此の世の果て
向かう理由などない。
越える理由などない。
1.
世界の果ては――
⼤地が無くなっているのだと聞いたことがある。
⾒渡す限り際限なく続く⿊い地平線の遥か先は、やがてだんだんと細くなり、その先は虚空へと繋がっているという。
虚空の先では。
どんな景⾊が⾒えるのだろうか。
そんなことを考えながら、彼はぼんやりと⼤地に座ったまま空を⾒上げた。
空は今⽇も、⽬まぐるしく⾊を変える。
この世界に在れた時は、それは⼤層驚いたような気がするのだが――最早慣れてしまった。
空は⾊を変え、⼤地は震える。
偶に⾵も吹くが、それもこれも彼の住む世界では当たり前のことだった。
今⽇は――晴れなのかな。
明るければ晴れ、というわけではないようだった。
しかし、晴れの⽇には晴れの匂いがする。
彼は少しだけ⿐を効かせてみたが――よくわからないなぁ、と胡乱な感想しか出てこない。
とにかく今⽇も、何もない世界で何も起こらない。
世界の果てを⾒てみたいと思ったことはあるが――今ではそれも億劫になってしまった。
世界の果ての、景⾊――
2.
世界はひとつではない、と聞いたことがある。
彼のいる世界とは別に、同じような⼤地が広がっていて、そこに住まう者たちも⼤勢いる――らしい。
彼にとっては、そんな異世界などおとぎ話のようなものだ。
よしんばそれがあったとして――⾏きたいとも思わぬ。
⽂化も技術も価値観も違う世界に⾏って――どうしろというのだ。
たとえばだが――⾃分が持っているこの世界の技術なり知識なりが、別の世界で有⽤なものだったとしても――とりあえずは不審者扱いされるだろう。
異なる世界では⽂化も異なるだろうから、⾝元の判らぬ不審者は即刻処分せよ――などということもありうる。
その時は、技術も知識もしっかりと奪われるのだろうなあと思ったところで、彼は考えていることの無駄さにようやく気付いた。
異なる世界で、持てる技術を使い、あわよくば危機に瀕したその世界を救って――
随分と頭の痛くなる考えだが、今の彼にはそれくらいしか考えることがない。
実際のところ――暇なのだ。
時間だけはあるから、考えにも⾺⿅さが⼤いに混じってしまう。
それで、ふと――
こことは違う世界を、⾒てみたいと思った。
その世界にも、果てはあるのか。
異なる世界の果ての、異なる景⾊―
3.
世界の始まりは、どこなのだろうか。
彼はぶらぶらと歩きながら、そんなことを考えた。
⽅⾓はよくわからぬが、世界の始まりの場所には⼤きな根があって、そこから世界が在れているのだという。
ならば、その根の隣からも、そのまた隣からも、別の世界が在れているのではないか。
――確かめたくなった。
――できることなら、この⽬で⾒てみたい。
そうして、彼はあてもないままこうして歩き続けているのであった。
⽅⾓は――こちらか。
確証があるわけではない。
ただ、空の景⾊が暗いほうが世界の根ではないかと思っただけである。
相変わらず⼤地は揺れ、⾵は強いがいつものことだ。
彼はしっかりと⼤地を踏みしめて歩き続ける。
この世界に在れて、どれほどの時が過ぎたのだろうか。
ずっと、ずっと呆けているだけのようだった――気がする。
だが、今なら。
今なら歩き続けられる。
彼は⼼の奥から。
何か熱を帯びたものが這い上がってくるのを感じていた。
この先に――世界の根がある。
そこからさらに歩を進めれば――こことは違う世界にたどりつけるのか。
そこは、やはり⾼い壁か何かで隔てられているのか。
ならば――越えるだけだ。
向かう理由などない。
越える理由などない。
ただ、この世に在れてしまった以上、⾏かなければならない気がした。
そう思った時だった。
霧が――出ている。
霧の濃さに、彼は思わず咽せて咳き込んだ。
この――霧は。
⼀体何なんだ――
何⼈も世界を越えることがないように、この霧が湧いてきたのか。
厭だ――
彼は薄れていく視界の中で、⼿を伸ばした。
⾏かせてくれ――
この世界から、連れ出してくれ――
⾒たいんだ、世界の果てを。
⾏きたいんだ、別の世界に。
彼が最後に⾒たものは。
毒気を孕んだ⽩い霧と――
燃え盛る地獄の業⽕だった。
4.
ぽとり、とソファの上に落ちた蚊をつまみ上げると、男はゴミ箱を探した。
遠いな――リビングの隅にあるゴミ箱は、ソファに寝転がっている男にとっては遥か遠くにあった。
少し考えてから、男は蚊取り線⾹の⽕種の上に、蚊の死骸をそっと置いた。
それは⾳もなく、少しだけ⿊い煙を吐いて――
やがてすっかり灰になった。
――三才図絵に云はく、江浦の間に麼⾍有り。
その名を焦螟と⽈う。
蚊の睫⽑に巣くふ。
再び、乳めども、蚊、覚えず。
毎に九卵を産み、伏して、九⼦、成らば、 倶に去りて、蚊、知らず――
(引用: 和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 蚊)