無自覚の報復
「そうなの!」
母の葬儀後、相続の相談に税理士事務所に来ていた盛田カネミは待合室で新聞を読んでいたところ、突然頷いた。
「どうしたの姉さん?」
同行していた妹の新見アキコはスマホから目を離し、姉に尋ねる。
「この生活欄の女性経済評論家のコメントを読んでご覧」
アキコが見ると、そこには【老後の女性の暮らし方】というタイトルで女性、特に専業主婦が老後をどう過ごすべきかの指南が書かれていた。
よく見る記事である。
「これが何よ?」
「亭主と離婚して年金を半分貰っても生活はカツカツで大変だけど、亭主が早死すれば年金も全額出るし財産も入って優雅な生活ができますと書いているわね。
うちの亭主ももう定年で退職金も出たし、その半分と年金の半分をもらって好きに生きようかと思っていたのだけど、期待していた親の遺産も思ったほどではないことがわかったし、年金の半分じゃ長い老後は苦しいかと思って、うんざりしていたのよ」
姉の言葉にアキコは驚く。
姉の夫は多少食い意地は張っているが、真面目に働き、女遊びもギャンブルも大酒もせずに、子育てや家事も手伝っていたと聞いていた。
何がそんなに不満なのか。
「祐介さん、そんなに悪い人じゃないと思うけど」
「まあまあの夫に見えるだろうけど、もう結婚して30年よ。
子供も巣立って二人きり。
小太りで髪も薄くなってきた冴えないおっさんと死ぬまで一緒なんて嫌なのよ。
ひょっとしたら私にも素敵なロマンスグレーのお金持ちと過ごす老後があるかもしれないわ」
それはない、シワだらけの顔とたるんだお腹を鏡で見なよとアキコは心で姉に返す。
「だけど、離婚してもその後にいい人と再婚できなければ貧乏暮らしになると思って踏み切れなかったのだけど、そうよ、旦那に早死にしてもらえばいいのよね」
カネミの言葉にアキコは仰天した。
「えっ、人殺しなんてやめてよ。
わたし、殺人者の妹なんて言われたくないからね」
「バカね。
そんな事するわけないじゃない。
ただ、不健康な生活をして、自然に早く死んでもらうのよ。
そうね、身体に悪いと言えば、酒とタバコと脂ぎった食生活、それに運動しないことか。
よし、そういう生活をさせないとね」
カネミはそう一人で頷く。
「でも祐介さん、再就職して働いているんでしょ。
それに先日の葬儀で見たら、前よりスリムになっていたじゃない」
スリムと言うより、退職したせいか生気なくしょぼくれていたように見えたが、そこは上手く言い換える。
「再就職なんて大した稼ぎじゃないわよ。
痩せたのは、稼ぎが減ったから小遣いも減らして、食事も旦那の分は安くあげることにしたのよ。
飲みに行く回数も減り、粗食になって痩せたみたい。
うーん、太らせるとなると食費がいりそうね。
でも将来のわたしの幸せの為に仕方ないか」
税理士から呼ばれて姉妹の雑談はそこで終わったが、本気かしらとアキコは姉の真意を訝った。
それから1年後、法事でアキコは姉夫婦と会った。
驚いたことに、祐介は見違えたように艶々して元気いっぱいになっていた。
「ふふっ、あれから小遣いを増やして飲みに行かせて、家でも好物の油物を増やしたの。
タバコはいくら勧めても吸わないけど、お酒は高いものを買ってもいいことにしたら結構飲むのよ。
挙げ句に、わたしに感謝して、俺はいい妻を貰ってよかった、周りの友人は退職したら扱いが酷くなったと嘆いているのに、こんなに大事にしてもらって本当にありがたいなんて言ってるの。
笑っちゃうわね。
それであの人、5キロ太ったって。
このペースなら高血圧やコレステロールで心臓麻痺とかになるかな。
癌はなかなか死なないから、即死してくれるのがいいわ」
そう言うカネミも少し太ったようだ。
「姉さんも太ったんじゃないの」
「あの人が美味しそうに食べるのでついついこっちも食べちゃうのよ。
おまけに、会社の帰りにお土産だって私の好物の甘味を買ってくるし。
でも長生きするために節制しないとね」
帰っていく姉夫婦を見ると、初老で小太りのお似合いのカップルだ。
(早死になんて言わずに仲良く暮らせばいいのに)
アキコはそう思いながら見送る。
数年してアキコが姉のことを忘れかけていた頃、カネミから電話がかかってくる。
「あの人、あれからなかなか太らないの。
健康診断の結果も悪くならないし、困ったわ。
いっそ毒でも入れてやろうかしら。
味噌汁に農薬でも入れたらいいかしら」
予想通りに進まないことに苛立ち、過激になる姉の発言にアキコは慌てる。
「毒殺なんてすぐにバレるに決まってるでしょ。
