【5】
意識をなくしたベレンガリウスが眼を覚ましたのは、それからさほど時間が経たない頃だった。自室で一人で寝ていた。だが、寝室と続く部屋からは話し声が聞こえる。ヒセラたちだろうか。
ベレンガリウスはむくりと起き上がると、ベッドから降り、椅子に掛けてあった上着を羽織る。やや寝乱れた髪を手櫛でかきあげると、普段は使わない避難用のドアを使って廊下に出た。
ベレンガリウスがまっすぐ向かったのはフアニートが寝ているであろうゲストルームだ。よく宮殿に出入りする彼は、宮殿に自室ともいえる部屋を持っている。一応、住居は王都貴族街のオルティス公爵邸だが。
部屋に鍵がかかっていなかったので、勝手に入らせてもらう。思った通り、中にはフアニートがいた。誰かが窓を開けていったらしい。風が入ってきてレースカーテンを揺らしている。
無言でベッドに近づいたベレンガリウスは、ベッドのそばに膝をついた。フアニートが眠っているのを確認して、その枕の近くに腕を乗せ、顔をうずめた。
「……斬られるのは、私のはずだったのに」
ぼそりとつぶやく。いっても仕方のないことだが、フアニートが事実上、ベレンガリウスの身代わりになったのは確かだ。
「誰も、代わってくれなんて言ってないのに」
いや、本当は代わってほしかったのかもしれない。ここにいるべきは自分ではなく、彼のはずだったから。
「そうだなぁ」
思わずため息をついたベレンガリウスの耳に低い声が飛び込んできて、はっと顔をあげた。空色の瞳と目があった。
「俺がそうしたかったんだよ」
大きな手で頬を撫でられ、やっとベレンガリウスの脳が正常に機能しだした。飛び上がるように立ち上がり、後ずさる。
「起きてたの!?」
「お前が入ってきたときに目が覚めた」
「……」
気配を殺したつもりだったのだが、フアニートの方が上手だったと言うことだろうか。彼がよいしょ、と身を起こしたのを見てぎょっとしたベレンガリウスは、あわててベッドのそばに駆け寄る。
「ちょ、大丈夫なのか?」
「ああ。……ちょっと痛いけど」
「寝てろよ……」
ベレンガリウスは呆れて突っ込んだが、フアニートはどこ吹く風で笑った。笑ったまま、ちょいちょいとベレンガリウスを手招くので、ベレンガリウスはそこで膝をついた。すると、床に足を降ろしてベッドに腰掛けたフアニートは、ベレンガリウスを抱きしめた。
「……は? ちょ、何やってるんだ」
ベレンガリウスはフアニートを押し返そうとするが、「やめろ、怪我に響く」などと言われて抵抗をあきらめた。
抱きしめられるのなんて久しぶりな気がする。体格の良いフアニートに抱え込まれると、自分が小さくなった気がした。
「……お前、小さいな」
「私、男の平均身長くらいあるんだけど」
それを言うなら、フアニートが大きいのだ。彼は笑うと「そうだな」と答えた。
「お前さ。あの時」
謁見の間でのことだろう。フアニートに話を蒸し返されて、ベレンガリウスは顔をしかめた。最も、フアニートからは見えていないのだが。
「負けるつもりだっただろ」
「客観的に見ても、私が負けることは明白だっただろ。もちろん勝つつもりなどなかった」
「おま、冷静過ぎやしないか? もう少し可愛らしい返答を期待したんだが」
「私にか? せいぜいぶちぎれるのが関の山だよ」
そう言いながらもベレンガリウスは首をかしげてフアニートの首筋に頬を寄せた。フアニートの手がベレンガリウスの髪を撫でた。
「……俺も、何かできないかと思ったんだ」
突然そんなことを言われ、ベレンガリウスは一瞬疑問符を浮かべたが、すぐに、ああ、となった。
「余計なことはするな」
「ははっ。お前らしい。お前は何でも一人でやりたがる」
そう言ってフアニートはぽんぽんとベレンガリウスの後頭部をたたいた。それから少し体を離した。
