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かえらぬ彼女

作者: もり子

亮一(りょういち) ―― 物語の語り手。

荻野(おぎの) ―― その幼馴染。

朱里(あかり) ―― 亮一の恋人。

「朱里が帰ってこないんだ」


 そう私が告げた瞬間――くしゃり――と卵の殻でも踏んだような音がした。

 しかしきっと気のせいだ。洒落た音楽の流れる喫茶店に卵の殻なんて落ちているはずもないし、第一私も相手もこのときは微動だにしていない。四人掛けソファー席の横を通りすぎる人物もいなかった。だからきっとその音は私の耳だけが聞いたように錯覚した、ただの空耳にすぎない。


「朱里って――お前と付き合っている朱里ちゃんだよな? 帰ってこないってどれくらいの期間だ?」

 心配そうに尋ねてくる荻野もまたとくに気にしている素振りはない。彼は、ひょろりと背の高い、見方によっては男前だが見方によっては小奇麗な骸骨にもみえるなんだかアンバランスな私の友人である。久しぶりに私の方から連絡し、折り入って相談したいことがある旨を伝えると二つ返事に承諾し予定を組んでくれた。昼時にスーツで現れなかったということは今日は仕事ではないのだろう。たしか車の営業だかなんだかをしていたはずだ。私と荻野と朱里は、小学校から不思議とずっと一緒の腐れ縁だった。

 どれくらい――と改めて具体的に聞かれると困ってしまう。朱里が消えてから私は時間の感覚を完全に消失していた。昨日のことのようでもあり、もう一年以上前の出来事のようでもある。

「たぶん――半年かそこらかな」

 我ながら他人事のような声がでた。最近の私はずっとこんな感じで様々なことに感情がついていかないのだ。失踪した朱里の行方を心配していることは本当なのに。

 そんなに、と荻野は絶句する。

「半年ってマジかよ。そのあいだ、お前はいったいどこで何をしていたんだ」

「なにって仕事だよ。彼女が帰らないからって出社拒否するわけにもいかないだろう」

「そうじゃなくてちゃんと探したのかって聞いているんだ。朱里ちゃんが行きそうなところとか。実家や友達の家とかは探してみたのか」

「もちろん探したよ。実際に訪ねたさ。でも見つからなかった。匿っているふうでもなかったな。ご両親には変に心配かけすぎないよう上手く取り繕っておいたけど」

 私は正直にありのままを伝えた。自分の娘が行方不明とあっては朱里の両親にも多大な気苦労をかけてしまう。ちょっと喧嘩してしまって家を飛び出されてしまいまして――と冗談交じりに事のあらましを伝えると、両親もまた昔からあの子はやんちゃだったからねえなどと恥ずかしそうに、しかしどこか誇らしげに笑って受けとめ、でも亮一くんとならあの子も問題ないでしょうと最後は私の人柄を信頼してくれる形で落ち着いたのだった。私と朱里は幼い頃から家族ぐるみで仲が良い。

 荻野はううんと唸って腕を組んだ。背の高い友人は腕もまた細長い。

「半年間行方知れず、か。こういうときは――警察なのかな」

「警察?」

 その発想は一切なかった。

「失踪届とか捜索願とか――よくわからないけどそういうのを提出すれば警察が捜査してくれるんじゃないのか。いや、待てよ、事件性がないと判断されれば提出しても受けとるだけで積極的に動いてはくれないんだったかなあ。よくドラマとかで見かけるのはそうだよなあ。日本の警察は結局のところ役に立たないっていう――」

 そうだよ事件だよ、と荻野は自分でいった言葉に自分で手を叩いて反応した。

「事件に巻き込まれたって可能性はないのか。そう、たとえば、誘拐とかさ」

「それは――微妙なところかも」

 私の返答は要領を得ない。

「微妙って?」

「最後に朱里とあったとき――まあ自宅だったんだけど、その、喧嘩したんだ。二人で同棲しているマンションさ。それはもう別れる別れないの大喧嘩で、朱里なんて手当たり次第に近くのものを投げつけてきて、わあわあ怒鳴って、それで――」

 それで――。

 どうしたのだったか。

「身の危険を感じて――咄嗟に顔を庇おうとした手がタイミング悪く、たしか朱里の身体を突き飛ばすことになってしまって――それを反撃と解釈した朱里はさらに逆上して――」

