結衣、輝石島に立つ
2019年4月6日土曜日の朝、ボクは、鹿児島の西方沖を航行する船の中にいた。ボクの乗っている船は、鹿児島県いちき串木野市の港から1日2便出航する輝石島行きのフェリーだ。鹿児島本土から輝石島まで片道3時間かかる…。
ボクの名前は、中川結衣。東京生まれ東京育ちの22歳の女の子。アイドルのSnowManが大好きで、特に、目黒蓮くんの大ファンだ。ここ数年、日本各地で開催されるコンサートには全て顔を出している。今ではSnowManなしでは生きられない体になっている。
そんなボクがなぜ輝石島という南方の離島へ向かっているのか…。
ボクの父崇史は、医師であり複数の介護施設の経営者だ。父は、ボクがまだ小さい頃からボクを医者にしたがっていた。父はボクが小学生になると家庭教師を付けて猛勉強させたり、自分が経営する医療法人や介護施設に連れて行っては、医療、介護の素晴らしさを語りまくった。そして、結衣もいつか立派な医師になれよと言ってボクの頭を撫でたものだ。そんな事が続き、ボクはよく家出した。そんなこんなで学校の出席日数がギリギリな程勉強しなかったボクは、優等生には程遠くごく普通の子供に育った。
中学を卒業する年のある日、ボクが部屋でくつろいでいると部屋に入って来て、せっかくお前には小さい頃から良い教育を施したのに、学業の成績は惨憺たる有様。残念だ。結衣、今からお前は看護士の専門学校に行け。最短で合格しろよ。20歳で看護師になるんだ。看護師になれなかったら、この家を出て行ってもらうからな!と一方的に命ぜられた。
こうして父から看護士になるように言われたボクは、家を追い出されるのが嫌で泣きながら猛勉強した。そして、22歳の時、正看護師免許を取得した。最短で合格したことに、父の喜びようは尋常じゃなかった。力強くハグされて…気持ち悪かったのを覚えている。
その後、晴れて自由の身になったボクはSnowManにハマり、全てのコンサートに出かけるようになった。就職もせずSnowManの追っかけ三昧。
22歳のある日、父が私の部屋に入って来て、お前に頼みがある。たゑ子ばあを輝石島から東京に連れて来てもらいたい。え、ボクが何で?ボクは、父の突然のお願い事に驚いた。輝石島には、小さい頃に行ったことがあるが、何もない辺鄙な島だ。コンビニもない。あるのは島に唯一の商店があるのみ。レストランもない。あるのは、地域住民が経営する、店主の都合で突然閉店する大衆食堂だ。
断りたいけど、断ったら父の事だ。荷物をまとめて出て行けと言うに違いない。どうしよう…。すると、父は、もしたゑ子ばあを連れ帰って来れたら、SnowManでも何でも好きなだけ見ていいぞと言う。ボクがSnowManのコンサートに出かけようとすると、お前、またSnowManか。SnowManはお前なんかちっとも気にとめてないんだぞ。それよりも近場で彼氏でも見つけろ。と毎回嫌味を言っていた父の手のひらを返した物言いに驚いた。でも、これでSnowManの追っかけが公認になれば、ボクの自由が保障される絶好の機会だ。わかりました。輝石島に行きます。必ずたゑ子ばあちゃんを東京に連れてきます。ボクの返事に父は、ホッとした様子。そうか、ありがとう。助かる。そう言って父はボクの部屋を立ち去った。こうして13年ぶりの輝石島への来島が決まった。
2019年4月8日金曜日、ボクは、鹿児島県の輝石島に向けて出発した。羽田空港から飛行機に乗り、鹿児島の溝辺空港に到着。その後、空港バスで薩摩川内市の川内駅を経由し輝石島行きのフェリーが発着する串木野港に到着した。今から3時間後には、輝石島にいる。今回は、祖母たゑ子を東京に連れ帰る重大な任務を負っている。11時15分、ボクを乗せたフェリーは、輝石島に向けて出航した…。
串木野港を出港して3時間が経とうとしている頃、結衣が立っている甲板から眼前には、次第に輝石島が姿を現し始めた。結衣の見る先には、沢山の人で賑わう仲井間港が近づいてくる。船内にアナウンスが流れる。
「まもなく本船は、仲井間港に到着します。お降りの際は、お忘れ物のないようご注意ください。長い船旅お疲れ様でした」 結衣を乗せたフェリーは、ゆっくりと仲井間港に接岸する。フェリーが接岸するとタラップが架けられた。船員の合図で乗客が次々と仲井間港に降り立つ。結衣も降りる乗客の列に従ってタラップを降り仲井間港の地を踏んだ。
びゅーううぅぅー
仲井間港に立つ結衣を、突然生温かい風が吹き抜けた。
うわぁ…気持ち悪い…。
結衣は、思わず顔を顰めた。小学生低学年の頃、父と輝石島に帰省した時と同じ風だった。生温かくて潮臭くて…ずっと都会で暮らしてきた結衣には、島風は気持ち悪いものでしかなかった。
仲井間港は、島外からの帰省客でごった返している。焼きたてのバケットやクロワッサンが並ぶパン屋。焼きたてのパンの匂いに群がる客。対面には、色鮮やかな花が並んだフラワーショップ。その他にも古本屋やコーヒーショップなどが軒を連ねており、通りは活況を呈している。そんな通りを黙々と歩く結衣。結衣の側をベスパのスクーターが横切る。
しばらくすると、バスターミナルが見えてきた。今から結衣は祖母たゑ子が暮らす潮浜集落にバスで向かう。潮浜集落は、仲井間港から村営バスで30キロ西方に走ったところにある。結衣がキャリーケースを引いて立っていると1台の村営バスが停車した。結衣は、ゆっくりと乗車し後部座席に座った。
仲井間港を発車したバスは、島の西方に向けてゆっくり進む。しばらくすると、林が見えてきた。林は延々と続き切れ間が見えない。結衣は、移り行く樹木のカーテンを静かに眺めている。たゑ子ばあと会うのはほんと久しぶりだ。小学生の時以来だからもう中数年会っていないんだ。たゑ子ばあ、ボクの事わかるかなぁ…。ボケてわからないんじゃないか…。東京に行こうって言ってもお前さんはどこのお人かとか言って断られるのが関の山かも…。延々と続く雑木林を進むバスの中で色んな想像を巡らす結衣。
しばらくして、バスは雑木林を抜けた。眼前に小さな集落が見えてきた。潮浜集落だ。潮浜集落は、片浦港の周辺に民家が集まる集落だ。漁業と農業を細々と営んでいる。海岸近くに玉姫という民宿があり、釣りのシーズンになるとメジナ狙いの釣り人がここを訪れる。
結衣を乗せたバスが集落の停留所にゆっくり停車した。バスを降りる結衣。そして、キャリーケースを引いて歩いていく。途中70代の女性2人とすれ違う。珍しく若い子と会ったためかすれ違いざまに結衣を振り替りみつめたが、何か2人でヒソヒソ話したかと思うと、また、反対の方角に向かって歩いて行った。