曖昧な距離
お昼ご飯を食べたついでに日用品の買い出しを済ませてアパートに戻ると、夕方に近い時間になっていた。
検査の費用と外食やなんやで財布の中が軽くなったし、最初に思っていたより時間もかかったし、有給休暇を取っていて本当に良かった。
明日出社したら一番に部長にお礼を言わないといけないな。
「柚子ォ」
物思いに更けながら洗濯物を取り込み畳んでいると、キッチンから竜平くんに声をかけられた。
「なぁに?」
「晩飯何がいい? がっつり? あっさり?」
そっか、お昼ご飯が遅かったから頭から抜けてたけど、晩ご飯の支度も残っているんだ。
「いいよ、今日は私が作るよ」
「検査で疲れてんだろ、そこは甘えとけよ」
竜平くんの言葉にドキッと心臓が跳ね、気恥ずかしさのあまり固まってしまった。
悔しい……不覚にもときめいてしまうだなんて。
伊達にこっちの世界のワタシの心を射止めた訳じゃないね、竜平くん。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな。あっさりしたのが食べたい」
「へいへーい」
昨日初めて会ったとは思えないくらい竜平くんに心を開いちゃってるけど、私だって伊達に入社当時から佐藤先輩に片想いし続けてないんだから。
こっちの佐藤先輩はもうすぐ結婚しちゃうけど、私はいつか元の世界に帰るんだし、諦めなくてもいいはず。
……ん?
私、昨日会ったばっかりの人相手に心開きすぎ?
自分の神経の図太さにほんのり怖くなったけど……でもなぁ、竜平くんに警戒するような所なんて、今は見つからないんだよね。
優しいし、献身的だし、気遣い上手だし、常識もあるし。
怖いのは見た目と、時々荒っぽくなる口調だけだもの。
「……なに見てンだよ」
竜平くんの言葉にハッとする。
私はいつの間にか竜平くんのことをガン見していたらしい。
「あ、いや……竜平くんって元ヤンだったりするのかなぁと思って」
苦し紛れの発言に、竜平くんは気まずそうに「あー」と呻きながら目線をさ迷わせる。
「優等生ではなかったけどォ、そんなグレてたわけでもねェ、と……思う……」
「えっ、なにその自信のない発言」
「うっせーな。生徒指導室常連を元ヤンだっつーなら、俺は元ヤンだよ」
拗ねた子供のように唇を尖らせた竜平くんを見て、私は思わず吹き出してしまった。
「大丈夫、大丈夫。停学くらってないならセーフだよ」
「――……そぉかよ」
笑いながらフォローをしたのがいけなかったのか、それともそもそも笑ったのがいけなかったのか、竜平くんはそれきり黙りこくってしまった。
慌てて竜平くんの顔色を伺おうとしたけれど、竜平くんは野菜を切るために下を向いていて表情が見えない。
「ご、ごめん。怒った?」
「べつに」
突き放すような言い方をされて居ても立ってもいられず、私は竜平くんに近付いた。
「ごめん竜平くん」
「あーも、怒ってねーから今こっち来んな。包丁使ってて危ねーから!」
「怒ってないなら顔……」
見せてよ、と続くはずだった言葉を、私は飲み込んだ。
顔を覗こうとした私から逃れるように背を向けた竜平くんの耳が、昨晩照れていたときのように真っ赤だったからだ。
「くそ、昨日今日会った男に無用心すぎんだよバカ女が」
「な、ば、バカって! 竜平くんがこっちの世界のワタシの彼氏だっていうから、私は信用して……」
信用……そう、信用していた。
ワタシの彼氏だっていうなら、私のこともきっと傷つけたりしないだろうって。
だって、昨日だって竜平くんは私の事を考えて自制してくれたし、今朝だってそう。
だから私は、竜平くんを信頼することでその気持ちに応えようって思ってて……。
「へぇ」
だから……私はこんな熱っぽい視線を向けられることなんて、想定していなかった。
「信用ねェ」
私を傷付けないようにそっと包丁を手放した手が、私の頬を掴んだ。
アホみたいな顔になりそうなのを、顔に力を込めることでやりすごす。
「もし俺が、お前の彼氏面してるだけのサイコ野郎だったらどうする気だよ。あ?」
竜平くんの心配は最もだ。
私だって、バカじゃない。
何度も何度も同じことを考えた、疑った、自己防衛しようとした。
だけど、結局同じ答えに行き着くんだもの、仕方ないじゃない。
「……よ」
「あ?」
「その時は、その時よっ!」
何で今更そんなことを言い出すんだと思ったら、腹が立ってきた。
頬を掴まれたままで竜平くんを睨み返すと「逆ギレかよ!」と言われたけど、逆ギレの何が悪い。
「何で今更そんなこと言うの。泣いたのを慰めてくれて、私の好きなもの作ってくれて、気遣ってくれて、病院までついてきてくれて、なんで今更警戒しないといけないの? 馬鹿なんじゃないの?」
「馬鹿はどっちだボケ! 全然分かってねェじゃねーか!」
「じゃあ分かるように言えばいいでしょ!」
売り言葉に買い言葉で反抗しようとしたら、逆に距離を詰められて息が止まった。
呼吸をしたら息がかかってしまうくらい近くに、竜平くんの顔がある。
逃れようとしても、頬を掴まれたままで逃げられない。
静まり返った部屋には、さっきまで私が見ていたバラエティ番組の音声だけが響いている。
恥ずかしさのあまり茶化して逃げることが浮かんだけれど、見上げた竜平くんの目は真剣そのもので、これは茶化せないなと思った。
どうしよう、こんなときどうすれば良いのか、私は知らない。
私が呼吸を忘れている間にも竜平くんの顔は更に近付いてきて、キスされることを覚悟した瞬間、竜平くんの唇は私の耳元に反れた。
「もっと俺のことを異性として見て、警戒しろ。ただのカワイイ年下クンじゃねぇんだよ。……分かったか」
掠れた切ない声で囁かれて、私は何度も首を縦に振る。
頬を掴まれているせいであまり動かないけれど、動く範囲で、何度も。
そんな私の様子をしっかりと確認してから、竜平くんはようやく手を離してくれた。
それなのに私の体はどうしてしまったのだろう。
既に身動きはとれるはずなのに、指一筋も動かせないでいるだなんて。
早鐘する胸が甘い悲鳴を上げているようで、酷く苦しい。