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追放された公方

作者: Diego

ブランクがあるので、筆慣らしに書いたものです。

『儂からの数多の援助も顧みず、当家に弓を引く悪行の数々。武家の長として到底許容できるものではない。よって、其方を都から追放する。元の生臭坊主に戻り、何処ぞで托鉢でもして生きながらえるが良い。ふぁ~~ははは』


大きく額を剃り上げ、鼻髭を蓄えた男が勝ち誇ったように、自分に告げると、田舎者らしい下品な笑い声をあげた。


憤怒と怨念に体中に力が籠り、気が狂いそうな激情に身を包まれた所で目が覚めた。

この夢を見るのはこれが何度目になるだろう?

凡そ三年前の出来事というに、まるで昨日のように思い出す、屈辱の瞬間だ。

あのクソ親父、公方の権威を利用し尽くすだけ利用し、私腹を肥やし、財を得て成り上がるや、余を用無しとして、都から追放したのだ。悪逆非道なのはどっちだ。


「必ず、必ずや、あのクソ親父に天罰を与え、復讐してやる!!」


*1576年(元亀7年・天正4年) 対馬府中 六角義治


『斯様な辺鄙な所までようこそお越しくださいました、右衛門督様』


上座を俺に譲った館の主、宗義調そうよししげは恭しく平伏した。

俺が右衛門督の座を当の昔に失しているのを知っておるくせに白々しい。


この宗一族は長年に渡って幕府の偽使ぎしを朝鮮に派遣し朝鮮貿易を独占してきた者達だ。

西国の大名や商人達には周知の事実なのだが、これまで放置されてきたのは日ノ本にとって朝鮮は交易相手として価値のない存在だったからだ。

朝鮮から買う物は主に綿布や人参だが、これらは明国の品物の方が品質が遥かに良い。

一方、日ノ本から朝鮮に売る物は、銅、蘇木スオウ(赤を染める染料)、胡椒等だが、南蛮から仕入れ転売する品が多く堺や博多の大店が参入する程、益のある交易とはいえなかった。


その偽使を仕立てている宗氏の元に幕府から公方名義の公証を授けたいという話が来たのだ。彼らが平伏し商人のような揉み手で出迎えるのも当然だろう。


「刑部少輔殿、近頃の朝鮮の状況は如何かな?戦などは起きてはおらんか?」

義調は揉み手を崩さず答える。

『朝鮮では国内での争いは長らく起きておりません。以前は専ら倭寇対策で兵を動かしておりましたが、近頃は倭寇も収まって来ておりますれば、平穏そのものにございまする』

「ふむ、して、民の暮らし向きは如何か?」

『それが、戦乱に喘ぐ我が国の民と同等、地域によっては日ノ本の民より酷い所もあります』

「そんな状態でよく一揆が起きないものだな?」

『日ノ本のように仏僧など一揆を扇動する者がいないからでしょう。かの国では仏法より儒学の方が盛んで、身分が上の者には逆らわない者が大半なのです』

扇動する者がおらず、民は貧しくとも目上の者には逆らわないか。

嘸かし、まつりごとは楽であろうな。

「朝鮮の政はどうだ?」

『現在の朝鮮王は宣祖ソンジョと申す者ですが、先王以上に儒学に傾倒し今では漢城府ハンソンブの役人は全て儒学者で占められております』

「では、朝鮮王の統治は盤石ということか?」

『それが、そうとも言えません。漢城府を支配している儒学者は士林派サリムパというのですが、政を担うことになって早々に東人トンイン西人ソインの二派に分かれ激しい内部抗争を繰り返しているようです』

「その二派が戦を起こす兆しはあるか?」

『いえいえ、両派とも文官の集団なれば、戦に発展することはないでしょう。はて、右衛門督様、いかようにそこまで朝鮮の政状をお気になさるので?』

「うむ、実は朝鮮より調達したい物があるのだ。その物は戦があった方が調達が容易くなるのだがな。刑部少輔、詳しく話す故、苦しゅうない近う寄れ」

『では、失礼仕ります』

寄って来た義調に儂は耳打ちを始めた。

暫く聞いていた義調は、その内容に大いに驚いた物の、幕府の公証を得られるとあって調達を確約した。

『お任せ下さい。漢城(現在のソウル)と富山浦(現在のプサン)に当家が構える倭館がございます。朝鮮の民は飢えた者が多うござれば、必ずやご所望の品を届ける事叶いましょう』

「繰り返すが、この品は公証による交易とは別枠とせよ。この品の入手に幕府の公証を使用する事はまかりならぬぞ」

『はは、万事お任せ下さい!』

「無事に調達の路が開けた際には、公方様よりそちの男子に偏諱を授ける用意がある。大いに励め」

『これはこれは、ありがたき幸せにございまする』

義調に男子などおらぬことは百も承知なのだが、億尾にも出さずに礼を述べてくるわ。

全く食えぬ奴。もっとも、此奴くらいの者の方が此度は都合が良いかもしれぬ。



*同1576年(元亀7年・天正4年)如月 備後国・とも 征夷大将軍・足利義昭


逆賊により都を追われた余は、河内・和泉・紀伊と流れ毛利家の領内であるここ鞆で臨時の幕府を開くことにした。逆賊めは日ノ本から余の存在自体を消さんとするかの様に元号を余が定めた元亀から天正に改めた。もう三年になる。全く忌々しい限りだ。

だが、未だ余を敬おうてくれる者共もいる。ここ備後を治める毛利家からは早速、吉川元春が挨拶にやって来たし、そもそも紀伊からここまで船を出してくれたのは雑賀衆・根来衆が指揮する紀伊水軍である。彼らは武勇の者として知られ、水軍のみならず陸でも鉄砲の扱いは並ぶ者なしとの評判だ。彼らと繋ぎを付けられたことは逆賊討伐の大きな助けとなるに違いない。

此度は鞆に腰を据えて初めての評定である。

政所執事・摂津晴門が口を開く。

『長崎の石橋(石橋忠義)様の報せを受け、対馬の宗氏の元に六角様が向かっております。幕府直臣の訪問とあれば、宗家も否応なく応じてくれましょう』

『倉はどうか?倉が満たなければ幕府の権威を保つ事も難しくなる。忌憚なく申してくれ摂津殿』

管領・細川輝経の問いに摂津は口を綻ばせ返答する。

『御安心下され。現在、幕府は備中の御料所からの年貢、五山住持の礼銭、琉球との交易を行っている島津氏、先に申し上げた朝鮮との交易の対馬・宗氏からの献金があり倉は全く心配ございません。幸か不幸か召し抱えている家臣の数が少ない故、倉が溢れる事はあっても、干上がる事はないでしょう』

