【1】
戻ってきました。
新章です。
ベレンガリウスは約一か月ぶりにフェランディス本国へ戻ってきた。出るときはまだ春であったフェランディスの季節も、すでに初夏へと進んでいる。
澄み渡る空の下のティヘリナ宮。帰国したベレンガリウスが真っ先に向かったのは、自分の執務室であった。そして、出迎えた執政官ディエゴたちの報告をうんざり気味に聞きながら、執務室の扉を開け――――悲鳴をあげた。
「ぎゃぁぁぁあああっ!」
身もふたもない悲鳴がティヘリナ宮に響いた。
何となれば、ベレンガリウスの執務室には山と書類が積まれていたのである。部屋いっぱいである。いや、ある程度は覚悟していたが、思っていたよりひどい。
「ああ、ベガ。よかった帰ってきた」
書類の整理をしていたらしいフアニートが両手を上げて喜んだ。ベレンガリウスは部屋の中に入ろうとして書類を踏みそうになり、先にしゃがんでそれを拾い上げた。
「っていうか、嘆願書じゃないか」
「三分の一くらいは嘆願書だな。決済待ちのものは、一応、期限が近いものから順に並べてあるけど、もしかしたら差し迫ったものがあるかもしれないから、宰相に確認してくれ」
「……わかった。留守中ありがとう」
「ああ。大変だった」
「……」
ベレンガリウスはヒセラが持っていた小箱を取り上げてフアニートに向かって投げた。パシッとそれを受け止めたフアニートが怪訝な顔をする。
「何だこれは」
「土産だよ」
中に入っているのは帝国製の懐中時計だ。言った通り土産である。
「ディエゴにも買ってきてあるからね」
そう言ってベレンガリウスは一度入った執務室を出た。
「ヒセラ、陛下に謁見に行く。それとエリカ殿のところにも行ってくるから、フアン、もうしばらく頼む」
「あーはいはい。行ってらっしゃい」
フアニートが適当に手を振る。アミルカルには第三騎士団の様子を見に行かせ、ベレンガリウスはヒセラを連れて国王イバンに謁見に向かった。と言っても、単純な報告のみなので(多少舌戦にはなったが)早々に謁見を終えてベレンガリウスは宮殿の奥、第二妃エリカの元へ向かった。
「エリカ殿」
「まあ、ベレンガリウス殿下」
エリカの居室を訪れると、彼女は笑顔で出迎えてくれた。どうやら授業の真っ最中だったらしく、現在宮殿にいる三人の王女が集まっていた。
「お兄様!」
「お兄様、お土産!」
ベレンガリウスを見て声をあげたのは第五王女のデイフィリアと第六王女のアドラシオンだ。二人とも第三妃の子である。ちなみに、第三妃レアンドラ・ベラスケスもそこにいた。レアンドラもエリカと同じく、宮殿の侍女であったところを見初められた女性だ。年齢はベレンガリウスとさほど変わらない。三十を少し過ぎたくらいだろう。
「フィー、アドラ。先に挨拶をなさいな」
と、言ったのは実の母レアンドラではなくエリカだ。これもいつも通り。宮殿の奥を取り仕切っているのはエリカである。レアンドラは、単純に気が弱い、というのもあるが、現状奥を取り仕切っているエリカを立てている、というのもある。この二人は仲が良いのだ。
「ごきげんよう、お兄様」
「お帰りなさいませ」
デイフィリアとアドラシオンにつられるように、もう一人、第四王女のマルセリナも立ち上がってスカートをつまんだ。
「お帰りなさいませ、お兄様」
「ああ、ただいま」
全員ベレンガリウスの異母妹になる。ちなみにマルセリナはエリカの子である。顔立ちはこの母娘、よく似ている。
「私がいない間、迷惑をかけたようで。それと、土産はあるよ」
「わあっ。お兄様大好き」
現金なのは一番幼いアドラシオンである。ヒセラとレアンドラに土産を渡すように頼み、ベレンガリウスはエリカの元へ行った。
「エリカ殿。私が不在の間、心を砕いていただいたようで」
「ええ、まあ。ですが大したことではありません。いつもあなたに頼りきりですもの」
「はは。帰ってきたら書類がたまっていてびっくりだ」
「現実逃避ですわね」
バッサリと切られて、ベレンガリウスは軽く笑った。
「とにかく、一か月、ありがとう。気に入らなければ処分するなりしていただいて構わないから」
と、ベレンガリウスはエリカに特別に購入してきた香水を差し出した。受け取ったエリカが中の瓶を見て微笑む。
「薔薇の香水ですわね」
「帝国産である以外、珍しくもないが」
まあ、帝国のものでも輸入で手に入るのだが。その辺は置いておく。蓋を開けて香りをかぎ、エリカは微笑んだ。
「いい匂いですわね。使わせていただきますわ。これ、殿下が選んだものではないでしょう?」
「ははっ。よくお分かりで」
香水については良くわからなかったので選んでもらったのだ。
「向こうでエミグディアに会ったんだ。彼女の選んでもらった」
「そうだったのですか。お元気でしたか、エミグディア様は」
「出会いがしらに膝に蹴りをかまされたよ」
「相変わらず、お元気なようですわね」
