第13話「蠢く線と、消された声」
203×年7月10日 午前8時 台北市内
「……このままじゃ、また“同じこと”が起きるわよ」
蕭語恩の口調は柔らかだったが、言葉に宿る重みは決して軽くなかった。
政府庁舎の近く、目立たぬビルの一室。そこは一見、民間のリサーチ会社を装っているが、実質は半地下の非公式情報共有ネットワークの拠点である。
劉宗憲は、椅子の背にもたれながら、彼女がモニターに映し出す可視化された情報網に目を凝らした。
無数の線が台湾全土を這い、点と点がリンクしては、赤く明滅する。
「君の言う“同じこと”って?」
「情報が、誰かの意志で消され、誰かの意志で作り替えられること。
あなたのお父さん——劉 明哲さんが追っていた記録の構造、ようやく輪郭が見えてきたの。
けど……」
語恩は指先で画面をスライドさせ、ある一点を示した。
台北市大安区の中心、古地図と現在の地図が重ね合わされた箇所。かつて神社があった場所だ。
「この場所……数十年前までは空き地だった。その後、ホテルが建ったけど、地下構造が妙に不自然なの」
宗憲は眉をひそめた。
「地下に何がある?」
「“記録”よ。もしかすると、政府の公式ルートじゃアクセスできない“歴史の原本”。
でもそれだけじゃない。“影子”の一部が、それを“鍵”として動いている節があるわ」
「影子内部に派閥があるってことか?」
「明確な証拠はないけど……傍受した通信ログの語調や、指令の速度、伝達の順序に差異がある。
一枚岩じゃない。中枢から離反しようとしてるグループがあるのかも」
語恩の声には警戒と期待が交じっていた。
⸻
その頃、林 海翔は忠孝新生駅の南側、古い中華建築が点在する路地を歩いていた。
この一帯にある古書店が、過去に劉 明哲が通っていた場所であることを、旧記録から突き止めていたのだ。
「足跡は、残っているもんだな……」
彼が足を踏み入れたのは、今では骨董屋として看板を掲げている一軒。
しかし店内は異様に静かで、棚の本も埃をかぶっていた。
「林さん、こっちです」
背後から声をかけたのは、公安の通信分析官である杜 凱文。
無口だが、分析力と記憶力は群を抜いている。
「この棚の裏、なんか変です。金属探知反応があります」
棚をずらすと、古い鉄扉が現れた。無理やりこじ開けると、そこには地下へ続く階段が伸びていた。
二人は無言で降りていく。途中、壁に埋め込まれた何かの録音装置が目に入る。
「……古い磁気記録?」
林が取り出したのは、時代遅れの録音テープ。しかし、それを再生しようとしたその時だった。
——「チッ」
乾いた音と共に、階段の上から足音が響く。
「伏せろ!」
凱文が咄嗟に林を押し倒すと、何かが飛び散るように壁に衝突した。音は一瞬にして静寂に戻る。
暗闇の中、犯人の姿は見えなかったが、何かを持ち去った気配があった。
「記録装置……やられたかもしれません」
林は唇を噛んだ。
⸻
その日の午後、宗憲は再び外交部の地下会議室に戻っていた。
相棒である林が負傷したという報を受けて、内心の焦燥が強まる。
「誰かが……記録を“消して”いる。まるで……“声”そのものを」
デジタルだけではない、物理的な記録も、記憶も、意図的に“改ざん”されていく。
そんな不可視の手の存在を、彼は初めて“恐怖”として感じていた。
会議室に入ると、許 曉蕾副秘書長がすでにいた。彼女は宗憲を見るなり、低い声で言った。
「影子の“もう一つの系統”が動いてる。だが、どこに本流があるかはまだ分からない。
今夜、念のため機密通信をすべて暗号変更する。信じられるのは、ごく一部だけ」
宗憲はうなずいた。
しかしその背後で、何かが“切り替わる”音が聞こえた気がした。
誰かが、“声”を塗り替えている。
そして——
⸻
その夜。
地下施設で再び集まった宗憲と語恩、凱文。林は病院に運ばれていた。
語恩は、壁一面のデータモニターに映し出された“通信網”の空白を示しながら言った。
「今日の午後5時から、北投区と内湖区の一部で、電波の“影”が消えてる。
不自然に静かな領域。誰かが通信自体を“封じて”る。まるで、音が最初から存在しなかったように」
宗憲の胸に、微かなざわめきがよぎった。
「父が言ってた……“記録とは音だ”って。
音を残せ。誰かが聞いてくれるかぎり、記憶は消えないって」
語恩がふと目を細めた。
「その言葉……彼が残したノートにも書かれてた。“記録とは音。音を消せば、未来も消える”——って」
その瞬間、システムがエラーを吐き出した。
「接続中の一部サーバー、強制遮断……誰か、入ってる」
画面の中央に、ただ一言のログが表示された。
《火種は台北に撒かれた。鐘の音を聞け》
語恩が息を呑む。
「これ……何? どこから……?」
宗憲は立ち上がった。かすかに鳴った“鐘の音”が、誰にも気づかれず、台北のどこかで響いている気がした。
そしてその音は、誰かの“声”を呼び戻そうとしていた。
——まだ、すべては終わっていない。