第3話 記録されなかった通話(未被記錄的通話)
203×年7月8日
午前3時過ぎ。外交部地下2階、通信管理室の奥にある無人のサーバールーム。
林 海翔は椅子を引き寄せ、ログの解析を進めていた。部屋の蛍光灯は半分ほどしか点いておらず、彼の顔を淡く照らしているだけだった。空調の低く唸る音が、眠気を誘うほどに一定のリズムを刻んでいる。
だが彼の目は冴えていた。
「……やっぱり、おかしい」
林は低く呟いた。
不審な通信ログは、203×年6月9日の深夜に記録されていた。
“発信元不明”。送信者には「K・W」というタグが付いていたが、それが正式なコードか、あるいは偽装されたものかの判断はつかない。
送信内容は暗号化されており、政府標準の復号ソフトでは読み取れなかった。林は自身の携帯端末から、かつて在学中に組んだ自作の復号プログラムを立ち上げる。
「K・W、君は何者だ……?」
その時、背後の自動ドアが静かに開いた。
「こんな時間に作業とは、熱心だな」
劉 宗憲の声だった。コーヒーを手にしながら、彼は静かに近づいてきた。
「その顔……何か掴んだな?」
「もしかすると、です」
林は画面を指差した。
「このログ……発信は内部IPから。ですが、外部VPNを使って台湾外と接続されています。しかも通信記録が抹消されかけてました」
「つまり、政府の内部から、外部へ。しかもそれを誰かが消そうとした?」
「はい」
宗憲は静かに眉をひそめた。
彼の脳裏に、父・劉 明哲の顔が浮かんだ。
──政府の中に、誰かがいる。奴らはずっと潜っているんだ。
生前、父が口にしていたその言葉の重みが、今さらながらに圧し掛かってきた。
林はさらに別のファイルを開いた。そこには、音声ファイルが1件、残されていた。
「ログは消されかけてましたが、こいつだけは復元できました。聞きますか?」
宗憲は頷いた。
再生ボタンを押すと、ノイズ混じりの男性の声が流れる。
『……火種は台北に撒かれた……再起動の刻は間近だ……』
その声に続いて、微かに鐘の音が鳴った。
どこかで聞き覚えのある、乾いた音。古い寺院か、あるいは……。
宗憲の表情が強張った。
「この音……」
林が宗憲の変化に気づいた。
「知ってますか?
「いや……いや、思い出せない。けど、何か大事なことが隠れてる気がする」
彼らの背後では、サーバーのファンが機械的に回転し続けていた。
⸻
翌朝、宗憲は総統府の地下にある特別会議室へ向かった。
呼び出したのは、副秘書長の許 曉蕾だった。
「どうぞ、お座りください」
許は穏やかに笑みを浮かべたが、その瞳は鋭い。
「今、あなたの動きは誰かに監視されています」
「……誰に?」
「まだ分かりません。ですが、ここに来る際、尾行の痕跡がありました。おそらく政府内部の者です」
宗憲は黙ってうなずいた。
「あなたの父、劉 明哲氏は、亡くなる直前まで、内部の不正を追っていました。彼の手帳がまだ残っていて……」
許は、薄いノートを彼に差し出す。
中には、手書きのメモや不完全な図、日付の羅列があった。
「……“鐘の下に鍵”、これは?」
「わたしにも分かりません。ただ、音と場所に関係しているようです」
宗憲の胸に、音声ファイルの鐘の音が蘇る。
⸻
その夜、林と共に二人は台北市内の旧市街を歩いていた。
忠孝東路の裏通りにある古い建物の前で足を止めた。
「……ここ、何かおかしい」
「空間認識が合わない。図面と照らしても、ここの構造、明らかに変だ」
林が建物の外壁を指さした。
装飾タイルの一部が微妙に歪んでいる。
「偽装された改修跡です。外部からは分からないようにしてある。おそらくこの中に何かが」
二人はその場を離れ、近くのカフェに入った。
林は低く呟いた。
「“火種”は撒かれている。でも、それが何かはまだ分からない」
宗憲は、ふとノートを見つめた。
そこには、父の文字でこう書かれていた。
──影子は、形を持たない。だが記録の中に痕跡を残す。
「これは偶然じゃない」
林が言った。
その言葉に、宗憲はただ頷いた。
夜の台北は、静かに不穏な息を潜めていた。