第17話「もうひとつの目」
203×年7月13日 午前3時。
台北101の足元に広がる信義区の広場には、微かに湿った風が吹いていた。都市の喧騒が眠るその時間、街灯だけが無機質に地面を照らし、人影はまばらだった。だが、そんな中に二つの黒い影が佇んでいた。
「……本当に、ここでいいんですか」
林 海翔が口を開く。彼の目は鋭く周囲を走査している。
「ああ。昨日、例の匿名通信に指定された場所だ」
劉 宗憲は手にしたスマートフォンを見ながら答えた。その画面には、赤く点滅するメッセージ履歴。
『台北101前、午前3時。証拠は手渡す』とだけ記されていた。
「姿を現さないな」
「いや……見られている」
林がぽつりと呟いた。
宗憲が周囲を見渡した瞬間、遠くのビルの影にわずかな光の点滅を見た。
ドローンだ――しかも複数。
「やはりな……」
宗憲は咄嗟にスマートフォンを掲げ、赤外線モードで周囲を撮影する。ビルの窓、街路樹の間、信号機の上――そこかしこに“視線”が配置されていた。
「これは……監視だけじゃない。何かを記録している」
林がつぶやきながら、一つのドローンに向けてレーザーポインタを照射する。機体が一瞬ビリつき、墜落した。
「公安のものではなさそうですね」
「影子か、それとも……」
宗憲の言葉が終わる前に、彼のスマホが震えた。
《添付ファイル:画像_002.JPG》
開くと、熱感知で撮影された写真が表示された。そこには、スーツ姿の中年男性――外交部に勤める某課長補佐に酷似した人物が、どこかの地下空間で通信機器を操作している姿が映っていた。
「……これ、偽物のはずの“裏切り者”だ」
「内部にも、まだいるんだな」
⸻
午前6時。
中南海・北京市内某所。
「彼の行動、もはや看過できません」
白燕は静かに言った。
その姿はいつも通り無表情だが、声にはかすかな苛立ちが混じっていた。
「劉宗憲は計画の中核に近づいている。そろそろ“整理”を始めるべきでは?」
対する東嶺は沈黙を貫く。
短く息を吸い、窓の外を眺める。
「まだ、だ」
「……理由を」
「奴の動きの中に、“何者かの介入”が見える。第三の目だ」
「観測者、ですか?」
「そうだ。しかも、我々の領域には踏み込んでいない。おそらく……独立した存在」
白燕は一度だけ目を伏せた。
だが、その裏で、彼女の部下――“風靈”は、密かに通信記録を抽出していた。
風靈は影子の若手幹部だ。
だが、密かに劉 明哲との接点が過去にあったことが、最近掘り起こされた記録から判明していた。
彼/彼女の端末に、音声が残っていた。
《未来は、お前たちの双眸に宿る。目を閉ざすな》
それは、明哲が死の直前に発した言葉だった。
「……私に、“見る”資格はあるのか?」
風靈の目には迷いが浮かんでいた。
⸻
午前10時。台北・外交部地下3階 会議室。
「SNSで拡散されたこの映像、明らかに加工されています」
許 曉蕾はプロジェクターを操作し、歪められた“第零資料庫”の内部映像を映し出した。
「これは、本物ではない。だが、民衆は信じかけている」
「フェイクニュースか?」
「いや、“何者か”が意図的にバラ撒いた」
「影子か?」
許は首を横に振る。
「違うと思います。あまりにも稚拙。そして“第三の軸”が現れています」
彼女は、タブレットを宗憲に渡した。
そこには“偽資料庫”に添付されたタグが写っていた――《觀測者04:起動未満》。
宗憲は背筋に冷たいものを感じた。
「観測者……?」
⸻
午後。信義区の神社跡ホテル付近。
宗憲と林は、静かに敷地内に足を踏み入れた。
建物の表面はホテルだが、その一角にだけ“異質な壁”があった。
「この壁……電磁波に反応してる」
林が周波数スキャンを行うと、内側からノイズが跳ね返ってきた。
「共鳴装置か……」
宗憲は目を細めた。
「鍵を持ってるのは……まだ誰かだ」
「俺たちはまだ“扉の前”にいるだけだな」
⸻
午後5時。
宗憲のスマホが鳴った。
《差出人不明:風靈》
《添付動画あり》
映像には、劉 明哲が何かを地面に埋める姿と、その後ろ姿に向けて語る声が記録されていた。
《記されし未来に、声が届くかは分からない。だが、“起動”は、お前に委ねた――宗憲》
「……父さん」
宗憲は言葉を失った。
その時、林が背後に気配を感じ、振り返る。
「誰か来る」
そこに現れたのは、公安の相棒・杜 凱文だった。
表情を引き締めながら、彼は言った。
「位置、特定された。ここはもう安全じゃない」
「どういうことだ?」
「……“第零資料庫”の“本体”を動かそうとしてる奴が、いる」
「どこにいる……?」
カイウェンは、神妙な面持ちで答えた。
「……内部だ。政府の中に、いる」
宗憲は壁に触れた。
冷たい金属のような感触。
その奥に、父の意志が眠っているのかもしれない――。
風が、ゆっくりと吹き抜けた。
その音が、まるで“何かが始まる前触れ”のように響いた。