「お前も良く言うが、利害の一致だ。俺はお前が好きだし、手に入れるにはやることは一つしかない」
「は?」
言葉の意味を計りかねて首をかしげたベレンガリウスにフアニートは顔を近づけ、そのまま口づけた。
△
「で? お前らは人の部屋で何してるわけ?」
自室に正面から入ってきたベレンガリウスは、中の状況を見て言った。ベレンガリウスの私室には、本人がいないのに多くの人間が集まっていた。ベレンガリウスの声を聴いてびくっとしたのはアミルカルとサルバドールだった。
「……殿下。寝室で寝ていらっしゃったのでは?」
と尋ねたのはヒセラだ。ベレンガリウスは扉に寄りかかっていた体をまっすぐさせ、扉を閉めて中に入った。そのまま部屋を突っ切ると、デスクに腰かけた。
「で?」
ベレンガリウスは再び尋ねた。一同は顔を見合わせる。本人は気づいていないが、真剣なベレンガリウスは本当に恐ろしいのである。
やがて、口を開いたのはリノだ。空気を読まない彼も、ベレンガリウスの雰囲気にのまれて恐る恐る尋ねた。
「殿下……怒ってます?」
その問いに、ベレンガリウスは眉をぴくっと動かし、すっと目を細めた。部屋の温度が一気に下がったようだった。
「むしろ、何故怒らないと思った?」
「……」
一同は顔を見合わせる。ベレンガリウスがぶちぎれることはよくあることだが、本気で怒っているとき、表情が無くなる。冷静に怒っているときが本当に、本気で怒っているということなのだ。
「まるで誰かの掌で転がされているようだ。気持ち悪い」
低く吐き捨てたベレンガリウスに、アミルカルとサルバドールが震えた。顔も真っ青である。かわいそうだと思わないでもなかったが、ベレンガリウスはあえて無視して、ただ一人微笑んでいる人物に目をやった。
「まあ、黒幕に目星はついているけど?」
「おや。私ですか」
と、微笑んでいるのはオルティス公爵アドリアンだ。ベレンガリウスは机から降り、彼の前まで行き、その胸倉をつかんだ。当たり前だがアドリアンの方が背が高いのでベレンガリウスは彼を睨みあげた。
「ふざけるなよ。お前は何がしたいんだ? 何故フアンにやらせた!」
「ベレンガリウス殿下が負けることは明白でしたので。愚息の方がいい勝負になるかと」
「いや。お前ははじめから兄上を勝たせるつもりだった。フアンを斬らせるつもりだったんだろう? 何故だ? 斬られるのは私のはずだった。入れ替えたのは、フアンがお前の息子ではないからか? ……私が、あなたの娘だからか?」
アドリアンはすぐに答えず、ただ微笑んだ。
ベレンガリウスは王妃エカテリーナの子であるが、イバン王の子ではない。
同じように、フアニートは亡きオルティス公爵夫人の子であるが、アドリアンの子ではなかった。
「そうですね……いえ。関係はありません。ただ、利害が一致しただけです」
「利害……」
ベレンガリウスは手を放し、一歩後ろに下がった。その視線が下がり、考え込む様子になる。
フアニートも同じことを言っていた。利害が一致したと。だが、誰と? どういう利害が一致したのだろうか。
そこに考えが及んだとき、ベレンガリウスははっとしてすぐに身をひるがえした。部屋から飛び出る。
「殿下!」
ベレンガリウスのあとを追おうとしたのはヒセラだが、結局追わずにその場にとどまったようだ。
走行禁止の宮殿内を駆け抜け、ベレンガリウスは一つの部屋の扉を勢いよく開けた。中にいた人物が驚いて顔を上げる。
「まあ代理人を立てて逃げた挙句、殿下に負けた方が何の用?」
高圧的に言い放ったのはアレハンドラだ。つまり、ここはクリストバルの執務室である。大量の本や書類で雑然としているベレンガリウスの執務室とは違い、すっきりしていた。物がないともいう。