「昔から虫も殺せない性格のお前が自己防衛とはいえわざと突き飛ばすわけないもんな。それで?」

「たぶん、もう私たちおしまいよ、みたいなことを朱里は言い残して家を出ていった」

「なるほど。それきり音沙汰なしってわけか。たしかに事件に巻き込まれていなくなったというよりかは、喧嘩が原因で自発的に雲隠れしたっていうほうがしっくりくるな」

 荻野は随分古風な言い回しをする。

 うん、と私は頷いた。そのとき、


 ――くしゃり。


 また、あの音がした。

 薄く脆い卵の殻を革靴で踏み潰すような音。


 私は咄嗟に周囲を見渡した。しかし、音の原因らしき要素はどこにも見当たらない。

 荻野はほっそりとした顎に指を添えて深く考え込んでいるふうだったので、くしゃりという微かな物音にも、私の不審な挙動にも気づいていないようだった。

 それにしてもこの友人はあらゆる部位が細長くできている。


「その喧嘩の原因は?」

 やがて口を開くと、友人は当然の疑問を口にした。

 訊かれることを覚悟していた質問だった。

 朱里は両親がいうように明るくて勝気な性格だったが、決して短気というわけではない。むしろ思慮が深く心根の広い女性であると私は思っているし、そういう部分に惚れて学生時代に告白したという経緯もある。そんな彼女が自分を忘れて怒り狂うとなればそれ相応の理由が必要となる。第三者である荻野には当然不可解なことだろう。


「朱里が浮気していた――その可能性を疑った」

「――ほう」

 荻野は、来店して最初に頼んだ珈琲に初めて口をつけた。だいぶ時間が経っているのでとっくに冷めてしまった真っ黒な液体だ。


「これは言い訳だが、とにかく仕事のストレスが原因で俺は心身ともに疲れ切っていた。終電で帰宅できればまだ良いほう。酷いときには会社をホテル代わりに何日間も缶詰状態で業務に追われることもある。そのうえ社員同士の仲は最悪で、一日中同じ職場にいて、ただの一度も言葉を交わさないのが普通だった。劣悪な環境が連帯感を育むどころか悪い方向に作用してしまって、社員のチームワークを完膚なきまでに破壊してしまっていたわけだな。どちらかといえば過密すぎる業務スケジュールよりもその空気感のほうが窮屈で耐えられなかった」

「ブラック企業の模範ときたか。俺のところも大概だが、そこまでじゃあない」

「それでも――それでも自分を見失わずに済んでいたのは朱里の支えがあったからに他ならない。転職も視野に入れて頑張っていた。でも、ただでさえ人手不足の会社はそう易々と貴重な労働力を手放そうとしない。朱里にもそれはもう熱心に転職を勧められていたが、けっきょくはだらだらと現在の職場にしがみつく日々が過ぎていった」

「浮気を疑ったのは何故だ?」

「だから、これは言い訳なんだ。とどのつまりが被害妄想だよ。どうしようもない環境下に長いあいだ身を置きすぎていたせいで体力も精神もすり減り、正常な判断能力を著しく損なっていた俺はいつしか根拠のない妄想を抱くようになった。それが朱里の浮気だった。俺は心の片隅で、朱里が仕事にばかりかまける甲斐性なしの俺に遠からず愛想を尽かしてしまうんじゃないのか、それはもう避けられぬ運命であり破局は時間の問題なんじゃないのかと怯えていたんだ。その怯えが――ありもしない朱里の裏の表情を生みだした」

「――なるほど」


 たとえば日付も変わろうとしている深夜、仕事に追われて会社に缶詰でいるとき。自分が留守にしている二人の家に、朱里が不甲斐ない彼氏に代わる若い男を連れこんでいるのではないのか。そして本来は自分と朱里が共同で使っている布団を何食わぬ顔で占領し情事を重ねているのではないのかなどと、とりとめなくどうしようもなく下劣な空想が降ってわく。そうなるともう目先の仕事なんて手につかなくなり一刻も早く彼女のいる家へ帰りたくなるのだが、もちろん会社がそれを許してくれない。身を裂かれるような苦しみに悶えながらなんとか役割を果たし大急ぎで帰宅すれば後ろ暗いことなんて何も抱えていない本物の笑顔が出迎えてくれる。その笑顔をみて、ようやく私の荒波のような心は安定をとり戻す。だが、それは一時的に痛みを緩和してくれる市販薬のような安定だ。