これには余も苦笑する他ない。事実、家臣の数は都にいた頃の二割程度にまで減っている。しかも、この三年、主上や公家衆への献金も行っておらず、改元がなされた事といい、彼らは最早、逆賊の子飼いと化しているであろう。献金を再開しても切り崩せそうな公家は見当たらないのが現状だった。

「堺や博多の商人で献金してくる者はいないのか?」

余直々の問いに評定の場が一時緊張に包まれた。

『博多からは神屋、島井から献金を受けております。また長崎の原田からも献金を受けております。堺からは流石に届いておりませんが、管領代(畠山昭賢)様の伝手で切り崩し可能な店がないか内偵中でございます』

「あ奴に堺の土地を与え代官に任じたのは余であるからな。やむを得んか」

全く、思い出しただけで腸が煮えくりかえってくる。あ奴は主上や余からの副将軍就任の命を断り、代わりに堺や草津に土地を得て商人と繋ぎを付けたのだ。

幕府の権威と商人から得た銭で力を得て、用済みとなった余を追放したのだ。

今に見ておれ!あ奴が幕府の権威と銭で力を得たなら、余も同じようにやるのみよ。元より余には公方としての権威がある。銭も幸いにして潤沢だ。奴に復讐した暁には、打ち首にしてやろうか?いや、あ奴が焼き払った延暦寺の門弟にでもしてやろうか?ふふふ、今から奴の泣き面が楽しみだわ!


*同1576年(元亀7年・天正4年)文月 長崎 南蛮寺 宿老・石橋忠義


目の前の男の不快そうな表情を見るたび、零れそうになる笑みを堪えるのが大変になる。

こ奴は、通訳に連れて来た備前守(内藤如安)の流暢な葡萄牙語を聞くたびに、不快な顔を浮かべるのだ。しかも、返答は自らが連れて来た通訳に日本語で返させる始末だ。

そう、この男は日ノ本の人間を侮蔑しているのだ。我ら日ノ本の人間が奴らの言葉である葡萄牙語を話す事にさえ嫌悪の念を抱いており、それを隠そうともしていない。

奴の名をガスパール・コエリョという。表向きは伴天連であるが実態は奴隷商人と言った方が相応しい邪悪な男だ。

この男の上役であるフランシスコ・カブラルもまた日ノ本の人間を蔑視しており、この主してこの臣あり!の典型的な連中である。

だが、こういう男は使える。利のある事には飛びついてくるからだ。

コエリョの不快そうな表情を物ともせず、備前守が葡萄牙語で話し続ける。

『パドレ(司祭)が日ノ本の異教徒を異国にて売却していることは、我が国の王(公方のこと)も把握しております。王は日ノ本の民の切支丹への改宗は順調に進んでおり、いずれ、パドレが商品としている異教徒が日ノ本からいなくなることを危惧しております。ついては、王は日ノ本の近隣にてパドレの商品の産地を発見致しております。この商いがとり纏まった暁には、パドレは数千、いや一万以上の品物を手にするでしょう。無論、女子も多くご用意可能です』

コエリョの不快そうな顔が、備前守の言を聞いてあっけに取られた表情に変わった。

まったく、心の内がよく顔に出る男だ。だが、無理もあるまい。これまで九州の切支丹大名が売り払ってきた改宗拒否者は総勢で数百人程度だ。今回の商いとは数が一桁、いや二桁違うのだ。

コエリョは不快そうな顔を欲深い顔に上染めし備前守に直接問いただし始めた。実に分かりやすい男だわ。

『数千から一万もの奴隷が手に入るのか?それも女子が多数か。誠なのか?ジャポンの近隣ということはアマヘロ(アジア人)の女子なのだろうな?アマヘロの女子はネグロ(アフリカン)にさえも良く尽くす故、人気なのだ』

この様子ではコエリョも日ノ本の女子を二、三人飼っていそうだ。備前守の通訳を聞きながらそう思った。

『勿論でございます、パドレ。ただ、これだけの大きな商いとなりますと、用立てて頂く物もそれなりの物となります』

『そうだろうな。で、其方達は何を欲しがっているのだ。香木か?硝石か?更紗か?ビードロか?何でも用意致すぞ、申して見よ』

『我らが欲しているのは、軍船です。聞けば葡萄牙はフスタ船という大砲を複数備えた小型の快速船を有しているとのこと。しかも大砲は従来日ノ本に伝わっているフランキ砲よりも長射程なデミ・カルバリン砲という大砲を三門も備えているとのこと。その船一隻につきアマヘロ奴隷五十名、内、女子十名で如何でしょう?』

『女子の割合をもう少し多くして貰えんか?アマヘロの男は非力で労役には向かん。アマヘロは女子の方が価値があるのだ』

『では、デミ・カルバリン砲三門備えたフスタ船一隻に付き、アマヘロの女子三十名では如何です?フスタ船二百隻でアマヘロの女子六千人ですぞ』


会合を終えての帰路、備前守と今回の商談について話し合った。

「あの様子では、コエリョは二百隻以上調達してきそうだな」

『ええ、まるで目の前に餌をぶら下げられた犬のようでしたな』

「ふふ。所でフスタ船とやらは操舵は難しくないのか?」

『帆と櫂で漕ぐ船と聞いていますから、安宅船と大差ないでしょう。村上水軍、紀伊水軍であれば、問題なく扱える筈です。デミ・カルバリン砲は扱いに慣れるまで時間が掛かりそうですが、ここ、長崎には扱った事がある船員が大勢いる筈です。手ほどきに何人か引っ張るのは簡単でしょう』

「これも、六角が対馬で話を纏めて来たお陰だな」

『はい、朝鮮には軍役もほぼなく、侍所(警察)も無いも同然とのことでしたね。おまけに民の暮らし向きは酷く、仕事の斡旋と称して徴発すればあっという間に一万二万と集まりそうだと言うんです。今時、呑気な国があったものです』

「お陰で我らは大助かりだがな。だが、コエリョは口説き落としたが、伴天連の更に上の方から、横やりは入らんか?何しろ大筒を備えた軍船の大量購入だぞ?」

『コエリョのあの顔からして、旨くごまかすのでしょう。それにバレても袖の下掴ませて仲間に引き入れる腹積もりかもしれません。大型の軍船を欲しがったら、澳門マカオへの侵攻を恐れて断られたかもしてませんが、フスタ船は所詮安宅船程度の船ですから、”倭土人に暮れてやっても問題ない”とでも思っているのでしょう』

涎を垂らした犬のようなコエリョを見ていて忘れていたが、奴もその主のカブラルも我ら和人を蔑視しているのだった。ならば、備前の言うように考えているかもしれん。


*1577年(元亀8年・天正5年)如月 伊予・能島 土岐頼次


逆賊撲滅を目指す公方様に仕官して一年、美濃守を名乗った俺は、ここ能島で嘗てない高揚感を覚えていた。

というのも、長崎から到着した新船に村上殿の水軍衆が乗り込み、操舵を確認しているのだ。この新船には新型大筒が三門も付いている。この大筒の扱いも長崎から来た天竺人と思われる水夫から水軍衆が指南を受けている。

それにしても、船に大筒とは!!

