第5話 暗号と密告
忠孝復興駅のホームでは、朝の通勤ラッシュが波のように押し寄せていた。スピーカーからは淡々としたアナウンスが流れ、人々はその下で携帯を覗き込み、どこか落ち着かない表情を浮かべていた。駅のビジョンでは、昨日の襲撃未遂について報道が続けられている。
「昨日の外交団への襲撃未遂事件につきまして、関係当局は“国内の一部過激派”による犯行の可能性を否定しておらず……」
雑踏の中、林 海翔は左腕に包帯を巻き、足を引きずりながら構内を歩いていた。人混みをすり抜けながらも、彼の視線は決して逸れず、背後への注意を怠らない。彼の耳には、今もなお昨日の“異常な静寂”の残響が残っていた。
その頃、外交部地下の会議室では、劉 宗憲と公安局の新たなメンバーが集まり、林の帰還を待っていた。部屋の空気は重く、照明も最低限に落とされていた。
「――彼が手に入れたものは、これだ」
林が差し出したのは、古びた磁気記録のテープだった。それを手にした一人の女性が眉をひそめる。
「これ……軍用の通信機で使われていたフォーマットです。少なくとも30年前のもの」
女性の名は高 慧真。阿美族出身で、山岳部で育ったが、軍事通信の専門知識を買われて公安にスカウトされた異色の人物だった。
「中身は解析できそうですか?」宗憲が尋ねる。
「できるけど、手間はかかります。それより――気になることがひとつ」
慧真はテーブルの上の資料を指さした。「KW-47。これ、コードじゃなくて“人名”の略称かもしれません。Kai-Wen……なんてどう?」
「人名……?」宗憲が呟く。
林はその話を聞きながら、自分の左耳に手を当てる。まだ、昨日の出来事が頭の中で渦を巻いていた。強烈な耳鳴り、眩暈、そして一瞬の“空白”。
「……気絶してたんじゃない。自分が消えたみたいだった」
宗憲はその言葉に反応し、すぐに林の通信ログを確認した。すると、林の通信は一時的に“外部妨害信号”によってブロックされていた。
「これは……局所的な共振波。普通の通信妨害じゃない。中に誰かが“装置”を持ち込んでたな」
その時、高 慧真が通信波形を分析して、驚愕の表情を浮かべる。
「これ、“誘導型記憶撹乱波形”に似てる。旧中華軍が内乱鎮圧で使っていたやつ……。これが台湾国内で使われたってこと?」
「……影子かもしれないな」宗憲は低く呟いた。
その夜、宗憲は自宅に戻ると、父・劉 明哲の遺品が収められた箱を開けた。古びたICレコーダーを取り出し、再生ボタンを押すと、かすれた声が流れる。
『もしこれを聞いているなら、私はもうこの世にはいないだろう――』
その声に、宗憲の背筋が震えた。
一方、中南海では、白髪の男が静かに窓の外を見つめていた。
「“幽燈計画”は始まった。林 海翔の監視は続けろ」
「KWは動き出しますか?」部下が問う。
「ああ。“火種”が誰か、そろそろ炙り出す頃合いだ」
その直後、台北市内の路地裏。林が一人で歩く足元に、静かに影が忍び寄っていた。
「……誰だ?」
林が振り返った瞬間、視界が揺れ、再び例の耳鳴りが襲ってくる――