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日常の異変


 一人暮らしの私の朝は、いつもスマホのアラームを止めるところから始まる。


 布団の誘惑を振り払って寝室から出ると、リビングに移動し電気ケトルとテレビのスイッチを入れる。


 それから洗面所に行き、冷たい水で顔を洗った。

 大体いつも、歯を磨き始める辺りではっきり目が覚める。

 昔から朝に弱い私だけど、一人暮らしを始めて以来随分改善されたと思う。


 リビングに戻ってトースターにパンをセットし、再び寝室へと戻る。

 寝室で仕事着に着替え再度洗面所に行き、冬のボーナスで購入したドラム式洗濯乾燥機にパジャマと洗剤、柔軟剤を放り込んでスイッチを押した。


 それからコーヒーを飲みつつ朝のニュースを斜め聞きし、焼き上がったトーストにマーガリンを塗ってかぶりつく。


 食べ終えたら食器を流しに置いて、またまた洗面所へ。

 口をゆすいでから化粧を施し、髪を纏めて身嗜みのチェック。


 一度鏡にニッコリと微笑みかけてから、戸締まりやガスの元栓なんかを確認して回る。

 全て問題なしと満足する頃には、いつも家を出る時間になっている。

 これが私の毎朝のルーティーンだ。



 今日も特別なことは何もしなかった。

 同じ事の繰り返しで毎日を生きている私は、世間から見れば寂しい人生を送っているのかもしれない。


 だけど、それでいい。

 変化は苦手だ。毎日乗る電車だって、一本でもずらすと何となく落ち着かなくなるから、一駅ごとにぎゅうぎゅう詰めになると知っていながら我慢して同じ電車に乗るのだ。

 降りる頃には鮨詰め状態とはいえ、私が乗る駅では人はほとんどおらず、毎朝座れるので言うほど苦でもない。


 一駅ごとに人口密度を増していく車内をぼうっと眺めていたら、だんだんと眠くなってきた。


 春だしね、春眠暁を覚えずとか言うし……少し目を閉じてるだけなら、乗り過ごしたりもしないだろう。







 気持ちよく微睡んでいたのだけれど、妙に車内が静まり返っているこに違和感を覚えて目を開ける。

 すると、満員だったはずの電車から人が忽然と消えていて、車両には私だけが残されていた。


 どういうことか全く理解できず……いや、乗り過ごしたことが頭をよぎったが、受け入れたくなくて隣の車両の様子を見に行くと、そこにはいつもの朝の風景が広がっていた。


 ……どういうこと?

 乗り過ごしたんじゃ……無さそう、だよね。

 乗り過ごしていない証拠に、電光掲示板には降りる駅よりも三つ手前の駅名が表示されている。


 疑問符だらけの頭で、反射的に先程までいた車両を振り向くと、そこもまたいつもと変わらぬ人口密度で、狐に摘ままれたような気になった。


 さっきのあれは何だったのだろう。

 寝惚けていたのだろうか。

 いや、確かに無人だった。


 だから隣の車両まで誰ともぶつからずスムーズに来れたんだもの。

 だけどあんな不思議な出来事が現実に起こるわけがない。

 仮に起こり得る現象だとしても、私のように平凡な人間が遭遇するなんてこと、ある?