今、能島に着いているいるのは十隻程だが、長崎の石橋様によれば本年中に百隻以上は届くという。

彼ら村上殿の水軍は昨年、摂津の木津川河口での海戦で、逆賊軍相手に大勝している。その精鋭たる彼らに斯様な新型船が加わるのだ。最早、瀬戸内は完全に村上殿の無双状態だろう。

「掃部頭殿、本日も勢が出ておりますな!」

埠頭で水軍衆の修練を見ながら、村上掃部頭元吉に声を掛けた。

『痛み入ります、美濃守殿。当初は大筒の轟音に驚いていた兵達ですが、身ての通り今ではカモメの鳴き声程度にしか感じておりません』

「全く頼もしい限りです。新型船はまだまだ到着する予定です。これで瀬戸内は安泰ですな」

『全くです。大筒を備えながら従来の安宅船と同等の操舵性を持っている船です。ここまで凄い船をお借り出来て、水軍冥利に尽きるというものです』

元吉はそう言って、笑った。

そう、これらのフスタ船は名目上は村上水軍への下賜ではなく貸与なのだ。だか、年内にも百隻を超えるというこの船を鞆の浦に全て停泊させるのは不可能であるから、実質的には供与したのと同じ扱いとなるだろう。

何れにせよ、都を不当に占拠した逆賊の軍が瀬戸内を荒らしまわることは無いだろうし、海戦では村上殿を主力とする幕府軍はもはや無敵だろう。


*1577年(元亀8年・天正5年)弥生 薩摩・内城 (前)九州探題・渋川義基


「久しゅう御座いますな修理大夫殿」

『探題様に於かれても、ご健勝にて恐悦至極にございます』

薩摩守護・島津修理大夫義久はそう言って、相好を崩した。

二十年も前に辞したと言うに未だ儂を探題と呼んでくれる。それもその筈、現探題は島津氏にとって目障りな豊後・大友であるからだ。

「昨年の日向切り取り、実にお見事でしたな。公方様より日向守護の任証が御家に発布されました。こちらをお受け取り下さい」

そう言って、公方様が日向守護に任ずると認めた任証を差し出した。

『公方様に於かれては、毎度、当家に便宜を図って頂き感謝の言葉もございません』

「なんの、公方様も修理大夫殿の厚い忠義とそれを形にされた献金には、いつも感謝の御言葉を述べておられます。そんな、修理大夫殿に此度は公方様よりお願いしたい儀があると仰せつかって参りました」

『それはまた、どのような御用向きございましょう?』

「いや、修理大夫殿にとっては大した事ではございません。豊後の大友家を突いて頂きたいのです。前日向守護の伊東が豊後に逃げておりますれば、遅かれ早かれ大友は日向に出兵してくるでしょう。それを修理大夫殿の方から豊後を牽制し、大友を引っ張り出して叩いて頂きたいのです。大友は大国ですが、北の毛利とも緊張状態でありますれば全軍は出せないでしょう。日向に引きずり込めば地の利は修理大夫殿にあると考えますが、如何です?」

『探題様の仰る通りに御座いますな。大友に万全な準備をさせるよりも、こちらから突いて焦って出兵させるのも上策かもしれません。しかし、この件、公方様の御要望との事でしたが、公方様に如何なる利があるのでございますか?』

「公方様は毛利の支援を受け都を逆賊より奪還するご意向です。ですが、大友が毛利と敵対している現状では、大毛利といえど出せる兵に限りがございます。そこで、修理大夫殿に大友の力を削いでいただき、然る後に毛利と大友の和議を仲立ちし、後顧の憂いなく毛利殿に逆賊討伐に向かってもらおうというわけです。毛利と大友の和議がなった暁には、大友には日向への不可侵を申し付けます。また、貢献熱い御家には琉球守護の職を新設し任ずる用意があります。そして、公方様が都に復帰した暁には、琉球守を新たに設け御家に任するよう主上に働きかける予定です」

『なんと、大友を一叩きするだけで琉球守護に琉球守でございますか』

「従来より、琉球との交易は御家が日ノ本を代表して担って頂きました。その長年の働きに対し公式に職位として定め労をねぎらうと共にその正当性を担保するという事です」

『公方様はそこまで当家をかって下さっているとは・・、分かり申した。大友に地獄を見せてやります故、公方様には何卒よろしくお伝え下さい、探題様』

「これは頼もしい。某も公方様に良い報告が出来て嬉しゅうございます」

ふ~、毎度思うが薩摩弁は聞き取るのが本当に大変だわ。が、無事に修理大夫殿の協力を取り付けた故、大役は果たせて万々歳だ。


(同年・神無月(10月)、島津の挑発に乗り日向に侵攻した大友軍は、史実より一年早まった、世に言う耳川の戦いにおいて大敗を喫し、大友義鎮・義統父子は這う這うの体で丹生島城にうじまじょうに帰還した。また、島津大勝の報は坊津ぼうのつから長崎にもたらされ、長崎常駐の幕府宿老・石橋忠義によって、二通の書状が大友宛に発送された。その内容は、

一通は公方名義で

1.毛利と講和する事

2.日向守護は島津であるので、今後、日向へは出兵は厳に慎む事。

  (島津にも豊後には侵攻しないよう通達を出した)

3.領土拡大について、土佐の長宗我部が逆賊共と同盟しているので、土佐は切り取り自由とする。

4.土佐切り取りに当たっては伊予・河野に大友と協力するよう命じたので、両家でよく相談する事。

大敗によって重臣を多く失った大友にとって、島津と毛利の挟撃は何にも増して脅威だったので、公方の仲介による毛利との和議、島津との不可侵は正に渡りに船であった。


もう一通は長崎の布教区責任者フランシスコ・カブラル名義で

1.切支丹王国建国の為の日向への出兵に感謝する。

2.今後は日ノ本王(公方のこと)の書の意向に従って欲しい。

3.島津に鹵獲されたフランキ砲(国崩し)は同型砲を新たに供与する。

4.此度の切支丹の為の合戦の労に答える為、洗礼名ドン・フランシスコを授けたい故、折を見て長崎まで来訪して欲しい。

カブラルからの内容に大友義鎮は狂喜した。彼の切支丹信仰はあくまで南蛮貿易による現世利益が目的だったが、洗礼名まで持つことになれば葡萄牙人からの信頼はいよいよ厚くなり、交易の利得も得やすくなると考えたのである。)