「出て行け」
執務机についていたクリストバルが言った。アレハンドラがベレンガリウスを見て悠然と微笑んだが、クリストバルは自分の妻に向かって言った。
「ベレンガリアではない。アレハンドラ。お前が外せ」
「な、何故です!?」
「何故でもだ。いいから出て行け」
クリストバルに強く言われ、アレハンドラは納得していない表情だったが、しぶしぶ出て行った。ベレンガリウスは代わりのようにクリストバルに近寄る。クリストバルも立ち上がった。
「それで、何の用だ?」
「兄上とフアンの試合は、始めから結果が決まっていた。兄上は私に試合を申し込んだが、フアンが私と交代するとわかっていた」
クリストバルは何も言わなかったが、視線だけで先を促した。ベレンガリウスはそのまま言葉を続ける。
「はじめから、兄上が勝ち、フアンが斬られるとわかっていた試合だった。その必要があった。私を本気にさせるためだ」
ベレンガリウスはまっすぐに自分の兄を見上げた。
「フアンも、この計画を立てたアドリアンも、『利害が一致した』と言っていた。利害が一致したと言うには、相手と理由が必要になる。その相手とは兄上で、利害と言うのは私を本気にさせること」
ベレンガリウスは一歩前に出ると、間近でクリストバルを見上げた。
「兄上も、アドリアンたちも、私を女王に仕立て上げるつもりなんだ」
「……」
クリストバルは目を細めると、突然ベレンガリウスの首に手をかけた。その手に力が籠められる。
「お前はそう言うが、俺がお前を排除したいだけかもしれない。だから、フアニートを切ったのかもしれないんだぞ? そうだろう、ベレンガリア」
「……今でも私を『ベレンガリア』と呼ぶのは兄上くらいだ」
そう言うと、クリストバルはふん、と面白くなさそうな顔をしてベレンガリウスの首から手を放した。
「さすが、と言っておくべきか? 理論推論にかけては、お前をだませる気がしない」
「いや、こればかりはただの直感だ」
推論ですらない。ただ、状況からそう判断しただけで。
アドリアンは良くわからないが、フアニートはベレンガリウスを手に入れたいのだと言った。
クリストバルは、マルセリナの結婚騒動の時、妹を可愛がっているつもりだと言った。そして、その『妹』の中にはベレンガリウスのことも含まれていた。
今でもベレンガリウスを『ベレンガリア』と呼ぶのはクリストバルだけだ。ベレンガリアはベレンガリウスの本名であるが、女性名だ。彼がそう呼ぶと言うことは、クリストバルはベレンガリウスを女として認識している。つまり、妹と思っているのだ。
「お前を自由にするには、お前自身が女王になるしかない」
「……」
クリストバルがはっきりと言い切った。ベレンガリウスもその通りだと思う。身の上が複雑すぎるのだ。本人のせいではないが、自由になりたいのなら女王になるしかない。そして、フアニートがベレンガリウスを手に入れるにも、ベレンガリウス自身が女王になるしかないのだ。
「殿下!」
またもクリストバルの執務室に人が飛び込んできた。今度は官僚だ。クリストバルは舌打ちする。
「誰も彼も、礼儀すら知らんのか」
「悪かったね」
ベレンガリウスもノックをせず飛び込んできた自覚があるので、思わず皮肉気にそう返してしまった。いや、ベレンガリウスが悪いのだが。
「ああ、ベレンガリウス殿下もこちらに。よかった」
官僚がほっとしたような表情になったが、すぐに顔を引き締めて言った。
「イバン国王陛下が急死なされました!」
思いもよらない報告に、ベレンガリウスとクリストバルは思わず目を見合わせた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
こちらも最終章に突入します。