「――そう。百パーセントではない。たとえ、根拠のまるでない言いがかりのような被害妄想だったとしても、一度生じた疑念はそう簡単には完治しない。九十九パーセントは俺も彼女を信用するし、変な言い方だけれど信用しようと努力する。でももしかしたら――ひょっとすると自分の想像は当たっているんじゃないのか――彼女は自分が知るよりはるかに狡猾で演技がうまい女なんじゃないのか――あるいは自分が自分で知るよりはるかに愚鈍でどうしようもない男なんじゃないのか――そんな残りの一パーセントが消えない。努力しても消せないんだ。情けない話だけれどね。そしてついにあの日――朱里がいなくなってしまった日――俺は彼女の前で馬鹿なことを口走ってしまった。本当に馬鹿だった」


 荻野は黙りこんで腕を組み、じっと私の胸のあたりを見つめている。

 突然要領を得ないくせに饒舌になった私の話に何を思っているのだろう。

 店内の騒音が遠ざかっていき、空白を埋めるようにあの日の音が、情景が、手触りが、匂いが、五感に流れこんできた。

 狭いリビングには少し奮発して購入したゆったりめの椅子があって、私はそこに腰かけている。その目の前には朱里の後頭部。私に背中を向けてクッションを尻に敷きテレビを観ている。お笑い芸人の出ているバラエティ番組だが内容がよく入ってこないので面白いのかつまらないのかはわからない。果たして朱里はどんな顔で観ているのだろう。

 ――気を悪くしないで欲しいんだけど。

 私は顔のみえない彼女に話しかける。

 ――浮気なんてしてないよな?

 ――いきなりなあに?

 朱里は笑っていた。笑っていたと、思う。やはり表情はわからないが、その声はまるで私の発言がちょっとした冗談でそれが可笑しいといっているように感じられた。

 そこからどんなやりとりがあったのか具体的には覚えていない。ただ、最初は冗談交じりだったのが、私が何故か執拗に詮索するような素振りをみせるものだから朱里の声からもじょじょに笑いが薄れていき、やがて押し殺したような、低い獣の唸り声を連想させる声色になったのを薄らと記憶している。直感的に、不味い、と思ったからだ。

 瞳の色が変わった。ふざけんなよテメェいったい何が言いてえんだよ。口調も男っぽく荒々しくなる。対して私は争いの契機をつくっておきながら失語症に陥ったみたいに言葉もまともに喋れなくなりおろおろと狼狽え、彼女の怒りをおさめる手段を失う。そんな私の態度が彼女の神経を逆撫でる。火に油だ。

 ――テメェいったいなんなんだよ意味わかんねえよ。

 ――ごめん、ごめんよ。

 ――あたしが他に男をつくってるって疑ってるのか。なんの証拠があってそんなふざけたこというんだよ、クソ。理由を説明してみろよ。

 ――本当にごめんよ。べつに本気で疑っているわけじゃないんだ。ただ安心させて欲しかったんだ。許しておくれ。勘弁しておくれ。

 ――だからそれが意味わからねえんだよ!

 机の上に置いてあったなにかの入れ物を朱里が掴む。私は咄嗟に顔を背けた。次の瞬間、側頭部に衝撃。軽い眩暈に襲われる。このときには二人とも興奮から起立していた。

 朱里が何事か叫びながら再び武器を掴んだ。

 私は棒で突かれる犬のように怯えて部屋の隅に逃げる。

 キィという甲高い悲鳴。どちらの口が発したものかわからない。

 再び衝撃。今度は肩。頭を守るように持ちあげた部分に当たった。

 朱里は頭めがけて投擲している。

 振り乱す髪の隙間から覗いたその表情は、


 ――異形だった。


 肌は死者のように白いのに、瞳だけが充血して赤い。


「心の底から震えあがった。恐ろしかったよ。見境を失った朱里は鬼のようだった。言わずもがな彼女は悪くない。原因は俺にあるのだけれど――それにしても彼女の怒りかたは尋常じゃなかった。俺は自分の身に差し迫る危険を感じた。大袈裟じゃなく命を落としかねない逼迫した状況だった。そうだ、あれは――丈夫な素材でできた置時計だ。縦に三十センチくらいの。それを、朱里が両手で掴んで思いきり放り投げようとしたものだから、さすがに止めようとしたのだったか――それとも自衛のために頭を守ろうとしたのか――とにかく我武者羅に手を振り回したらそれがまた運悪く朱里を突き飛ばす形になってしまって、彼女は後ろ向きに床に倒れこんだ」