*1578年(元亀9年・天正6年)霜月 摂津・木津川口 村上水軍・村上武吉


総勢三千の大船団を率い木津川河口を目指している。目的は本願寺門徒が籠る大坂本願寺への物資補給だ。

二年前の同任務で息子の元吉が逆賊水軍相手に大勝に、大いに株を上げたので、今回は手柄を譲って貰おうと言う胸算用だ。

何しろ、今回は一隻に付き新型大砲三門を搭載した新型船が二百隻も帯同しているのだ。無論、弾薬も潤沢にある。

その上、此度は幕府より管領代(畠山昭賢)様を総大将に遣わして頂いた上、逆賊共に深い恨みを抱く、右衛門督(六角義治)様、美濃守(土岐頼次)殿も乗船下さっている。名実ともに正義は我にあれだ。

ただ、気がかりな報も受けている。先に逆賊の水軍と相まみえた紀伊水軍によれば、連中は恐らく鉄と思われる金属で甲板を覆い大鉄砲を三門備えた大安宅船を六隻保有していると言うのだ。鉄の甲板というのは、我らの炮烙玉に対抗するのに付けたのだろうが、そんな事したら船の機動性は台無しだ。その点、俺らの新型船は大砲三門備えても従来の安宅船に勝るとも劣らない快速性を維持している。敵の大鉄砲とやらは気になるが、俺らの新型砲が射程で後れを取る事は無いだろう。

そうこう考えている内に、漁船に扮した斥候舟が戻って来た。

『申し上げます。雑賀殿(紀伊水軍)の知らせ通り、鉄と思われる黒の大船が六隻、木津川口に横一列に停泊。河口を封鎖しておりました』

「大鉄砲は見えたか」

『はっ、遠目でしたが、恐らく伴天連が見せびらかしてくるフランキ砲と思われます。某、長崎に下向した折、実物を見ておりますれば、間違いないかと・』

「あいわかった。役目大義である。自船に戻り後方に下がるが良い」

斥候用の小舟など、砲撃戦では一溜りもないから後方に下げさせた。

さて、暫くすると、その大安宅船が見えて来た。

全船に停船を命じ遠眼鏡で見てみる。成程、確かに黒くてデカい。ただ、あれは一応船の形状をしているが大鉄砲を備えた河口封鎖用の砦のような物だ。動かしながら戦をするのはあれでは無理だろう。

「これは、海戦というより攻城戦だな」

因みに、この遠眼鏡は公方様よりお貸し頂いた品だ。何でも、毛利様や薩摩の島津殿と和睦の仲介をした礼にと大友殿が公方様に献上した品らしい。間違いなく日ノ本に唯一無二の品だ。

俺らの新型砲は一貫目(4kg)の弾丸を五町(凡そ550m)の距離に打ち出すことが出来る。敵の大鉄砲がフランキ砲とすれば、その飛距離は精々三町(330m)と聞いている。砲術指南に来た天竺人から聞いた話だから信用して良いだろう。要すれば、俺らが一方的に蹂躙できるという事だ。

俺は全船に号令を出す。

「此れより、新型軍船二百隻で五町の距離まで接近、到着次第、旋回、全門を敵の大型船に向けよ。砲撃はこれまでの修練通り、五組交代制とする!!」

大船団故、周知に時間が掛かるのはやむを得ないが、敵船が動きそうもないので、落ち着いて対処できるのが幸いだ。


やがて、五町の距離で準備完了。砲撃を開始した。敵はまさかこの距離から砲撃されるとは思っていなかっただろう。甲板の乗員が大混乱に陥っているのが見える。

ところで、この新型砲は種子島と同様先込めで、次弾装填に時間が掛かる。そこを補うのが五組交代制だ。二百隻を五組に分け、一定の間隔で砲撃を加えるのだ。五組目が砲撃を終えた頃には、最初に発砲した一組目は装填完了しているというわけだ。

これも一組四十隻、つまり百二十門という数があるからこそ出来る策だ。


合戦は早朝から昼過ぎまで続いた。無論、俺達の一方的な蹂躙の場だった。時折大船から砲撃があったが、こちらまで届いた弾は一つとしてなかった。

やがて、鉄で覆われていない側面から浸水でもしたのだろう。中央の大船が船体を揺るがし大きく傾くと、これを端緒に他の五船の乗員も含め敵兵が続々と逃げ出し始めた。

俺らの今回の任務は本願寺への補給であるので、小舟で逃げ出した敵は深追いさせず、邪魔な大船をどかす為に敵船に近づき乗船した。一応、六隻全てで敵兵が残ってないか確認させているが、中央の一隻が横転座礁しているので、隣の一隻をどかすだけで木津川への入船は可能になるだろう。

旗艦である俺の船には管領代様、右衛門督様、美濃守殿も載っているので念のため後方で待機だ。代わりに敵船乗船隊を率いているのは因島衆の村上左衛門大夫亮康だ。


*同日 逆賊軍・大安宅船 村上左衛門大夫亮康


兵を分散させて敵船に乗船させた後、座礁した大船の隣に儂は家臣と共に乗り込んだ。ある程度予想していたが、敵兵めは大量の火薬、砲弾、種子島を残していったわ。

ん?船がデカすぎて乗船するまで気がつかなかったが、鉄の甲板に旗印が棚引いておる。これは?黒い七つの丸印、つまり七陽紋!つまり伊勢志摩の海賊・九鬼殿であろう。逆賊水軍の頭目は九鬼殿だという話は儂も聞いている。ということはこの船が旗艦なのかもしれん。

「おい!皆の者、こいつは九鬼殿の船だ。どこかに潜んでいるやもしれん。充分注意いたせ!」

九鬼殿率いる伊勢の海賊は槍働きもかなりの腕前と聞く。儂は皆に注意を呼び掛けた。

やがて、家臣達が一人の男を捕らえて儂の元に引きずり出して来た。身なりからしてかなり上位の者である事が分かる。が、足を痛めているらしく逃げるのを諦めたようだ。

「村上左衛門大夫亮康である!其の方、名を名乗れ!」

儂が命じると、男は負傷を物ともせず太い声で答えた。

『九鬼右馬允嘉隆だ。此度の村上殿の差配、誠に見事。我らの完敗である』

なんと!九鬼の総大将であったか!