ベレンガリウスの一言ですべてが察せられている。エミグディアは昔からああいう子だった。たぶん、ベレンガリウスが怒らないのも悪かったのだろうが。
「花祭りはいかがでしたか?」
「きれいだったよ。開花の時期とはいえ、あれだけの花を集められたのはさすがは帝国と言ったところか」
「ベレンガリウス殿下……目を付けるのはそこなのですね」
何だかヒセラにも似たようなツッコミを入れられたような気がしたが、ベレンガリウスは肩をすくめるにとどめた。
「でも、少しは休めましたでしょう? 宮殿では、いつも政務に追われていますものね」
「まあ、それなりに楽しかったけど、そのしわ寄せがね」
「そこら辺は殿下なら何とかなるのでは?」
「なるかなぁ」
なるといいな、とベレンガリウスはため息をついて妹たちを見た。アドラシオンがレアンドラに花の髪飾りをつけてもらってはしゃいでいる。
「わかってはいるのですよ。いつまでもベレンガリウス殿下に頼り切りではいけないと」
「……」
同じくはしゃぐ王女たちを眺めながらエリカが言った。彼女はベレンガリウスを見上げて微笑んだ。
「初めてお会いしたとき、あなたはまだこーんなに小さくて、泣き虫なお姫様でしたわ」
「いつの話だよ、それ。二十年以上前だろ」
そう思うと、自分も年を取ったなぁと思う二十代半ばのベレンガリウスである。エリカと初めて会ったのは、ベレンガリウスが二歳か三歳くらいの時か。当時はまだ『お姫様』であったはずだ。それがどこでどう間違ったのか、男装してエリカの隣にいる。大きく思えた彼女の背丈も、今では顔半分ほど越している。
「それでも、わたくしには時々、あなたがあの時の小さな女の子に見える」
「……エリカ殿」
そう言えば、泣かなくなったのはいつからだろう。小さいとき、本当に小さなころ、ベレンガリウス……当時はベレンガリアと名乗っていたが、その名の王女は泣き虫な女の子だった。
いつだろう。泣いても助けは来ないと悟ったのは。
この状況から脱却したいのであれば、自分で何とかするしかない。そう思ったのはいつのころだろう。
「お兄様、ありがとう」
「ん? ああ。気に入ったならよかった」
唐突にアドラシオンに礼を言われ、思考の海に沈んでいたベレンガリウスは現実に引き戻された。海と言えば、帰りの船でもアミルカルは船酔いしていた。一応、酔い止めの薬はもらったのだが。
ちなみに、土産の類はすでに国王にも渡してある。帝国から持たされたものはすべてイバンに献上したので、ここにあるのはベレンガリウスが個人的に入手したものだ。
「お兄様、しゃがんで」
「はいはい」
ベレンガリウスが手を引かれて膝をつくと、左側にアドラシオンが、右側にデイフィリアが立ち、ベレンガリウスの頬にそれぞれキスをした。
「お返し」
「おや。ありがとう」
アドラシオンとデイフィリアの頭を撫でてやる。二人ははにかみながら微笑んだ。立ち上がったベレンガリウスはマルセリナに微笑む。
「マリーは?」
「わたくし、そんなに子供ではありません」
むっとした表情でそんなことをのたまうマルセリナである。ベレンガリウスに言わせれば十分子供である。そう言えば、ベレンガリウスが政治に口だするようになったのはこれくらいの年齢の時だった。
つんとしたマルセリナであるが、ひとまず「ありがとう」と言ったのでよしとする。それでエリカも納得したようだ。
「さて。授業に戻りましょうか。ああ、ベレンガリウス殿下も一緒にどうですか? マナーの授業なのですが」
「いや、遠慮しておこう。私も大概怪しいけど、仕事を片付けないとさすがに本当に部屋が沈んでしまうよ」
というか、さっき見たとき半分沈没していた気がする。では失礼、と笑みを浮かべるベレンガリウスに、レアンドラが言った。
「実は、少し、殿下は戻っていらっしゃらないかと思いました」
「あー、うん。どうだろうね。もしかしたら戻ってこなかったかもね。皇帝陛下に斬られるかと思ったし」
「え、そっち?」
レアンドラが眼を見開いて言った。たぶん、ベレンガリウスが逃げ出すと思ったのだろう。ベレンガリウスはもう一度微笑み、一礼すると部屋を出た。
「……そう言えば、考えたことはあったけど……」
「逃げることですか」
ヒセラが後ろから声をかけた。ベレンガリウスは声を出さずにうなずく。
「まあね。結局実行しないけど」
「でしょうね。殿下は、逃げ出すなんてできない人です」
ベレンガリウスは立ち止って振り返った。
「そう?」
「ええ。殿下は、見捨てられない人です」
「……その言われ方、ちょっと嫌なんだけど」
「何言ってるんですか。行きますよ」
ヒセラがベレンガリウスの腰をどついた。ベレンガリウスは「はいはい」とうなずきながら机とソファが埋まるほど書類がたまっている執務室に向かった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
しばらくベレンガリウスの胃の痛い日々です(笑)