 成人女性一人分の体重が勢いをつけて床に倒れる――ドズンッ――という厭な響きが、耳の裏側に甦って反響する。

 と、そこへ――くしゃり――重なる歪な破裂音。

 やっとわかった。

 そう――これは――破裂音という感じがする。脆く薄い何かが傷つき、裂けた音だ。


 いったい――何が裂けてしまったのだろう。


 もうわかった、わかったよ――。

 堪りかねたような声が私の思考に割って入った。

 荻野の半ば怯えた瞳がこちらに向けられていた。

「わかったから無理に話すのはよせ。亮一、お前、自分で気づいているかわからないけど、相当雰囲気が怪しい感じだぞ。いきなりの呼び出しだったからこりゃあなにかあるなとは覚悟してたけれど、想像以上だ。お前、朱里ちゃんと喧嘩して、朱里ちゃんに家出されて、それでだいぶ参ってるんだよ。正直お前の浮気を疑ってしまう気持ちはわかる。たぶん男であるいじょう誰もが少なからず胸の内に秘めている湿っぽくて女々しい思考回路であり感情だ。だから、そのことは特別責めるべきじゃない。そう考えてしまうのは仕方のないことなんだから。自分で自分を許すべきだ。いいな」

 私の心情をわかったようなわかっていないようなことをいう。

 しかし慰めてくれているのだろう。その気持ちはありがたい。

 やはり荻野に話を聞いてもらってよかった。

「いまでもその職場に出勤してるんだよな? 馬鹿。朱里ちゃんがいなくなって、それでこんなにも草臥れているんだったら無理してまでそんなところ行く必要ない。休め。もしくは辞めてしまえ。その時間を使って朱里ちゃんの行方を捜すほうがお前にとっては絶対に大事だし有意義だ。なんなら俺が手伝ってやってもいい。なあに、こんなときくらい幼馴染に甘えろ。俺とお前の仲だろう」

 私は感謝して頷いた。差し伸べられた手をとって、握り返す。

 気がつけば窓からみえる景色はすっかり暗くなっていた。


 場所を変えて話そう、元気出せよ。そういって荻野は率先して二人分の会計を済ませると駐車場に停めていた車の助手席に座るよう私を促し、自らは運転席のハンドルを握った。車に疎い私に詳しいことはわからないが、大きくてごつい車体のわりに内装はシンプルで且つ洗練されたデザインのように感じられたのできっとそれなりに値打ちのある車種なのだろう。さすがは車の営業マンといったところか。気取りすぎていないところに荻野本来のスマートさが感じとれる。乗り心地は静かで快適だった。

「家に酒はあるか?」

「ビールやらワインやら一通りは」

「よし、だったら今夜は亮一の家でちびちびダラダラ飲み明かそう。構わないな? どうせ俺は明日も非番だ。そしてお前は今日からずっと長期休暇だ」

 ふはははと荻野は明るく笑う。盛りあげてくれているのだ。芝居はわざとらしいが気持ちは嬉しい。私も声をあげて笑った。笑ってから、ここ何ヵ月か自分が一度も笑っていなかったことにふと思い至った。


 少し酒を買いたそうつまみも買おうなどと寄り道した結果、帰宅する頃には二十一時をまわろうとしていた。私は車を持っていないしマンションには駐車場がないので、申し訳ないが近くのコインパーキングに荻野には車を停めてもらう。外に出ると、暗闇の奥から吹いてきた冷たい風が頬を撫でた。いまの時期でも夜は存外気温がさがるのだ。私と荻野は各々片手にビニール袋を提げながら足早にマンションを目指した。

 エレベーターに乗りこみ、三階まであがり降りる。暖色系の照明が照らす廊下を私が先頭に立って進む。ドアが現れた。鍵を差し入れる――。


 扉を開いた瞬間、細く空いた隙間から溢れでた異臭に荻野が顔を顰めた。


「ひでえ臭いだな」

「何もやる気が起きなくてゴミ出しまでずっとさぼっていたんだ。恥ずかしい」

「いや、ゴミの臭いというか――ゴミの集積場よりもひどいぞ。なんの臭いだ――」


 食べ残しや生ゴミを一緒くたにした臭いだと私はずっと了解していたのだが、不思議と荻野は納得がいかないらしい。きょろきょろと忙しなく視線を泳がせている。

 私は暗闇の壁に指を這わせて照明のスイッチに触れた。しかし、電気が灯らない。そういえば――なぜこんなことまで忘れていたのだろう――なにもかもが億劫になった私は生活費の支払いすら長いこと滞納し我が家では今現在電気ガス水道といったあらゆる生活まわりが機能していないのだった。そのことといい立ちこめる臭いといい、この家は今とても客人を招待できるような状態ではない。