「右馬允殿、何故一人残られた。其処許であれば担いでくれる家臣にも困らなかっただろうに」

『敗れたとはいえ、最後まで船を守る者が一人は必要であろう。それが海の男の矜持たるもの。此度は某が負傷した故、船内で甥に家督を譲り下船させたのだ。どうせこの足では最早戦働きは無理だ。最後に船守りとして死ぬつもりだ』

「命を捨てると申すか?右馬允殿、いっそ、公方様に仕えぬか?公方様は琉球や朝鮮始め異国にも目をむける視野の広いお方だ。海の男として仕え甲斐のあるお方だぞ」

『某が公方様に仕えては、家督を譲った甥っ子と敵同士となってしまう。誘いは有難いが応ずる分けには参らん』

「そうか。どのような沙汰が降るか分からんが、可能な限り手当する故、管領代様や我ら村上の総大将と会見されよ」

『忝い』


(その後、会見した管領代らは公方に急使を派遣し対応を協議。結果、嘉隆の自害は許さず、能島にて牢に入れられる事となった。また、大阪本願寺への武器兵糧の補給も無事完了した。)


*1580年(元亀10年・天正8年)睦月 備後国・とも 征夷大将軍・足利義昭


この所のイライラする気分を必死に抑え、評定の場に赴く。各地で任に当たっていた家臣が揃い、実に久々の評定なのだが、正直、足が重い。なんでこうなった?

余の到着を待って、政所執事・摂津晴門が評定の開始を告げた。

『まずは監物(柳沢元政)殿、毛利家の現況について説明をお願い致します』

摂津に促され、取次ぎ役として日頃毛利家に出仕している監物が話し出す。

『二年前の木津川河口での逆賊軍二度目の討伐を知った時点では、毛利家中も湧きかえっており、公方様を奉じて上洛しようという機運が高まっておりました。しかし、幕府を通じて盟約を結んでいた北陸の上杉弾正少弼(上杉謙信)殿が同年春に身罷っていた事が分かるや、慎重な意見が多くなりましてござります。特に小早川中務大輔(小早川隆景)様が慎重派の中心でございますれば、副将軍(毛利輝元)様も動くに動けないご様子に御座います』

管領・細川輝経が更に問いただす。

『副将軍の上洛を当てにして、逆賊共に正義の旗を振り上げた、摂津、丹波、播磨の諸将が次々と逆賊共に降っていってるではないか!中務大輔殿はその辺り如何様に考えておるのか?』

『は、中務大輔様としては、急に拡大した領地の足元を固めないまま上洛し、更なる版図を広げる事は危険と考え、先ずは新たに影響下に入った地の掌握を優先しようとしていたのです。ですが、管領様仰る通り、丹波、播磨の将は元より毛利様の上洛を当てにして毛利に付いたのです。それが、毛利様がお越しにならないとなれば、彼らだけで、逆賊共と戦うのは難しかったのでしょう』

『つまり、中務大輔殿は毛利の領地拡大の原因を読み誤ったということだな。知将と聞いていたが、意外と頼りないの中務大輔』

管領が吐き捨てるように独り言ちた。

主に畿内との取次ぎを担当していた真木島玄蕃頭昭光が発言する。

『摂津の荒木摂津守殿(荒木村重)は、まだ、正義の旗を降ろしておりません。摂津守殿の有岡城は堅牢な上、海からの物資補給も可能でございますれば、本願寺もある摂津は未だ抵抗を続けることが出来るでしょう』

『摂津の状況は好ましい限りだが、ただ城に籠るだけでは逆賊共を都から追い払う事はできん。剰え、毛利の消極さに逆賊共との境界最前に立つ将達は動揺し、備前の宇喜多、伯耆の南条らは逆賊の側に寝返っておる。毛利の戦線は今や備前・伯耆にまで後退しておる故、摂津の支援は不可能であろう』

管領がそう告げると、主に遠方で任に当たる者からどよめきが起きた。

『備前が逆賊の手に堕ちた?ここ備後から近いではないですか?もしや早晩ここ鞆も危うくなるかも知れませんぞ!!』

日頃は長崎に常駐している嘗ての将軍家御一家・石橋家の当代・石橋忠義が声を荒げた。

『お待ちください石橋様。確かに備前はここから近うございますが、間にある備中の清水宗治殿は勇将の誉れ高く、宇喜多とて容易くは侵攻できないでしょう。ここ鞆の浦は安泰に御座います』

監物が慌ててとりなした。

しかし、上洛に向けて毛利の兵が当てにならないとなれば、何処を頼れば良いのだろう?

「右衛門佐(武田信景)、甲斐武田の現況はどうだ?数年前に逆賊軍と対峙し手酷くやられたとの事だったが、勢力は盛り返しておるか?」

甲斐武田取次ぎ役は、遠縁の若狭武田の出である右衛門佐に任せている。

『は、以前、設楽原で敗れた時は、大いに心配しましたが、大膳大夫(武田勝頼)様は”老害を一掃できて家内の風通しが良くなったわ”と強気のご様子でした。しかしながら、越後で上杉弾正少弼様の後継争いに巻き込まれ、今は苦境にあるようです。大膳大夫様は越後・相模との同盟を継続したかったそうですが、越後の後継者を巡って大膳大夫様と相模の左京大夫(北条氏政)様が対立、現在は越後との同盟は継続しておりますが、相模と決裂したことで東西に敵を抱えることになり、どうやら、西の逆賊共との盟約を結ぼうと暗躍している節があります。その証拠にこの所、大膳大夫様は専ら東の北条領に兵を差し向ける事が多う御座います』

ふむ、甲斐武田は上洛に向けて出兵を充てにできる状況ではないということか!

甲相和議するよう御内書を出すか?しかし、北条は以前から余の命に従う事は少なかった。家内に関東公方 (古河公方・足利義氏)を擁しているせいもあるのかもしれぬ。更に武田も北条領に出兵しているとあれば、現状では御内書の効果は薄いか?余の心の内を読んだかのように管領代(畠山昭賢)が口を開いた。

『毛利は戦線を後退し、甲斐武田も当てにならないとなれば、幕府は何処を頼れば良いのだ?本願寺や荒木摂津守は攻勢に転じる事は可能か?』

『恐れながら管領代様、本願寺も越前や伊勢長嶋の門徒が倒され、大阪本願寺のみとなれば籠城が精一杯、それも村上水軍による補給が頼りでございます。本願寺も荒木も援軍の当てがないと判断すれば諦めて正義の旗を降ろす可能性すらあります』

真木島玄蕃頭昭光の家臣・上野秀政が申し訳なさそうに答えた。

幕府には自前で動かせる兵がいないのだ。これ以上いくら話し合っても名案を出るとは思えなかった。

『管領代、堺の商人で我らに付いてくれそうな者の見当は付いたか?』

管領の問い合わせに管領代が答える。

『はい。本願寺にいる吉良義昭を使って探らせた所、魚屋ととやの田中が関心を寄せているとの事です。田中は商人と同時に茶人でもあるのですが、納屋の今井、天王寺屋の津田の後塵を拝しており、逆賊が支配する堺はじめ畿内に変革が起きないかと内に秘めていた模様です。茶の湯は名物の収集に兎に角銭が掛かりますすれば、現状では大店の納屋や天王寺屋に財力で叶わないのも無理からん事です。魚屋ととやも嘗ては三好めの御用商人だったそうですが、三好めが没落した現状商いの方は小さくなっております。そこで、吉良から”華美に過ぎない田中の茶の湯を公方様が大層気に入っている”と持ち掛けたところ、田中は大いに喜び内密に協力する意を示したそうです』

