【6】
第3章最後です。
あと2章の予定。
マルセリナの結婚騒動が片付いた翌日、早朝にベレンガリウスは庭園にいた。朝早くに目が覚めたと言うより、明け方まで仕事をしていて、気が付いたら机に突っ伏して寝ていたのだ。眠気覚ましである。
夏とはいえ、早朝は涼しい。晴れ渡った空を見上げ、ベレンガリウスは目を細めた。
「ベレンガリウス殿下」
久しく聞いていなかった声だ。ベレンガリウスは視線をそちらに向けた。
「これは妃殿下。ご機嫌麗しく」
整った顔に笑みを浮かべたベレンガリウスであるが、対する女性……つまり、王妃エカテリーナ・アルチェミエヴァ・フェランディスはニコリともしなかった。彼女は北方の国、バツィナ王国出身のフェランディス王妃である。淡い金髪に翡翠色の瞳をした美しい女性であるが、さすがに四十九歳という年相応の姿をしている。
それにしても、こんなに小さな人だっただろうか。一緒に過ごしたことなどほとんどなく、エミグディアを生んでからエカテリーナは離宮に引きこもるようになってしまった。
まあ、彼女の事情を知っているベレンガリウスとしては、『仕方がないのかもしれない』という思いもあるのだが、そう言う問題ではない、とも思う。
「さがってちょうだい」
エカテリーナがついてきた侍女に手をあげてさがるように言う。初めから一人だったベレンガリウスはエカテリーナが二人きりになりたいのだな、と察した。
エカテリーナがすっと手を差し出した。ベレンガリウスは察してその手を取ると、先導してゆっくり歩き出した。
「マルセリナ殿下をベルガンサ公爵のご子息に嫁がせると聞きました」
「ええ。そのように決まりました」
その処理もあって、ベレンガリウスはずっと仕事をしていたのだ。
「あなたがとりはからったそうですわね」
「ええ、まあ。収拾がつかなさそうだったので」
余計なことをしたかな、という気もするが、マルセリナに妙なことが起こればベレンガリウス……というかフェランディスが困った立場になりかねない。
「……王妃になることが、必ずしも幸せにつながるとは限りません」
ベレンガリウスはちらっと半歩遅れてついてくる母を見た。彼女が言うととても実感がある。少なくとも彼女は今、幸せそうには見えない。
「しかし、己の恋心に従ったからと言って、幸せになれるとも限りません」
「そうですね……まあ、うまく行かないなら、その時はその時です」
「行き当たりばったりですわね」
エカテリーナがツッコミを入れた。ベレンガリウスは軽く笑う。
「さすがに私でも、人の心までは推し量れませんから」
人の感情と言うものは複雑だ。ベレンガリウスは第二妃エリカに公私がはっきり分かれていると言われたが、そんなこともない。いつ感情が爆発するかわからない。キレるくらいなら、まだそれはガス抜き段階だ。
ふと、手を引かれた。引かれたと言うか、引っ張られたと言うか。エカテリーナが立ち止ったのだ。
「わたくしは、あなたのことが憎い」
まっすぐと翡翠色の瞳がベレンガリウスを射抜いた。確かに母なのだが、ベレンガリウスとエカテリーナはあまり似ていない。かといってベレンガリウスはイバン王とも似ていない。イバン王の母、つまりベレンガリウスから見て祖母にあたる人と似ているのだと言われる。
「……でも、あなたに不便を強い、本当は必要ない無理をさせていることもわかっています」
「……いえ、特に困ってはいないですけど」
「あなたは器量がいいですし、性格も快活で頭もいい。本来なら、もう嫁いでいてもおかしくありません」
「いや、そりゃそうですけど」
昔、二十年近く前、ベレンガリウスがまだ少女の恰好をしていたころ。その頃は、エカテリーナもまだ宮殿で暮らしていた。いわば、彼女は王女であった時代のベレンガリウスのことしか知らないのだ。
「……女であるのなら、と思ったのです」
女であるのなら、どこかに嫁いでいく。王家の中枢には残らない。
だから――――。
「どこかに嫁いでいくのなら、このままでもいいと思ったのです」
だが、ベレンガリウスは嫁がなかった。それどころか、政治の中核を担っている。おそらく、女として育ってもおとなしい性格にはならなかっただろうが、王子として育てられたベレンガリウスはかなり破天荒である。
「ま、私ももうこの年ですからね。自分のことくらい、自分でなんとかしますよ」
自分一人ならなんとでもなる。気づけばこんな年になっていた。エカテリーナがため息をつく。
「……あなたはいつでも笑っていますね」
「妹たちには『短気だ』って言われるんですけど」
「あなたが暴れていると言う話は、離宮にまで届いています」
「……」
まじか。ある意味浮世と隔絶されていると言っていい離宮にまで話が届いているってどういうことだ。
「殿下」
エカテリーナが眼を細めた。実の子であるベレンガリウスを「憎い」と言った彼女だが、本気で憎悪しているわけではないことはわかっている。
「どうか、ご自分の御心のままに。わたくしにはあなたを愛することはできないけれど、せめて、幸せであることを祈っています」
エカテリーナがベレンガリウスから手を放す。その手を追いかけたベレンガリウスはそのまま「妃殿下」と声をかけた。
「私も、あなたを母と呼ぶことはないでしょう」
「そうでしょうね」
母と子と言うには、二人の間には愛情が薄すぎた。しかし、互いにそれを理解しているから、妙にこじれたりしないのかもしれない。
「一つだけ聞かせてください。母上は、どちらが幸せでしたか?」
エカテリーナは少し考えるように目を伏せた。それから伏し目がちなままベレンガリウスを見た。
「不幸だとは、思っていません。でも、どちらが幸せだったかなど、わかりません。ただ、それでも、あの時わたくしが愛したのは――――」
夏の朝の風が二人の髪を撫でる。気づかなかったかもしれないが、その時のベレンガリウスはとても冷徹な顔をしていた。
泣いている。花畑の中、小さな子供が膝を抱えて泣いている。
真実を理解するには早すぎた。その時はまだ。
「私には、あなたが理解できない」
「そうでしょうね。わたくしにも、わたくしが理解できないもの。感情は数値で計れるようなものではありませんから」
エカテリーナのもっともな言葉に、ベレンガリウスは苦笑を浮かべる。
「私も、あなたが少しでも幸せを感じられることを祈っていますよ」
「ありがとうございます。では、今日も頑張ってくださいね。でも、頑張り過ぎも禁物です。隈ができていますよ」
「いつものことです」
目元をこすりながらベレンガリウスは言った。そこに、王妃の侍女が迎えにやってくる。
「それでは殿下。失礼いたします」
「ええ。気を付けてお戻りください」
最後まで他人行儀な親子である。
泣いている。小さな子供が、膝を抱えて泣いている。
魔女メデイアと名乗る黒髪の女性は、その子供を見てうっそりと笑った。
「どうして泣いているの」
子供が顔をあげた。涙をたたえたエメラルドグリーンの瞳がメデイアを見つめ返した。
この子は偽りの『二番目』。本物の予言を受けた人物ではない。しかし、この子を失えばフェランディスは混迷への道を歩むことになる。これも予言だ。
「お姉さん、誰?」
子供は質問を返してきた。メデイアは笑みを深める。
「いいことを教えてあげましょう」
メデイアは一方的に言うとその子の耳にささやくように言った。
あなたの父親は、国王陛下ではない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
王妃様初出。ベレンガリウスとは他人行儀です。仲が悪いわけではないんですが。