第18話「起動コード」
203×年7月13日 午後11時42分。
台北市内はすでに夜の帳に包まれ、雨の匂いが濡れたアスファルトから立ち昇っていた。
忠孝東路の一本裏手。雑居ビルと小規模な商店がひしめく一角に建つ、四つ星クラスのビジネスホテル。その地下フロアにある倉庫跡地に、劉 宗憲たちは足を踏み入れていた。
かつてこの場所には、日本統治時代に建立された神社が存在していたという記録がある。戦後、神社は取り壊され、上から建物が築かれた。しかし地下構造の一部はそのまま残されていた。
その“地下”のある部分が、台湾政府高層の極秘記録が収められている「第零資料庫」——その入口であるとされていた。
「ここか……。確かに空間の歪みを感じる」
林 海翔が壁面に手を当てる。微細な振動と共に、彼の指先に金属質の冷たさが伝わる。コンクリートの表面に見えて、構造の奥には別素材が組み込まれていた。
「加工された箇所、間違いない。ここの中に何かある」
林が静かに告げると、背後で凱文が無言で頷いた。公安局の調査員として、彼もまたこれまで幾度もこうした“隠蔽構造”を暴いてきた男だ。
「明哲さん……本当にこんな場所にまで辿り着いていたのか」
宗憲は呟きながら、父・劉 明哲が遺した古い端末を取り出す。そのメモリーの中に、こう記されていた。
「鍵は《語り継がれる声》の中にある。土地と祈りが重なる場所で、言葉が灯る時、門は開かれる。」
「語り継がれる声……それはつまり、原住民族の言語ってことか?」
宗憲の呟きに、背後から足音が一つ、響いた。
「それ、たぶんわたしの出番だと思うよ」
姿を現したのは、泰雅族出身の若き民俗学者、莎拉だった。第5話で登場した後、消息を絶っていたが、宗憲たちの危機を感じて再び姿を現した。
「《語り継がれる声》というのは、私たちの祖先が代々伝えてきた“記憶”に近い。音ではなく、感覚の継承。その文法や語順には、隠された意味があるの」
莎拉が取り出したのは、古い木板に刻まれた文様。そこには、ある種の言語パターンがあった。
「この順で、言葉を唱えてみて」
莎拉が差し出した言葉を、宗憲は静かに復唱した。
「Yutas hi’qiyanan na qutux ni balay……」
(山の影に眠る、家々の記憶よ——)
すると、壁の一部が低く震え、音もなく開いた。
地下の奥に、機械的で無機質な空間が広がっていた。だがそこには、明らかに“過去”が保存されていた。
映像装置、旧式のサーバー、紙資料——
そのどれもが、台湾と中国の“交錯した歴史”を証明する、忌避された真実の記録だった。
⸻
一方その頃、SNS上では“ある投稿”が急拡散されていた。
《台北・神社跡地下に台湾政府の秘密兵器保管か? 》
「これ……誰が?」
許 曉蕾は外交部の監視端末を前に、顔色を変えた。
「この情報、外部には漏れていないはずなのに……内部から、か?」
彼女は操作記録を確認するが、異常は見つからない。
「いや……見えないところからの侵入か……」
“裏切り者”の存在を確信したその時、彼女の端末に匿名通信が届く。
「影子の中に、“もう一つの影”が動いている。注意せよ。」
通信元不明、痕跡なし。だが明らかに内部の何かを知る者の言葉だった。
⸻
中南海。
北京の政中枢にある黒い部屋。その中に、白髪の男が一人、報告を受けていた。
「第零資料庫の起動コードが部分的に解析され、現場へのアクセスがあった模様です」
報告官の言葉に、白燕は無言のまま頷く。
「風靈は?」
「……現地におりますが、動きが不穏です。傍受された会話から、離反の可能性も」
「ならば、計画を一つ早めよう」
白燕は指を鳴らすと、部下に命じた。
「起動コードが完全に解読される前に、抹消対象を確定せよ。
リストに追加——劉 宗憲、林 海翔、杜 凱文、莎拉、そして……風靈。」
部屋の照明が淡く落ちる。影の中で、静かに処刑命令が成立した。
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その頃、莎拉の手を借りて資料庫の深部へと進んだ宗憲たちは、一つの記録映像を発見していた。
それは、父・明哲が生前に残したものだった。
「これを見ているお前へ——
世界はただ善悪では語れない。だが、“真実”に触れた者は、行動しなければならない。
それが、私が君に残せる唯一の未来だ。」
宗憲は歯を食いしばりながら、映像に手を伸ばした。
「父さん……俺はまだ……」
そのとき、壁の奥から異音が響いた。
「誰か来る……! 引け!」
凱文の叫びと同時に、ホテル地下の通路に足音が近づく。
「まずい、罠かもしれない……!」
彼らが退避を始めた直後、ホテルの電源が落ち、緊急灯が点滅し始めた。
“第零資料庫”が見つかったことで、物語は新たな段階へと突入する。