「その田中とやらは、逆賊共の開く茶会に招かれる事もあるのか?」

『堺の会合衆に名を連ねておりますし、以前、逆賊めが相国寺で開いた茶会には招かれていたそうです』

「であれば、上手く田中を使って茶席で逆賊めの息の根を止められんか?」

余の言葉に評定の場は緊張と驚きに包まれた。

『左様な事は武家の長たる公方様が仰るべきではございません。汚れ仕事なら別の者を手配できましょう。それに、茶の湯は回し飲みが習わしなれば、茶席で左様な事は難しいと思います』

管領に窘めるように言われてしまった。

「そうか。ところで、最近、朝鮮からの品が滞りがちだそうだが、どうだ?石橋?」

『はっ、流石の朝鮮もあまりの女子の流出に引き締めに動いているようです。以前は漢城府ハンソンブ内の派閥争いで対立する派閥の女子を拉致して売り払う役人もおり、厳かな着物の女子も手に入ったのですが、最近は百姓の女子すら少なくなっております』

「では、毛利、島津、大友には戦で乱取りした女子は全て幕府で買うと内密に通達せよ。伴天連共からの武器調達は今後も重要であるからな。毛利が備前や伯耆で苦戦するようであれば、伴天連の武器を最優先で降ろすとも伝えよ。良いな監物!」

『はっ!委細お任せ下さい!』

(『自国の女子をも奴隷として売り払おうとは、最早、復讐の鬼、悪鬼羅刹の所業よ』

管領・細川輝経は内心で主の言葉に恐怖していた)

『一つよろしいでしょうか?』

『何事か?申して見よ石橋殿』

管領が石橋に発言の許可を出した。

『長崎の原田が言うには、呂宋ルソンは守りが薄く日ノ本の水軍でも容易く落とせそうだと言うのです。国内で兵の調達が難しいなら、いっそ、呂宋を占領して幕府直轄地とするのは如何でしょう?かの地であれば、南蛮の地に近く、香木や染料の入手も容易くなりましょう』

『直轄地が得られるのは大きな事ですな。早速、呂宋切り取りを村上殿に命じましょう』

『あいや、待たれよ』

逸る丹後守護・一色昭秀を前九州探題・渋川義基が制した。

『村上殿は強力なれど内海を行く海賊だ。呂宋となると荒い外海を行かねばならん。ここは外海に慣れている島津殿に命じるのが吉と思う。この所の島津殿は陸から肥後の攻略に乗り出しており、水軍には余裕がある様子。フスタ船の供与を餌に命じれば応ずるやもしれん』

『では、その方向で島津に打診してくれ。よろしいですな公方様?』

管領の言葉に、

「良い。急ぎ書を認める故、持って行け渋川。少弐も連れてゆくが良い」

少弐とは少弐大宰少弐冬敬。嘗ての筑前守護の末裔だ。大宰少弐は自称だが家名もあって九州では有効な肩書だろう。


*1581年(元亀11年・天正9年)

国内では八方ふさがりな評定から一年・・

毛利の援軍が得られない大阪本願寺は果てのない籠城戦に厭戦気分が高まり、ついに逆賊共と和睦してしまった。

孤立した荒木摂津守(荒木村重)も有岡城を脱出し逃亡した。

逆賊共は紀伊にも侵攻し雑賀衆・根来衆を蹂躙した。


*1581年(元亀11年・天正9年)長月 和泉国・堺の商家・魚屋 吉良義昭


顕如上人が昨年大阪本願寺を退去したことにより、儂は摂津に居場所がなくなり、今はここ魚屋に居候の身だ。仕事は専ら備後国・ともの公方様方と魚屋主人・田中宗易との取次ぎだ。田中は堺の会合衆の一員だが、密かに公方様と通じており、御内書、密書の配送を担ってくれている。

「田中殿、此度はこちらの配送をお願いしたいのだが・・」

『先はいつものあのお方ですな?』

「左様」

『公方様からは、納屋さんや天王寺屋さんも扱っていない珍しい品を融通していただいておりますからな、お安い御用です』

「商いの方は、如何かな?」

『お陰様で恙なくいっております。摂津が平穏になった事によって扱う品が武具・火薬から嗜好品に代わった事くらいでしょうか。公方様から降ろして頂いた”樟脳”は良い香りで大層好評に御座います。文の配送程度でお返しが足りているのかと心配になる程です』

田中はそう言って、相好を崩した。

「文の確実な送付は誠重要な事だ。公方様も田中殿の仕事に満足されている。気になさる必要はないぞ」

『そう言って頂けると気が軽くなります』

実際、田中に頼んでいる文は重要な物ばかりなのだ。公方様との繋がりで充分に益を上げていなければ安心して任せることはできないだろう。



*1582年(元亀12年・天正10年)


この年は激動の年となった。前年に摂津・紀伊を平定した逆賊共は、毛利の戦線が後退している事も手伝って、全軍で東の大国である甲斐武田領内に侵攻した。

武田は重臣の謀反もありさしたる抵抗もできず、弥生(三月)、当主・大膳太夫勝頼、嫡男・太郎信勝が自害し滅亡した。

更に皐月(五月)、備前の宇喜多を先鋒にした逆賊軍が備中高松城を包囲した。

高松城主・清水宗治は前月より攻め寄せて来た宇喜多ら逆賊軍を繰り返し撃退していたが、逆賊軍は合戦での不利を悟り、城周りに堤防を築き川を堰き止めるという奇想天外な水攻めを開始したのだ。この水攻めは翌水無月まで長引き、同月四日、城主・清水宗治の自害と備中の逆賊軍への割譲で毛利と和議が成立した。

これにより、備後に居を構える幕府と逆賊勢力は国境を接する事になったのである。


*1582年(元亀12年・天正10年)水無月五日 備後国・とも 征夷大将軍・足利義昭


朝、堺にいた足利御三家筆頭・吉良家の末裔である吉良義昭が、やはり御三家の丹後守護・一色昭秀に伴われ鞆御所を訪れた。何やら危急に伝えたい儀があるという。

管領・細川輝経、管領代・畠山昭賢を伴い御所の小間で吉良を出迎えたが、何やらただ事ではない様子だ。挨拶も早々に吉良は話始めた。

『申し上げます。都・本能寺にて逆賊・斎藤左京亮龍重・・・・・・・、義将・明智惟任日向守(明智光秀)殿に誅殺されましてございます。二条御所に隠居していた先代逆賊・斎藤左近大夫道三・・・・・・・・も同時に明智殿に討伐されましてございます』

