【4】
海を渡ってフェランディスからハインツェル帝国へ行くには、大きな入り江のようになっているヤルナッハ海を渡る必要がある。フェランディス王都ナバスクエスから最寄りの港は北東に進んだところにあるバエサである。ここから、ハインツェル帝国側の港デーニッツまで船で二日半ほどかかる。
一応王族であるベレンガリウスが渡航するとなり、軍船がバエサ港を出港した。ベレンガリウスが連れて行くと言ったアミルカル、ヒセラのほかに十名の騎士が護衛として同乗していた。
ナバスクエスから馬ので移動を二日。さらに船旅を三日近く。デーニッツ港からさらに馬で三日ほど進めばハインツェル帝国帝都アーレンスに到着する。延べ一週間を越える旅路だが、陸路を通ってもこれくらいかかるのでどっちもどっちだ。ならば、ベレンガリウスはロワリエ王国に接近しない方法をとりたかったのである。
無事に軍船『ビクトリア』に乗り込んだベレンガリウスたちであるが、一つ船上では一つ問題が起きていた。
「うぇぇええっ」
「大丈夫ですか?」
アミルカルの背中をさすりながらヒセラが心配そうに尋ねた。この規模の船では珍しいことに、アミルカルは船酔いで苦しんでいるのである。
「大丈夫じゃ……ない」
早く地に足をつけたい、とアミルカルは訴えるが、まだあとまる二日船上である。ベレンガリウスは苦笑した。
「悪いねぇ。代わりにリノあたりを連れてくればよかったかな」
「いえ……私は職務を全うします」
「まじめだねぇ」
ベレンガリウスはそう言って苦笑し、アミルカルの肩をたたいた。そこに、海軍の若い兵士が水を持ってやってくる。
「すみません。冷えたものの方がいいんでしょうが……」
ここは海の上。まだ春先とはいえ、気温はそこそこ高い。水はぬるいままだ。氷なんて用意できないから。
「構いませんよ。ありがとうございます」
ヒセラがにっこりと笑った。美女に微笑まれ、兵士は赤面する。勢いよく頭を下げて身をひるがえして言った。
「魔性の女だね、ヒセラ」
「今のどこが魔性なのですか」
しれっとヒセラが言った。平然としている二人が信じられない、と言う目でアミルカルは二人を見ていた。
「船酔いは遠くを見るといいと言いますし、甲板に上がってみましょうか」
「いいんじゃないかな。私も景色を見たいし」
基本的に、王族であるベレンガリウスが一緒ならどこにでも入ることができる。甲板には砲台もあるが、この『ビクトリア』は軍艦にしては小さな船だった。帝国へ行くのに、大きな軍艦で乗りつけては警戒されてしまう。一応、軍艦で訪ねる、という旨は報告済みであるので、おそらく問題ないと思うが。一応、軍艦で行く許可も出ている。フェランディス、帝国、双方の国から。
そんなわけで甲板に出た。膝を折ろうとする海軍兵たちにベレンガリウスは笑って仕事を続けるように言った。こちらは邪魔をしているだけなので、気にする必要はない。本当に外を見に来ただけであるし。
船酔いでふらつくアミルカルの二の腕をがっしりとつかみここまで誘導してきたのはベレンガリウスだ。彼は何か言いたそうな表情をしていたが、気持ち悪さが勝ったのか結局何も言わなかった。船べりに行き、果てしなく続く海を見る。遠くに陸地が見えた。フェランディス王国が存在する半島だ。
「帰りは……陸路で帰りませんか」
アミルカルが訴えたが、ベレンガリウスは「うーん」とうなった。
「アミルだけ陸路で帰る? 私とヒセラは船で帰るから」
「そうですわね」
ヒセラも同意を示したので、アミルカルががっくりとうなだれた。どうやら、陸路は断念したようだ。申し訳ないが、帰りも耐えてもらおう。
「帝国で船酔いに効く薬とかがないか、聞いてみようか」
ベレンガリウスはそう言って苦笑を浮かべた。馬車酔い船酔い。酔いにもいろいろある。気付け薬のようなものがあれば、多少はましになるかもしれない。
「私は、殿下の護衛を任されましたから。その任を全うします」
立派な心がけであるが、果たして、この青白い顔で護衛が務まるのかはなはだ謎であった。
△
その日の夜、ベレンガリウスの歓待と言うことで、船の中で小さな宴会が開かれた。艦長のオダリス・セグロラ男爵が酒の入った杯を掲げて快活に笑った。
「いや、まさか、船上でベレンガリウス殿下の歓待ができるとは思っても見ませんでした」
「ああ……私も、帝国へ行くことになるとは思わなかったからな……」
少し遠い目になるベレンガリウスだった。考えても仕方がないが、ひと月近く留守にして、フェランディスの内政は大丈夫だろうか。いや、宰相もいるし、フアニートにも頼んできたし、大丈夫……だと思うが、帰ってきたら仕事はたまっているだろう。
「はっはっは。考えても仕方がありませんぞ。ほれ、お飲みください」