 なぜ荻野が私の家で飲もうと言いだした段階で真っ先にそんな按配だからと断れなかったのだろうか――。釈然としない。まるで家に関するありとあらゆる記憶がすっぽりと抜け落ちているかのようである。


 私は電気が点かないガスも使えない旨を謝罪しながら伝え、どうしよう場所を変えようかと至極無難な提案をした。


「いや――いい。中をみせてくれ」


 しかし荻野はいやに頑固に首を振る。

 私は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも友人を家に招き入れた。


 真っ暗な廊下を進み、スライド式のドアを開ける。

 窓から差しこむ月明かりのおかげで、リビングの惨状はかろうじて目視できた。

 衣服は脱ぎっぱなしゴミは散らかりっぱなし食料は野犬が喰い荒らしたみたいな状態で放置しっぱなし――。その四角く切り取られた空間は人の生活する部屋が必要とする品格を完全に喪失していて、部屋というより、ほとんど物置のような有り様だった。

 足の踏み場もないとはまさにこのことである。

 朱里を失ったスペースの穴埋めを私は無意識に行っていたのかもしれない。


 そして、


 息が詰まるほど濃密な――饐えた臭い。


「なんだこれ――なんの臭いだ――これは――」


 ぶつぶつと呟く荻野の視線は――いま入ってきた扉とちょうど反対側に位置する奥の扉へと向いている。

 その扉の先には私と朱里の寝室がある。


 臭い臭いと――いったい何をそこまで気にしているのだろう。


 私はリビングのスイッチにも触れて、玄関と同様電力が落ちていることを確認した。月の青白い光以外この空間を照らすものはない。まるでこの部屋自体が死化粧を施しているかのようだ――と妙な連想が働く。ぶつぶつと荻野はいまだに何事か呟き続けている。音を立てて右手のビニール袋が落下した。ああやめろ、そんなことをしたらせっかく買った総菜の蓋が開いてしまうじゃないか。汁が床に染みこんだら拭きとるのが大変なんだぞ。私は珍しく腹が立ってそういった。そして、心中首を傾げた――。はて、私はつい最近、床に広がった液体を濡れ雑巾で丹念に拭きとりはしなかったか? 膝を立てて腰を屈めて、腕が千切れそうなほど必死になって、どこまでもどこまでも広がっていく黒い液体を――無かったことにしようと――嗚咽しながら掃除したのではなかったか?

 その証拠に、よく注意して足元を見てみれば薄らと直径一メートルほどの円状の染みがフローリングの床に残されている。プラスチックの弁当箱や片方だけ取り残された靴下の隙間から、それは冥府へと続く入口のような存在感を発しながら――無かったことになんてできないぞ――とでも言いたげに厳然としてそこにある。


 そのすぐ隣には同じく黒い染みの付着した置時計が落ちている。

 ずっしりとした縦三十センチほどの丈夫な置時計。

 かすかに頭痛がして、瞬間、壊れた映写機がランダムで情景を映しだすみたいにあの日の記憶がフラッシュバックした。あちこち欠落しているノイズだらけの映像。色彩はなく、白黒――。

 ――死んでしまえ!

 朱里が置時計を振りかざす。身を守るために振り回した私の腕が、そんな彼女を力一杯突き飛ばす。物凄い力だ。偶然そうなったのか悪意があってそうしたのかは最早定かではない。

 驚愕に見開かれる瞳。朱里は信じられない勢いで頭から床にひっくり返った。

 ドズンッ――というのは肩か尻を床に強かに打ちつけた音。

 そして重なる、くしゃり、というのは


 先に落下していた置時計に後頭部を打ちつけ、裂傷した音――。


「そうだ俺は――むかし一度だけ老人が孤独死した現場に立ち会ったことがある――町内会の見回り役員をやったときだ――夏真っ盛りで発見の遅れた死体はすでに腐敗していて――そうだこんな臭いを発していたんだ――思いだした――」