 理解の及ばない現象と上手く言葉に出来ない違和感に、ぞわりと肌が粟立つ。


 何かが違うような気がするのに、ハッキリと何がどう違うのかまではつきとめきれない。

 じわじわ変化する画像の間違い探しの答えが分からないそれに似ている。


 結局『変な夢を現実と混同して気が動転しているだけ』と無理矢理自分を納得させて、私はもとの車両に戻った。




▽▲




 妙な違和感が完全な不安に変わったのは、会社の昼休みを迎えてからだった。

 深雪が、驚くほどに痩せていたことに気が付いたからだ。


 いや、この表現は正しくない。

 目茶苦茶スタイルのいい美人が深雪だったということに気付いた、の方が適切な気がする。


 最初は本気で誰かわからなくて、『谷口深雪』の名札と彼女の話し方と雰囲気でようやく『本当に同一人物なの?』と疑いつつも受入れはじめた程度。


 私が何日分かの記憶を失ったのかと思って日付を確認したけれど、今日は今日で、他のいつでもなかった。



「なんか、深雪痩せたよね……?」



 私が言うと、彼女は「太ったよ~!」と笑いながらサラダとスムージーをテーブルに並べる。


 おかしい。昨日までの彼女なら丼ものにサンドイッチ、炭酸飲料をがっつり摂取したあと、デザートに菓子パンを頬張って「幸せ」と少女のような顔で笑う筈なのだ。


 そんな誰からも可愛がられていた癒し系の彼女が、どうしてこんなに、誰からも憧れられそうな女子力の高い感じになったのか。

 いや、元々美人顔ではあったけど、それを差し引いてもたった一晩でこれだけ痩せるものだろうか。



「それでね、柚子。昨日の話なんだけど……」


「えっ、うん」



 深雪に名前を呼ばれてドキッとした。

 昨日のはなしって、なんのことだろう。

 私が覚えている限りでは全然、たいした話なんてしなかったんだけど。


 あ、ストールを貸したこと?

 それとも、佐藤先輩が今月一杯で移動しちゃうって話?



「本当にありがとう。柚子が背中押してくれたから決心ついたよ。昨日、ちゃんと返事したんだ。昼休みが終わったら上司に報告するつもり」


「……え、なんの報告?」



 案の定話の意図がわからず、何故感謝されるのかも分からなくて、私はとっさに聞き返してしまった。



「え、結婚の報告だけど」


「えっ……だれと……」


「やだもー! 佐藤先輩に決まってるじゃない!」



 私はまるで頭を殴られたような衝撃を受けた。

 佐藤先輩は私が入社当初から憧れ続けている先輩で、昨日も深雪に恋愛相談をしたはずだ。


 もしチャンスがあれば、気持ちを伝えるくらいは許されるかな、なんて乙女なことを考えたりもするくらいには親しい先輩で、好きな人で、それは深雪も入社当時から知ってるはずなのに。



「……柚子?」


「ああ、ごめん。……えっと、……感慨深いなぁって、うるっとしちゃって……幸せになってよね」


「柚子……! 本当にありがとう! 柚子も彼氏くんと幸せになってね!」



 なんなの、彼氏とか私、いないし。

 当て付けのつもりなの?


 それからの会話は、ほとんど記憶にない。

 社員食堂のご飯は、ほとんど残した。




▽▲




 こんな状態でも恙無く仕事は終わり、残業もしなくて済みそうなので帰り支度をしていたらだんだんと冷静になってきた。

 そもそも、一日であれだけ痩せるなんてことあり得るはずがない。


 それに、身の回りの人も微妙に、本当に微妙に違っている。

 例えばお局様の祥子先輩。名前は同じなのに、態度や仕草に違和感がある。

 あんなにピリピリしてる人だったかなぁ。


 他にも、知らない人がいたり、知っている人が居なかったりもした。


 もしかすると、私は何か病気なんじゃないだろうか。

 現実から逃避するあまり、記憶を捏造してしまう病気がテレビで取り上げられていた。

 信じたくはないけれど、病気だと考えるのが一番自然な気がする。


 だとしたら、嫌だな。

 その場合って、私最低じゃん。

 佐藤先輩と深雪が付き合ってるのを認めたくなくて、今まで記憶を捏造しまくってきたって事でしょう?


 何が切っ掛けでそれがなおったのか知らないけど、ちょっと自分の事が信じられなくなりそう。

 こわい。


 ……今朝の事もあるし、一度病院で見てもらった方がいいかもしれない。


 腫瘍とかできてないよね、大丈夫だよね。



 不安でたまらなくなったので、部長にざっくりした説明と目的を伝えて休みの都合を尋ねると、明日にでも行ってきなさいと許可をいただいた。


 半日休みのつもりだったのだけれど、有給で丸一日お休みを貰えたのは私の日頃の真面目さの賜物だと思う。

 嘘、ごめん。八割は部長の人柄です。


 でも、怖いな。

 もし病気だったら、私はどうすればいいんだろう。

 失恋もして、病気になって……そんなドラマでもなかなか見かけない不幸のヒロインなんて嫌だ。


 落ち込んでいてもお昼を残せばお腹は減るもので、スーパーで食べきれるのか疑問なほどの食材と、大して飲めもしないお酒を買い込んだ。


 数ヵ月前より随分日も長くなって、帰り道も寂しくない。

 夕焼けと指に食い込むビニール袋の重さが、少しだけ思考を紛らしてくれた。

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