そうすれば残りの人生は刑務所行きよ。
祐介さんを不健康にするのはすぐには上手くいかないわ。
気長に続ければ効果はあるから」
「確かに刑務所行きはいやね。
スナック菓子とか不健康なものをどんどん食べさせて、お酒も酌でもしてたくさん飲ませようか。
運動もしているようじゃないし、最近はパチンコにはまってるみたい。
何時間も座っているのも身体に良くないだろうと思って、勧めたの。
もっと身体に悪いことないかしら」
姉との電話は疲れると思いながら、なだめすかして会話を終える。
ちょうど外出していた夫が帰ってきた。
「さっき祐介さんにばったり会ったよ。
ジョギングしてて、見るからに元気そうだったな。
お義姉さんが、運動のし過ぎは身体に悪いと言ってるそうだけど、自分をこんなに大事にしてくれる妻のために長生きして稼がなきゃと健康管理しているんだと。
おまけに元気なところを見込まれて、前よりもずいぶんいい会社に転職して収入も上がったとか言ってたな。
でもお義姉さんには内緒でヘソクリにして温泉旅行をサプライズでプレゼントするそうだ。
飲みに行くのもパチンコもOK、おまけに高い酒を買ってもらい、好きな唐揚げやフライをよく作ってくれて妻に感謝しかないんだって、羨ましい。
ああ、でも最近はこんなに良くしてもらって悪いからと、祐介さんが掃除洗濯から炊事まで家事をできるだけやってて、義姉さんをあんまり働かないように配慮してるとか言ってたよ。
マメな人だ」
夫がおねだりするようにアキコを見る。
まるで自分が悪妻のように思われているようで、アキコは頭にきた。
姉の真意をバラしてやろうかと思ったが、それは不味い。
「あなたはまずジョギングから始めたら。
家事もやってもらえるとありがたいけれど」
そう言ってキッチンに戻る。
まだ子供は学生だ。
夫には元気でいて稼いでもらわないと困る。
それはともかく、姉の計画は根底から失敗しているようだ。
でも、この話をしたら本当に毒を入れたりしそうで怖い。
アキコは姉には黙っていることにした。
それから3年後、深夜、アキコに電話がかかってきた。
「アキコさんですか?
盛田です。家内のカネミが倒れました。
温泉旅行に行っていて、露天風呂に入りに行ったところを心臓麻痺で倒れて即死です。
ウウッ
どうしていいかわからないけど、まずは一番仲の良かった妹のアキコさんに電話をと思いまして」
あとは涙声で言葉にならない。
(姉さん、あんなに考えたのにこんなことになるなんて。
まるで狩人罠に掛かるって諺そのものじゃない)
アキコは慌てて次の朝一番で行くことを約束しながらそう思う。
翌日連絡のあった病院に着くと、姉がベットに横たわっていた。
その姿は以前見たときよりもずっと太っていてアキコは驚いた。
「母さんにはもっと節制して痩せろとさんざん言ってたのに」
病室には甥と姪が付いていて、嘆いていた。
夫の祐介はベットの横でやつれきった姿で、涙をにじませていた。
「お父さん、そんなに泣いているとお母さんが安心して天国に行けないわよ。
お母さんはお父さんのことが大切だったのだから、自分のことを大事にして」
姪が慰めている。
(いやいや、姉さんはそんなことは全然思ってなかったわ)
心の中の声は外には出せない。
ひとしきりお悔やみを言い、知っている親族や知人のことを話してアキコは病院を出る。
なんとなく、病院の上で姉が怒り狂っている気がした。
姉の葬儀の後、アキコにも形見分けが来た。
聞くともなく聞いていると、父母の遺産などの姉の財産は祐介と子供で折半らしい。
祐介は自分の財産と合わせるとかなりの資産家だ。
彼はやつれた面持ちで、姉のことを悼んていたが、年配の資産家ならば寄ってくる女もいるだろうとアキコは思った。
姉の三回忌が終わってしばらくして、駅で姪と会う。
「叔母様、お久しぶりです」
しばらく世間話の後、思い出したように姪が言う。
「父が今度再婚するんです。仕事の関係で知り合ったそうです。
一回り下の人ですが、母を亡くして仕事一筋の父に惚れたとか。
寂しがり屋の父なので母の代わりに支えとなる人がいてくれると良いと思って賛成しました」
見せてもらった写真は、美魔女というかその年代と思えない美人だった。
おまけに一生独身と思っていたので結構な資産家だそうだ。
(姉さんは見ているかな?
まさかこんなことになるとはね。
まあ、姉さんのやりたかったことを、あんなに愛してくれた旦那さんがやってくれるからいいんじゃない)
クスッとアキコが笑うと、姉の答えなのか空からはゴロゴロッとカミナリが鳴っていた。