【12】
「殿下。殿下!」
「ん……」
激しく肩をゆすられてベレンガリウスはゆっくりと目を開いた。ヒセラがベレンガリウスが起きたのを確認し、言った。
「殿下。お客様ですよ」
「は……?」
鈍い思考で、それでもベレンガリウスは怪訝そうに首をかしげた。起こされたことからもわかるように、まだ朝である。早すぎる、ということはないが、客人がおとなうにはまだ早い。
そのままでいい。早く出ろ、と言われたベレンガリウスは夜着の上にいつも通り、ミレレス紋様の上着を羽織って隣の客間に出た。
「あ、おはようございます、殿下!」
その声を聞いた瞬間、ベレンガリウスは肩を落とした。
「お前……何しに来た」
そこにいた客人とは、リノのことであった。フェランディスに置いてきたはずの彼が何故ここにいるのか。
「いえ、宰相閣下からの伝言を預かっておりまして」
と、リノは相変わらずニコニコとして言った。宰相エフラインの伝言、というだけでもうすでに嫌な予感がする。いや、いつもリノが急使としてやってくると、ろくなことがないのだが。
「……なんて?」
「収支報告書の金額が合いません。早く戻ってきてください。だそうです」
「……」
ベレンガリウスはため息をついた。リノをよこしたと言うことは、すぐにでも返答が欲しいのだろう。ベレンガリウスは首に手をやり、少し考えながらいくつか答えた。
「まずどこの収支が合わないのか割り出しておけ。さすがに私も、現物が手元にないとわからない」
ベレンガリウスは、自分がフェランディスの内政を担っている自覚はあるが、自分が頭がいいとは思っていない。さすがにすべてを記憶しているわけではないし、自分でできないと思ったら容赦なく他人に回すようなこともする。細かい金額になると、余計に覚えていなくて当然だ。
さすがにリノも報告書を持ってくるようなことはしなかった。国内ならともかく、ここは異国。収支報告書を見れば、その国の財政状況がだいたいわかってしまうのでエフラインもそんな危険は冒さなかったようだ。
「わかりました。それでもわからないときは?」
「支出が合わないのか収入が合わないのかわからないけど、その時は国庫に残っている残額を計算し直すしかないだろ」
「わあ。ギジェン侯爵が泣いちゃいますよ」
「……」
しばらく前、デラロサに出陣していたベレンガリウスを迎えに来たリノが持ってきた急報も、そう言えばギジェン侯爵に関するものだった。
「……それと、どこが合わないのかわかったら、現地検査を行うように言っておいてくれ」
「了解です。でも、殿下がいないと、決定が降せません」
「……」
ベレンガリウス、再び沈黙。自分がいないだけでここまで内政が滞るとは。
「まあ、どうしても必要なものは宰相様やエリカ様がとりなしてくれるんですけど。あと、結構みんな好き勝手やってますよ。こっちもエリカ様がだいぶ押さえてますけど、特にアレハンドラ様がひどいですね」
リノがベレンガリウスがいないここ二週間ほどのフェランディスの様子を語ってくれる。いや、リノは五日かけて帝国まで来たらしいから、正確にはベレンガリウスがいなくなって十日ほどのことだろう。みんな自由すぎる……。
「またライオンが欲しいとでも言った?」
「いえ。象が欲しいと言いだしました」
「……なんか、重ね重ねすみません……」
謝罪を口にしたのはヒセラだった。話題に上がっているアレハンドラは、彼女の従姉なのである。そして、クリストバルの一人目の妃でもあった。
「ヒセラのせいじゃないだろ」
「そうですよ。さすがにクリストバル殿下も象やライオンを輸入したりしませんし」
「まあ、前科があるしね」
そう言ってベレンガリウスは肩をすくめた。リノは知らないかもしれないが、以前、クリストバルがアレハンドラと新婚の時、結婚祝いに虎が欲しいと言われ、輸入したことがあった。当時、ベレンガリウスの発言力は今ほど強くなかったので、議会を通ってしまったのである。
そして、虎は宮殿にやってくると、しばらくおとなしくしていたが、ある日、餌やりの従僕をかみ殺して食ってしまった。それを目にした女官が悲鳴を上げ、虎は柵の中から脱走。最終的に捕まえられず、フアニートが斬り殺す、という事件があったのだ。ちなみに、この時も事後処理はベレンガリウスがした。
「いやぁ、懐かしいね。今思い出しても腹が立つけどね」
爽やかな笑顔でそんなことを言うベレンガリウスである。何故異国に来てまで、フェランディスの現状を思って胃を痛めなければならないのか。やばい。本当に胃痛がしてきた。
「殿下が両断したわけではないんですね」
リノが不思議そうに言った。ベレンガリウスならキレて斬り殺すくらいやりそうだと思ったのだろう。そしてそれは間違っていない。
「いや、聞いたときは『斬り殺してやるわ!』くらいの気概はあったんだけどね……」
「実際に目にしたら悲鳴あげてましたもんね」
当時から仕えていたアミルカルが珍しくからかうようにベレンガリウスに言ったので、思わず肘でどついてしまった。こういうことはフアニートが言うことが多いのだが、いま彼は遠いフェランディス王都にいる。
「へえ~。殿下も可愛いところがあるんですねー」
リノがにこにこと言った。彼はこうしてベレンガリウスにとどめを刺しに来るのだが、本人に悪意がないので怒る気がそがれるのである。