『誠か?!至急、監物(柳沢元政)に使いを出せ!毛利に公方様を奉じての上洛を命じよ!』

管領代は興奮気味に誰へともなく声を上げるが、吉良の表情は何故か硬い。

『吉良殿、続けよ』

不審に思った管領が続きを促す。

『は、事が起こったのは今月二日に御座います。明智殿は約定通り、討伐後すぐに公方様宛に文を出したようですが、取次ぎの魚屋が、文を公方様に回付せず、備中にいた木下藤吉に渡した模様です』

「『何!!』」

これには、この場の全員が驚愕の声を上げた。

『木下というのは高松城を攻めていた逆賊・道三坊主・・・・の手先であるな?』

管領の問いに吉良は首肯した。

『つまり、魚屋はその木下某と繋がっていたという事か?』

『恐らく。今まで公方様が明智殿に認めた文も全て木下に漏れていたとものと・・。全ては魚屋を信用した某の不手際に御座います。一命に変えてお詫び申し上げます!』

死を持って償うという吉良だが、今はそれどころではない。

「早まるな吉良。毛利にはこの儀伝えたのか?」

『はっ、共に堺に滞在していた京極高成殿を毛利への使者に遣わしております』

「よい!管領代の言う通り、監物には余からも文を認める。道三・・めが死んだとなれば毛利も和議を見直すであろう。毛利に働きかけ上洛致そう。都の明智と合力し残党狩りだ。明智にも文を出す故、吉良、此度は其方が持参するが良い。雑賀の残党とは繋ぎは付くであろう?其方の警護に役に立ってくれる筈だ。顕如上人にも文を認める。残党狩りを手伝って貰おう」

『承りましてございます』

平伏する吉良を背に、文を書くため私室に戻った。

明智とは昨年から密かに文のやり取りをしていたのだ。元々、明智は余が越前に避難していた時の家臣であり、”油売りの血筋に日ノ本を委ねるのか?”と逆賊の勢力拡大に危機感を煽り、”正しい血筋の武家の世を取り戻そう”と道三一味・・・・討伐を働きかけていたのだ。

事が事故、実行の時期は明智に一任していたが、討伐実行後速やかに余に先触れが来ることになっていた。まさか、取次ぎの魚屋が木下某と内通していたとは!


*1582年(元亀12年・天正10年)水無月十五日 備後国・とも 征夷大将軍・足利義昭


取次ぎ役として毛利に出仕していた柳沢監物元政が戻って来た。

政所執事・摂津晴門、管領・細川輝経、土岐美濃守頼次と共に話を聞く。管領代・畠山昭賢は顕如上人と会合のため不在だ。

『監物殿。副将軍(毛利輝元)様の上洛準備の方は如何ですかな?』

摂津が迂遠に急かすように問うた。

『実は、毛利家内では小早川中務大輔(小早川隆景)様が”和を結んだ以上、攻め上がるべきではない”と上洛に慎重でございますれば、副将軍様も動くに動けない状況にござります』

『小早川、また、あの臆病者か!』

管領が以前も上洛に及び腰だった小早川を詰った。

『最早、毛利など当てにせず、顕如上人を頼り上洛致しましょう!』

道三坊主に美濃を追われた因縁のある土岐は逸る気持ちを抑えきれないようだ。


その時、外が慌ただしくなった。足音が聞こえる。摂津が襖を開け

『何事か?騒がしい!』

と窘めるが、切羽詰まった様子の先触れと思われる使者が表に控えている。と告げて来た。

管領に目配せする。

『発言許す。そこで申せ!』

管領は使者に入室を許さず、表から伝えるよう命じた。

『はっ、申し上げます。京の明智惟任日向守様、木下藤吉殿に討たれ身罷りました模様にございます。明智様の居城・近江坂本城も火に包まれているとの事に御座います』

「『何だと!』」

明智が道三坊主を討ってまだ十日足らずである。木下というのはその頃まだ備中にいた筈ではないか?

備中から都まで僅か十日で大軍を動かし、京で待ち受ける明智の軍勢を撃ち破ったというのか?

やがて冷静さを取り戻した管領が口を開いた。

『木下某は密かに魚屋と繋がっていたとの事でございました。推察ですが、明智殿に二心ある事を予め知っておったのでしょう。であれば、いつ明智殿が動いても応ずることが出来るよう手を打っていたと考えざるえません』

「確かにな。して、木下某はその事を道三一味に伝えず、明智に敢えて討たせてから動いたという訳か。自らが、道三一味に成り代わろうという意図が見えるな、食えぬ奴だ」

『いっそ、木下某に文を出し、公方様を奉じて天下に号令するよう命じては如何でございましょうか』

摂津がそういったが、木下の動きを見る限り、道三一味同様、余の権威だけ利用しやがて追い出される気がしてならない。

「まずは、その木下某とやらの素性を探れ。土岐、頼むぞ」

『御意にございます』


*1582年(元亀12年・天正10年)葉月 備後国・とも 征夷大将軍・足利義昭


水無月に起きた激動に揺れた御所は漸く落ち着きを取り戻し始めた。

期待した顕如上人からは、堅牢な本願寺を開城している上、長島や加賀の門徒も壊滅しており挙兵は無理との詫び状が届いたが、先月には、薩摩にいた石橋、小弐が帰還し、呂宋攻略に向けた島津水軍のフスタ船の修練が順調で更に琉球国の支援も得られそうとの報がもたらされ、久々の明るい話題に沸いた。


立秋が過ぎ残暑の季節が訪れ始めた頃、意外な者が能島の九鬼右馬允を通して仕官してきた。


余を始めとする幕閣の前で二人の男が平伏している。

『尾張守護・斯波左兵衛佐義銀にございます』

『尾張守護代・織田上総介信長にございます』

尾張は道三一味の勢力下であったから、守護も守護代も傀儡だったろうが、それでも、公方である世の前で律儀に職位を告げて来た。足利一門である斯波氏の仕官で、細川、畠山と共に三管領家が揃った事になる。

斯波の紹介で守護代である織田が仕官に至る顛末を話す事になった。余は織田とは都にいた頃に会った事がある。伴天連に貰った南蛮の外套を喜んで羽織っていた記憶があるが、この織田は道三坊主の娘婿だったのだ。道三一味内での実権は守護である斯波より遥かに上だった事だろう。この男なら詳しい話が聞けそうだ。

