前
「ねえ、昼食はまだかしら?」
カエラが侍女に尋ねると、侍女の体が明らかに強張った。
「カエラ様、昼食は先ほど食べたばかりですよ。」
また、だ。カエラは口をきゅっと引き結ぶ。
「そう言えばそうだったわね。ごめんなさい、私ったらうっかりしていたわ。」
はじまりが何か、はカエラは分からなかった。時折あるのだ、常人のうっかりを超える間違いや物忘れ。
最近は自分が何をすべきかも分からずに、ぼんやりとする時間が増えた。
侍女も大変だろうと思う。
ただ彼女はとても気立てがよく、最近のカエラにもよくしてくれている。
………困ったことに名前は思い出せないのだけど。
自分が自分でなくなっていく感覚にいつも恐怖を覚えている。でも、取り乱してはいけないのだ。
カエラは誇り高き公爵夫人なのだから。
「少し、庭園を歩きましょうか?」
にこりと笑う侍女に手を取られて、立ち上がる。別の侍女がカエラに帽子を被せ、日傘を持たせる。藤色の布を重ねて、ピンク色の花弁が美しい花があしらわれたカエラのお気に入りの帽子だ。
「暑くはないですか?」
「いいえ、暑くはないわ。」
外に出た瞬間に日差しの匂いがした。これからだんだんと暑くなるのだろう。風は爽やかでいて、それほど強くなく。
カエラが華やかな薔薇の花を好んでいたことをよく知っているからか、赤い薔薇の花が咲き乱れる道を歩く。
「綺麗ね。」
「そうですね、カエラ様。」
大きな花弁が本当に美しい。花の種によっては、花弁の色が異なり、まるで絵具を滲ませたような赤色と白色を混ぜたような、そんなものもある。
「食卓に飾れば、旦那様も喜ばれるわ。あら、でも旦那様は香りが強い花は余りお好みになられなかったわね。」
「…そうですわね。それなら食卓ではなく、カエラ様のお部屋に飾りましょうか?」
「そうね。私のお部屋に飾りましょう。」
「こちらとうかがったので。」
「テオバルト!」
カエラが弾けるようにそちらに向き直り、駆け寄ろうとする。旦那様は軽く目を細めた後、少しだけ笑みを見せてくださった。
「この薔薇をお部屋に飾ろうって言っていたところなの。」「そうですか。」
話し方が随分と変わられたわね。いつも「そうか。」とだけだったのに。
「カエラ様、少し休みましょうか?東屋でお茶を用意します。」
「そうね。そうして。」
テオバルトは忙しいのだ。お茶に付き合ってくれるのだろうか?テオバルトに目を向けると、また少し微笑みカエラの手を取り、東屋の方へと向かう。
穏やかなの初夏の昼下がり。
旦那様と二人、お茶の時間。なんとも幸せで満ち足りた場所なのだろうとカエラは一人満足する。
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いつからか。大奥様を大奥様と呼ばなくなった。正確に言えば、呼べる。呼ぶことは可能だ。
呼ぶことは禁止されているわけでもなく、ただ大奥様と呼ぶと呼びかけに応えてくれなくなったのである。「カエラ様。」と名前を呼ぶと、必ず答えてくださるので最近はずっとカエラ様だ。
邸に勤める侍女ローズマリーは、一人悩む。
医者もよくわからないと首を捻るばかりで。
ただ歳を重ねると、記憶力が弱くなったりすることは稀にあるから、そういった類のものだろうと。
そもそもこの国ではカエラ様ほど長く生きておられることはそれほどないのである。
不思議なことにカエラ様は物事をうっかり忘れるだけでなく、自分がしたことを忘れてしまうこともある。
何より旦那様はもう既にこの世にはいらっしゃらない。
旦那様が亡くなった、その事実さえも。カエラ様は忘れていらっしゃることがある。覚えている時もあるのだけど。
悲しくて記憶を違えてしまったのか、とも思ったりもするのだけど、長く勤める侍女長によれば旦那様が亡くなった後、悲しまれたようではあったが、その後すぐに記憶が違えたようなことはなかったという。
元々のんびりされていた方だから、今の状態でお世話することは何ら問題はない。問題はないのだが、侍女の中でも動揺しているものは多くいるわけで。
「ローズマリー、カエラ様がリフィルを叱責されているのだけど、来てくれないかしら。」
「すぐ行くわ。」
足早にカエラ様の居室に向かうと、部屋の外からでも聞こえるような大きな声が聞こえてくる。
「あなたにそんなこと、されたくないわ!あなたっていつもそうね!命令しないでちょうだい!」
「リフィル、どうしたの?」
「私はただ、湯あみに誘っただけなのよ。それなのに、なぜこんなに怒られるのかさっぱり。」
「最近は特に物事がよく分からなくなっているのよ。」
問題はリフィルにあるのではないし、カエラ様が悪いわけではないのだ。
以前カエラ様が、ティオナ様と会われた時に、側に控えていたのがリフィルだったから。
カエラ様は、ティオナ様と会うことを拒んでいたのだけど、せっかくなのだからと二人を会わせて以来。カエラ様はリフィルの言うことをあまり信じないのだ。
"その時"のカエラ様は、旦那様がまだ生きていると信じていた時で、ティオナ様のことも覚えておらず、ティオナ様のことを旦那様の愛人だと思ったらしい。
カエラ様が今何歳なのか?それは毎日というより毎秒変化していると言えるほどなのだ。
記憶の中を彷徨っているカエラ様の中で、この人に嫌なことを強制された。そんな感情だけが根強く残ってしまったらしい。
ただリフィルは通いであるし、ここを辞めても仕事に困るだろう。
何も問題がない侍女が辞めたことで、カエラ様に注目されるのは避けたい。
「リフィルには客室の片付けをお願いするわ。」
何かあった時には、人が変わるに限る。
もちろん長く勤めてくれているリフィルのことをカエラ様は時折思い出すし、思い出している時には以前のように穏やかに接している。
少し時間を空けて、一人で落ち着いてもらえば。次あった時には先ほどのことが嘘のように穏やかな表情をされることだってあるのだ。
リフィルが辞した部屋の中で、ローズマリーはカエラ様と向き合う。
「あんなに取り乱してしまって。どうかしていたわ。」
悲しそうに目を伏せるカエラ様。
「ねえ、ローズマリー。私、最近、自分がおかしいことくらい分かっているのよ。気が触れていることも分かっているのよ。」
優しくのんびりとしたカエラ様。カエラ様の本質は何も変わらないのだ。
「カエラ様は何も変わってなどいませんよ。」
震える声で伝えるのが、今ローズマリーにできる精一杯だった。