「うん……まあ、ありがと。それじゃ、収支の方はよろしく。それと、どうせ決裁たまってんだろ。エフラインたちに整理するように言っておいてくれ。期日が近いものから順に並べておけよ。かといってすべて回したら、帰った時本気で怒るからな」
「了解です。でも、『怒る』と言ってもみんないつものことだと思うだけですよ。それに、言ったところで怒らないんですよね。知ってます。そんな殿下が大好きです」
「お前、そこの窓から突き落とすぞ」
了承を示したリノであるが、やっぱり一言多かった。ベレンガリウスは本気でリノを突き落そうか結構真剣に悩んだ。
結局突き落とすのはやめて、ベレンガリウスはリノを見送った。ベレンガリウスの返答を持ち、リノはすぐにフェランディスに取って返したのである。
「とりあえず、エリカ殿には何か特別な土産を用意しないとな……」
おそらく、ベレンガリウスがいないことで最も心を砕いているのはイバン王の第二妃エリカだ。彼女には帰国後、土産を持って礼を言いに行こうとベレンガリウスは思った。
結局、この御仁は朝食をとったところまではおとなしくしていたのだが、久しぶりにフェランディスの内政のことで頭を悩ませ、かといって満足に暴れられずにストレスがたまっていた。なので、朝食後にアミルカルを連れて外の修練場を訪れた。他国であるが、皇帝ヴォルフガングから使用許可はもらっている。
「なんで外交に来てまで内政に頭を悩ませないといけないん、だよっ」
ベレンガリウスが文句を言いながら剣を振り下ろす。アミルカルはその剣を受け止め、それから受け流した。反撃するがベレンガリウスも受け止める。
ベレンガリウスとアミルカルが打ち合いをしている。二人とも軽装で、使っているのは真剣だ。主にベレンガリウスのストレス発散が目的だが、訓練も含んでいるので。
周囲に帝国軍の兵士もいるが、若干自分たちと剣筋の違うフェランディスの騎士二人の剣術を見守っているようでもあった。
互角に打ち合っているように見える二人だが、この二人を比べて時、アミルカルの方が明らかに強い。いや、ベレンガリウスも水準以上の剣士であるのだが、アミルカルが桁外れに強いのである。
そもそも、ベレンガリウスは自分はあまり強くなくても良い、という考えがある。第二王子がしなければならないのは前線に出て戦うことではなく、戦況を見て指揮を執ることだ。
まあ、武勇は人に任せておけと言うことだ。ベレンガリウスは、自分で自分の身が護れればそれでよい。
とはいっても、帝国に来るときの海上戦でも見せたように、身軽な剣戟を主体とするベレンガリウスと、重い剣戟を繰り出すアミルカルでは戦闘方法が違っていて戦いにくい。
それでも本気で戦えばアミルカルは一瞬でベレンガリウスに勝つこともできるだろう。だが、実際二人は何合も打ち合っていた。訓練でもあるが、主な目的はベレンガリウスのストレス解消なので。疲れてくれば、自然に落ち着くだろう。
「ベガ!」
重低音の声で愛称を呼ばわれ、ベレンガリウスは剣戟を止めてそちらを見た。そこには豪奢な上着を脱いだヴォルフガングが人の悪そうな笑みを浮かべて立っていた。
「何故ここがわかったのですか」
「お前、ここは私の宮殿だぞ。報告が来るに決まっているだろう」
「それもそうですね」
ベレンガリウスは納得してうなずいた。確かにその通りである。いつでも使えと言われたとはいえ、宮殿の主に報告がいかないことなどありえない。ベレンガリウスは自国のティヘリナ宮殿で報告が来ないことがままあるので思い至らなかったのだ。
「しかし、剣か。いいな。手合わせしよう」
と、ヴォルフガングが言いだすのでベレンガリウスは目をしばたたかせた。
「お言葉ですが皇帝陛下。私の力量は陛下の相手をできるほどではありません。手合わせならアミルをお貸ししますが」
「ちょ、恐ろしいことを言わないでください。殿下でもある程度は戦えます!」
あわてたアミルカルが良くわからないフォローを入れてきたのだが、ベレンガリウスはかかとで彼の足を踏んで黙らせた。
「そうか? 型は変わっているが、なかなかの腕だと思ったんだが」
「買いかぶりです」
即座に否定する。だが、ヴォルフガングは引かなかった。
「一回くらい、構わないだろう。それと、特別にお前に名前で呼ぶことを許してやる」
などと言われたが。
「いえ。ヴォルフガング様と言いにくいので、皇帝陛下のままで」
「正直だな! お前! というか、その流暢なハインツェル語で何を言っているんだ」
冷静なツッコミが入った。皇帝を名前呼びとか、恐れ多すぎる。怖い。豪胆なベレンガリウスであるが、さすがにこの皇帝は恐ろしい。
だが、手合わせしてみようと言うヴォルフガングの提案は覆されなかった。
さすがに木剣に持ち替えたが、これでも怪我をする可能性はないではない。
「手加減していただく必要はありませんが、骨はおらないでくださいね」
「お前、それは手加減だろ」
やはりツッコミを入れられながら打ち合う。当たり前だが、力では勝てない。少年であるリノと力比べをして負けたこともあるベレンガリウスである。真正面から受けられないので、受け流し、体を反転させて両手で持った剣を打ちこむ。
意外といい勝負であったが、最終的に体力負けでベレンガリウスが先にダウンした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ヴォルフガングも大概自由ですね……。