『まず初めにお久しゅうございます、公方様。改めまして織田上総介にございます。某は斎藤家一門として、甲斐武田の攻略を担当しておりました。武田滅亡後、義父・道三は美濃時代からの旧臣・安藤伊賀守守就殿を関東管領に任命し某も安藤殿と共に関東におりました。同様に旧臣・稲葉右京亮良通殿に越前ら北陸方面攻略を命じておりました。中国攻略は木下藤吉にございました。義父が倒れて以降、今後の斎藤家の後継体制について美濃稲葉山城にて評定が開かれまして、某も出席いたしました。評定は三男・一色右兵衛大輔様を推す稲葉殿、四男・斎藤利堯様を推す安藤殿に分かれ大いに荒れ申しました。そこへ木下が義父の庶子・義龍殿のお子である一色式部大輔龍興殿を伴って現れ、”家中が割れるのはどなたの利にもなりません。稲葉殿、安藤殿共に一旦堪えていただき、ここは、庶子とはいえ長男であった義龍様の嫡男・一色式部大輔龍興殿を立て家中を早々に纏めるが肝要にございます”と仲裁案を出したのでございます。謀反人・明智殿を討ち仇討ちを果たしたのは木下でしたから、家中を纏めるというその言い分には一利あり、結局、木下の案が採用されたのです。

式部大輔殿は三十を超える男盛りではありますが、庶子である義龍殿の更に庶子であり、家内で戦働きは全くなく、亡き斎藤左京亮様の影武者を務めている程度でございました。木下の言う義龍様の嫡男というのは詭弁にございます』

余ら幕府から見れば義将である明智だが、斎藤家中からは謀反人か。この分では謀反を唆したのが余だとは織田は露程も思っていないな。木下は余の関与を知っている筈だが後継者を決める評定でも明らかにしなかったか。余に利用価値があると思っているのやもしれぬ。

「木下とやらは、影武者を後継者に据えたか。して、其方らは何故、尾張を離れ余に仕官するのだ?」

そう、まだ肝心な事を聞いていない。

『はっ。問題はその後の木下の行状にございます。影武者だった式部大輔殿を傀儡に据えたあ奴は、その後ろ盾に収まるや、後継者評定で取り決めた領地の再分配を次々に反故にし、殊に後継者評定に出る為関東を留守にしていた間に旧武田領を北条に奪われた事で、安藤殿や某を糾弾し、某から尾張の地を召し上げたのでございます。このまま、木下が威を強める斎藤家中に留まっても某に先はないと思い、尾張にあった守護の斯波様と協議し、九鬼水軍を頼って、公方様の元に参じた次第です。因みに安藤殿も一旦決まった西美濃を召し上げられ、今は旧領・信濃を取り戻すべく三河の松平殿の元に身を寄せております』

未だに思い出す度に腸が煮えくり返る余の都からの追放の場に織田は居なかったな。武田と対峙する任にあったというから当然か。三管領家の血筋である斯波も連れて来た事だし召し抱えてやっても良いか。幕臣で槍働きが出来る者は希少であるしな。

「委細分かった。斯波共々召し抱えるのは構わぬが、余の元で其の方は何を望む。尾張復帰を願っても、当分は叶わぬぞ。何しろ幕府自体が都へ復帰しておらぬのだ。管領、探題、守護と要職に付いている者はいるが、実態は無に等しい。現在は幕府を担ぐ大名もおらぬ故傀儡ですらないのが実情だ。それでも余に仕えるか?」

『勿論でございます。実は九鬼殿より伺いましたが、公方様に於かれては呂宋に水軍を派遣し彼の地を手中に収める計画があるとの事。某、胸躍りましてございます。南蛮の地で希少な品で力を蓄え捲土重来を果たす。是非、某もその末席に加えて頂きとうございます』

あぁ、そういえばこの男は大層な南蛮被れであったな。少し意地悪な問いをしてみるか。

「呂宋は南蛮の外套を羽織るには暑すぎる地であるが構わぬか?」

『全く構いませぬ。呂宋は香木が多く手に入る安南にも近いと聞き申しております。更に公方様が従えるフスタ船の製造工房もあると聞き及んでおります。彼の地を得られたなら、百姓上がりの木下が大きな顔をしている日ノ本を取り戻す等容易い事にございましょう。是非、某をお使い下さい。公方様』

どうやら、想像以上に呂宋に詳しいようだ。そう、土岐の調べで木下某は百姓上がりという事が分かったのだ。やれやれ、油売りの次は百姓か!

「ところで木下とはどのような男であるか?」

『はっ、体はいたく小さく、頭や顔はまるで禿鼠のようであります。ただ、人に取り入るのが上手く百姓から取り立てられ、今では一群の将にまで成り上がった者です。あ奴の一番の得手は敵を寝返らす事にございますれば、公方様に於かれても充分にご注意下さい』

既に魚屋の件では木下にしてやられているがの。

「そのような猥雑な者が主上のおわす、都を席捲するのを手をこまねいてみている訳にはいかぬ。さりとて木下は毛利とも和を結んでしもうて、今、日ノ本では手勢が手に入らん。そこで、其の方言う通り、呂宋の地に幕府を移し捲土重来を期すことにした。其の方の働きぶり次第では呂宋守護、いや南蛮探題に任じても良いぞ、余らに付いて参れ」

『南蛮探題でございますか。いよいよ胸躍ります。日ノ本を武家に取り戻すよう力を尽くします所存にございます』

織田はそう言って改めて平伏した。


公方らは、島津水軍や琉球国の支援を得て、翌年、呂宋を攻略、エスパーニャ人総督を捕らえ逆さ貼り付けに処すと共に島民への浸透を図っていく。

また、木下藤吉も同年、対立する北陸の稲葉右京亮良通を破り、三河の松平も従え、着々と天下を手中にしていく。


その後の日ノ本はほぼ史実通りに推移する。木下は関白となり豊臣姓を名乗る。彼の死後、関ヶ原、大阪の陣があり、松平改め徳川の時代となる。


一方、呂宋に拠点を移した幕府は、アカプルコとのガレオン貿易で栄え、東はグアム島、南はパラオ諸島、北は高山国(現在の台湾)まで版図を広げる海洋国家となっていく。

南蛮探題となった織田信長が呂宋の宣教師によって洗礼名・チェゲバラを与えられ、エウロパにも名を轟かせる存在となった。


両者に再び接点が出来るのは、1603年(慶長8年)の事である。徳川家を征夷大将軍に任命する為、朝廷より呂宋の幕府に同職返上の宣下の使者が遣わされたのだ。

この時、道三坊主に復讐を果たした物の都への復帰を切望していた公方・足利義昭は既に亡かったが、義昭の子・足利義尋が上洛、同職の返上した。その際、朝廷から義尋に征南大将軍の地位が贈られた。

朝廷を頂点に、鎖国し内向きな江戸幕府、海洋国家として積極的な諸外国との交易を行う呂宋幕府、という対照的な二つの幕府による連合国家となった日ノ本はどんな近世を迎えるのだろうか?



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