 荻野の独り言はまったくもって意味不明である。

 頭を重たそうに揺らしながら夢遊病者のごとくふらふらと寝室に近づいていく。


 私はリビングの中央で黒い染みとその後ろ姿を交互に見比べている。

 甦った記憶の情報は断片的すぎて、ぼうっとした私の脳味噌では、その断片に連続性を持たせ正確な意味を見出すことができない。

 ただなんとなく、寝室の扉を開けられてしまっては困るという気がしていた。


 荻野の震える手が扉にかかる。そのすぐ背後に私は立つ。

 扉はいともたやすく開いた。当然、鍵なんてかかっていない。

 荻野が停止しているので、私は友人の肩越しに寝室内を覗きみる。

 暗くてよくみえない。

 しかし臭いの原因はやはり寝室にあったらしい。それだけは確信できた。

 たしかに――酷い臭いだ。


「ひああああ」


 思わず笑ってしまいそうな変な声をあげて荻野が腰から崩れ落ちた。

 事実、私の口角は少しあがっていたと思う。

 長身の友人は無様に這いつくばって小柄な私を見あげている。


「わ――悪かった悪かった許してくれ許してくれ――先に誘ってきたのは朱里のほうだったんだ――亮一が全然相手をしてくれないから寂しいって相談してきて、話を聞いているうちに段々とあいつがその気になってきちまって――いやもちろん俺も悪かったお前を裏切って済まなかったよ本当に悪かったと思っているんだそのうち自分から打ち明けるつもりだった本当だ――頼むよお助けてくれよお――」


 もつれる舌で捲くし立てているが、私にはさっぱり理解ができない。意味をもたぬ言葉の羅列は右耳から左耳へと一文字も引っかかることなくするすると通り抜けていった。

 普段から尊敬している友人のそんな姿をいつまでも見ていたくない私は手を差し伸べる。だが、地べたを這う荻野はその手を躱す。なぜだ。

 苛々した。

 私は強引に荻野を引き立たせようとする。ひあああとまたしても彼は声を裏返らせて、駄々っ子のように泣きじゃくりながら手足をばたつかせた。痛い。荻野は私からも寝室からも離れたいようで、部屋の隅へと匍匐前進で逃げていく。まるで細長い手足を器用に動かす虫のようだ。

 私は辟易して友の救護を諦めた。寝室の扉も彼に代わって閉じておく。これで多少は臭いがマシになるだろう。


「落ち着いたら教えてくれ。今日は思う存分飲み明かそう。それに、荻野には朱里の行方を捜す手伝いをしてほしい。さっそく明日から動こうと思うからその話もさせておくれ」


 そうだ。荻野という協力者を得られたことは大きい。私一人では朱里の行方を追うのにも限界があるが、顔の広い荻野が手を貸してくれればこの広大な地上のどこかに隠れているはずの彼女にぐっと近づくことができる。どこに隠れているのか現段階では皆目見当がつかないが、人ひとりが煙のように立ち消えてしまうことは絶対にありえないので、諦めなければいずれは必ず再会できる。少なくとも私は――そう固く信じている。

 もう一度彼女の交友関係をまわってみよう。ご両親にも探りをいれてみよう。彼女を見つけるためだったら荻野がいっていたように警察に助けを求めることも厭わない――。

 私は、体の内側から久しく感じていなかったエネルギィが沸々と湧きあがってくるのを実感していた。こんなにコンディションがいいのはどれくらいぶりだろう。


 暗闇の隅っこで友人は未だに縮こまりめそめそと涙を垂れ流している。


 そういえば――。私は唐突に思い至った。

 朱里の浮気を疑ったのは、偶然にも街中で朱里に似た若い女が若い男の運転する車に乗りこむのを目撃したからだった。しかしあくまで朱里に似た女なのであって当然それが朱里本人であるはずがなく、そのため今の今までそんなことは忘れていたのだったが。どうもよくよく思い返してみるとその乗りこんだ車というのがさっきまで荻野が運転していた高級車に酷似しているように感じられてならなかったし、そもそも朱里に似た若い女と一緒にいた細長い男の身体的特徴までもが奇跡的に荻野に似ていた気がしないでもない。


 その符号の一致が示唆することはいったい何なのか――。

 やはり――私にはわからない。


 朱里の行方だけが心配だ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 人の狂気、感情の坩堝、生々しい臭いまで感じられる作品でした。
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