第2話 影の足音、火種の街
台北捷運・忠孝復興駅。通勤ラッシュのピークがわずかに過ぎた時刻。人々の足音がタイルの床に反響し、次々と電車がホームに滑り込む。高架上から見える晴れ間に、都市のざわめきが反射する。
改札前、巨大モニターに緊急ニュースの赤い字幕が走った。
「本日午前9時、外交団が松山空港に到着予定」
その瞬間、空気が少し凍りついた。誰かが息を呑み、誰かがスマートフォンに手を伸ばす。ざわめきがざらついた波のようにホームを揺らした。
「また何か起こるのかね……」
白髪の老人がぽつりと呟き、隣の若い母親は手を繋いだ子供の手を強く握る。構内放送のアナウンスが緊張を切り裂くように響いたが、誰の耳にも届かない。目はモニター、心はその先の不安に縛られていた。
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外交部・地下会議室。白を基調とした無機質な空間に、空調の低い唸り音が響く。監視モニターとホログラム投影装置が並び、台湾全土の地図が浮かび上がっていた。
劉 宗憲は、その地図を黙って見つめていた。
──南部、外周警備に穴がある。昨日までのデータと違っている。何かがおかしい。
父、劉 明哲の声が記憶の奥から蘇る。
「最後に守るのは……情報じゃない。人だ」
一瞬、血に染まった床。銃声。父の倒れた姿が脳裏をよぎる。
宗憲は深く息を吐いた。
「父さん……今度は、俺が守る」
扉が開き、無表情の男が入ってきた。公安局から派遣された林 海翔だ。
背は高く、動きに無駄がない。だがその瞳の奥には、長く凍ったもののような冷静さがあった。
「劉 宗憲さんですね。林 海翔です。指令により、今日から同行します」
「急ですね。昨日の夜に連絡が来たばかりです」
「台湾に急がない事案など、ありませんから」
皮肉か礼儀か判断できないその返答に、宗憲は眉をわずかに上げるだけだった。
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警備ルートの確認に入った二人。会議室に広げられた立体マップの一角で、宗憲が指差した。
「ここ。警備隊の配備が妙に薄い。人の流れを考えると死角になっている」
林がファイルをめくり、目を細める。
「……2時間前、ここだけルート変更の承認が降りてます」
「誰が?」
「内部承認記録によると……“K・W”」
宗憲は名を見て、心の奥にざらついた疑念が浮かんだ。
「確認する」
二人は現地へ急行した。忠孝復興駅から地下通路を抜けた先、旧倉庫地帯を経由する中継地点。ここには仮設の監視カメラがあるはずだった。
だが、実際にあったのは死角だらけの配置だった。
林が低くつぶやく。
「これ……襲撃者にとっては格好の場所ですね」
「通信傍受のデータにあった“第二段階”……それは場所じゃなくて、警備の穴を意味していたのかもしれない」
宗憲はすぐさまイヤホンを繋ぎ、データの同期を開始した。
その間、林は一枚の古い文書に目を止める。
「……この承認印、旧政権時代のものだ」
誰にも言わず、林はデータのコピーを端末に保存した。
宗憲は振り返る。
「林、何か気づいたか?」
「いいえ。ただ、昔の記録は整理が甘いですから。注意しておきます」
互いに疑念を胸に抱えながら、それでも協力するしかなかった。
遠くで、街の喧騒が再び膨らみ始めていた。
地下の空気が、静かに張り詰めていく。
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台北の空は、まだ晴れていた。だが、心の空は既に嵐の前の静けさを孕んでいた。
そして誰にも知られぬまま、火種はゆっくりと空気を焼き始めていた。