第10話 攪乱の兆しと二人の影
203×年7月9日 午前10時ごろ、台北。
台北市政府庁舎内の広報室では、異様な緊張感が漂っていた。SNS上で突如として拡散された噂──「阿里山の神社跡に国家の秘密が隠されている」という投稿が、わずか数時間で十万件を超えるリツイートを記録していた。
スクリーンには複数のプラットフォームの分析ダッシュボードが映し出されていた。拡散のアカウントは複数あり、いずれも無名アカウントやボットによる自動投稿と見られる。
「典型的な情報工作だな……中国式の」と、台湾国安局の分析官がつぶやく。
広報部の職員が顔を青ざめさせながら言った。「このままでは、民意が揺らぎます。今夜予定されている与党代表の会見も影響を……」
そして、もう一つの事実も政府中枢に波紋を広げていた。
それは、先日発見された劉 明哲の記録──政府の監視網に残された一部のログの断片が、誰かによって持ち出され、改ざんされていた痕跡だった。
記録の復元に携わったのは、国家公安局の新たな調査員、杜 凱文。冷静な目をした長身の男で、鋭利な思考と行動力を備えた人物だ。
「……痕跡は、昨日の午前3時17分。政府内ネットワークの隙間を突いて、アクセスされている。痕跡は消されていたが、パケットの転送速度と経路から、内部者による可能性が高い。」
凱文は、調査報告を劉 宗憲に差し出しながら言った。彼の目線は冷たいが、その奥には何か言葉にしない熱を秘めていた。
宗憲は無言で資料を受け取り、視線を落とす。
「内部者……まさか、父が残した記録を、誰かが……?」
「それを確かめるのが我々の任務だ。だが忘れるな。君自身もまだ“疑わしき側”にある」
凱文の言葉は無情に聞こえたが、それは彼なりの職務の遂行でもあった。実際、彼は上層部から「宗憲の動向を監視せよ」という密命を受けていたのだ。
だが、凱文の心には、ひとつだけ釈然としない感情があった──「なぜ、彼の父・明哲が命を落とす直前、これほどの情報を記録しようとしたのか」。
凱文はそれを調べるにつれ、宗憲の過去、そして「島嶼協定(Dǎoyǔ Xiédìng)」に至るまでの軌跡に、次第に興味と敬意を抱き始めていた。
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同じ頃、北京・中南海。
白髪混じりの中年男性、**白 燕**が、執務室で資料を静かに見つめていた。部屋は防音と情報遮断が施された空間で、外の喧噪とは無縁の沈黙が支配していた。
彼の前にあるのは、台湾側の動向を記した極秘レポート。そして、AIによって分析されたSNSの拡散アルゴリズムの軌跡。彼が指先で触れるたびに、世界の情報が目の前で形を変えていく。
「台湾国内で火をつけるには十分だな。もう一押しで世論は割れる」
バイエンは、手にした万年筆で何かをメモしながら、呟いた。
「“あの神社跡”の件も拡散が進んでいる。だが……」
彼は背後に目を向ける。無言のまま控える人物──仮面をつけた影子の実行部隊の一人──が一礼し、消えた。
バイエンの目が細くなる。「劉 明哲の息子……このまま泳がせておけ」
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一方、台湾・台北市。
阿美族の血を引く立法委員、**馬卡萊・湯耀祖**は、中央議会内での与党議員との会談を終えた後、密かに宗憲に接触していた。
「お前の父が何を探していたか、俺は知らない……だが、昔、彼と話したことがある。“忘れ去られた神話の記憶には、真実が宿る”とね」
宗憲は思わず息を呑んだ。
「マカライさん……」
「台北の古い神社跡。昔、我々の祖先も儀式に使ったとされる土地だ。いまではホテルに化けているが、ある部分の基礎構造は当時のまま残されている。あの場所には、記録されていない加工の跡がある」
マカライの瞳は、歴史を知る者の深みを帯びていた。
「この国を動かそうとしている者が、何を恐れているか分かるか? それは“民意”ではない。真実だよ。真実だけが、支配の構造を壊すことができる」
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その夜、宗憲は凱文と共に台北市内の警備網を再チェックしていた。
SNSで広がる神社跡の陰謀論に乗じて、何者かが現地へアクセスしようとしている兆候があった。実際に、複数の監視カメラにノイズや一時的なブラックアウトが生じていた。
「この範囲の通信だけ、わずかに信号が乱れていた……誰かが電磁干渉を加えていた可能性がある」凱文が言った。
「わざと混乱を引き起こしてる……本当の目的は別にあるな」
宗憲は、父のノートに記された“最後の記録”──「鐘の音が鳴る時、真実は封印を解かれる」という言葉を思い出していた。
都市の喧騒のなか、遠くから──夜の帳を破るようにして──教会の鐘が静かに鳴った。
その音は、どこか不穏で、どこか優しく、どこかで“見ている者”の存在を告げているようだった。
宗憲と凱文は、思わず顔を見合わせた。
その音が、すべての始まりを告げていた。