そう言ってオダリスはベレンガリウスの杯にビールを注いだ。船内の味気ない食事を口にしつつ、ベレンガリウスは言った。
「いや……私酒類はあまり飲めないんだけど」
「飲んでおられるではありませんか」
「いや、多少はね。でもそんなに飲めないから」
これは本当だ。ベレンガリウスはあまり酒に強くはない。周りが酒豪ばかりだからそう思うだけか、とも思うのだが、やっぱり強くはない。何度か飲み過ぎて吐いたことがあるし。吐いてしまうので、二日酔いになったことはないけど。
とはいえ、船に積まれているのは保存のきく酒類が多い。足が速いものは何日も陸地に上がれない船上ではあまり食べられない。今回は三日もかからずに到着するので、いつもよりは豪華であるが、保存食っぽさは捨てきれない。
そして、真水はすぐに腐るため、船上では酒が飲まれる習慣がある。
なので、船員になるには酒に強い必要がある。まあ、必ずしもではないが、その方が好ましい。ベレンガリウスは船員には向かないだろう。
注がれるままに飲み続けたため、多少酔っぱらったベレンガリウスは船内の宴会場を抜け出し、甲板に出た。そこには先客がいた。
「おーい」
「……殿下」
甲板で船べりに寄りかかり、星空を見ているのはアミルカルだった。彼はやはり船酔いに苦しんでいて、食事ができるような状態ではないようだ。ヒセラもベレンガリウスについて出てきたので、宴会場はただの船員たちの馬鹿騒ぎの場と化している。
「どうされたんですか」
「いやあ。ちょっと飲み過ぎた」
そう言ってベレンガリウスは皮肉気な笑みを浮かべると、アミルカルの隣に手をついた。ふらふらする。頭もボーっとする。
「私も気持ち悪い……」
「殿下のは飲み過ぎだからです。注がれるからと言って、いつまでも飲み続ける必要はないんですよ?」
「わかってるさ……」
上向いて目頭をぐりぐりする。まったくもう、とぷりぷり怒っているのはヒセラである。
「私たち三人の中では、ヒセラが一番船員に向いていそうだな」
ベレンガリウスがそんなことを言うと、ヒセラはあら、と首をかしげる。
「お二人が弱いだけです」
しれっとそんなことを言うから、ヒセラはちょっと怖い。ちなみに彼女は酒豪である。アミルカルもザルであるが、現在それどころではない。アミルカルが「うっ」と気持ち悪そうな声を出す。
「大丈夫か?」
「……殿下に心配されるほどのことではありません……」
「お前それ、微妙に私に失礼だからね?」
短気であるがこれくらいで怒る狭量な人間でないと知っているからか、アミルカルもヒセラもベレンガリウスに対し遠慮がない。別にいいけど。
「殿下もアミル様も、もう寝たほうが良いのでは? 船酔いも寝てしまえば関係ないでしょう?」
ヒセラの意見に、ベレンガリウスは「なるほどね」と思ったが、アミルカルは言った。
「……その前に……この揺れの中で眠れるとは思えない……」
「言うほど揺れてないと思うんですけど」
ヒセラが小首を傾げて言った。ベレンガリウスも同意であるが。
「でも今はちょっと揺れてるかな」
「揺れているのは殿下です。もう寝てください」
いい子だから、と言わんばかりの口調でヒセラに言われたベレンガリウスは彼女と肩を組んだ。
「そうだねぇ。ヒセラ、一緒に寝ようか」
「飲み過ぎで頭おかしくなりました?」
だから、ベレンガリウスの部下たちは主君に対して遠慮がなさすぎる。しかし、この場合、ベレンガリウスの方が悪い。
「いや、ここ、船上なんだけど。一人でいたら身の安全の保障はできないからね」
「酔っぱらっている殿下と船酔いのアミル様が役に立つかどうかわからないのですが」
「いや、あのね。私王族なんだけど。普通、王族の寝室に入ってくるやつはいないから」
不敬罪である。短気なベレンガリウスだ。侵入者を切り殺すくらいするかもしれない……と思われているかもしれない。実際は投げ飛ばすくらいですむと思うが。
「なるほど。というか、初めからお邪魔させていただこうと思っておりました」
この辺り、性別は障害にならないのだろうかと思うかもしれないが、ヒセラを知っている人物は、彼女に手を出す勇気など皆無に等しかった。
なので、結局三人は同じ船室で眠ることになったのである。この行為がまた船員たちの誤解を招くのだが、たった二日の付き合いだ。すぐに飽きると思って、ベレンガリウスもヒセラも放っておいた。
「お二人とも……図太いですね……」
とは、アミルカルの言であった。船酔いも含め、意外と繊細な第三騎士団隊長であった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
まだ帝国に着きません(笑)
船酔いはヤバイですよねー。飛行機でも酔う私は絶対船酔いする。