして、台湾の歴史と“影子”の起源に通じる、数少ない生存者の一人でもあった。
その夜、宗憲はホテルに戻った後、深い眠りに落ちた。
しかし夢の中で、見知らぬ声が何度も囁いた。
『お前の手にした記録は、世界の均衡を崩す』
そして最後に、遠くで鐘の音が鳴った。
——それは、かつて父が遺した言葉と同じ場所から聞こえた音だった。