【9】
朝っぱらから妙なことに巻き込まれた、とすでにベレンガリウスは疲れていた。あれは本気で斬られると思った……。
朝食をとり、人に会うのにふさわしい恰好になった後、ベレンガリウスはハインツェル帝国皇妃の居室に向かった。アミルカルは昨日から情報収集に行かせていていないので、ヒセラを連れている。ニコレット妃が要求したミレレス紋様の入った布地を用意していた。
「あ、いらっしゃい」
訪ねて行くと、ニコレット妃は子供の世話をしていた。皇太子フェルディナンドと、第二皇子リヒャルトである。五歳と三歳で、やんちゃ盛りである。特にリヒャルトは人見知りする様子もなくベレンガリウスを見て突撃してきた。
「うおっ!」
足にぶつかってきた小さな体を「失礼」と抱き上げ、親元に帰した。
「あ、ありがとう。よく動くから、困ってるのよね~」
と、さほど困っていなさそうにニコレット妃は笑って言った。彼女は子供たちを侍女に預けると「こっちこっち」とベレンガリウスをいざなった。
「いま、お茶を用意するね」
「お気遣い、感謝いたします。それと、よろしければミレレス紋様の布地をどうぞ」
ニコリと笑ってベレンガリウスが差し出した布地に、ニコレット妃は「わお!」と目を輝かせた。
「すごーい! きれい。ありがとう」
「お気に召したなら幸いです」
そこに、ヴォルフガング帝がやってきた。彼は顎に指を当て、ベレンガリウスの全身を見た。
「……やはり、男にしか見えんな」
「まあ、今は男装していますからね」
むしろ、男に見えなければ困る。長身で女性にしては筋肉質な体つきをしているベレンガリウスは、男装すれば細身の男性に見られる。
「さしずめ貴公子めいた優男風と言ったところか」
ヴォルフガング帝の苦笑めいた言葉に、なぜかヒセラが大きくうなずいた。解せぬ。
「まあとりあえず、ヴォルフ様、ベレンガリウスさん、どうぞ」
と、ニコレット妃がソファに座るように勧める。皇帝夫妻が隣り合って座り、ベレンガリウスはその向かい側に腰かけた。
座ってから、ニコレット妃が首をかしげた。
「そう言えば、ベレンガリウスって男の名前よね? 本名?」
「というか、もしかして隠していたか? これは少々浮世離れしていてな……いろいろすまん」
ニコレット妃に続いてヴォルフガング帝も口を挟んできた。ニコレット妃が「なにそれ」とむくれているが、ヴォルフガング帝は「本当のことだろう」とちょっと呆れている。一方の暴露された側であるベレンガリウスは苦笑を浮かべた。
「別に隠しているわけではありません。箝口令も敷いていませんし、フェランディスの宮殿では皆、私が女だと知っています。ついでに、ベレンガリウスと言うのは本名です」
別に知られて困るようなことではないので、さらりと答えた。フェランディス国内では知っている人の方が多いし、国外の者でも調べれば簡単にわかるだろう。何度も言うが、隠しているわけではないのだ。
ベレンガリウスの言葉に、ヴォルフガング帝は「なるほど」と納得の声を示した。
「確かに、初めから公開されている情報なら、弱みになることはないからな」
「そうですね」
たとえ誰かが、こいつは女だ、と叫んだとしても、「だから何?」となるわけだ。王子としての身分は仮にも父イバンが与えたもの。誰にも異議を唱えることはできないだろう。もしも身分を剥奪されても、ベレンガリウスには残るものがある。それは今まで積み上げてきた実績だ。
ベレンガリウスを排除して、それで国が治められると思っているのならそうすればいい。勝手にしろ、と言うのがベレンガリウスの心中である。今のところ、排除される気配はないので、胃痛を抱えながら仕事に精を出しているのだが。
「でもでも、話を聞く限り最初から男として育てられてたわけじゃないでしょ」
ニコレット妃が話しを戻す。かなりマイペースな人だ、と思いつつうなずいた。
「ええ、まあ。五歳までは第一王女ベレンガリアとして育ちましたね」
その後、いろいろあって第二王子ベレンガリウスの名が与えられることになったのだ。なので、第一王女ベレンガリアも、第二王子ベレンガリウスも、どちらもこの御仁の本名だ。本人的には『第二王子ベレンガリウス』であるという思いが強いので、こちらを採用している。
ちなみに、一応ベレンガリウスは淑女としての教育も叩き込まれている。国王イバンの第二妃エリカが何かの役に立つかもしれないから、と面白半分に叩き込んだのである。まあ、優雅なふるまいも本来のがさつさが相殺してしまっているが。
「へえ~。じゃあ、ベレンガリアって呼んでもいい?」
「それは勘弁してください」
ニコレット妃の要求にベレンガリウスは速攻で拒否を示した。ベレンガリアなど、もう二十年来呼ばれていない。
「お前、愛称は? ベレン? ベガか?」
ヴォルフガング帝に尋ねられ、ベレンガリウスは一瞬戸惑った。ベレンガリウスを愛称で呼ぶ人間など、片手で数えられるほどだ。
「……一応、ベガですね」
一番良く呼ぶのはフアニートだ。一番上の妹、つまり、同じ正妃の生んだ子である第二王女も愛称で呼んでいた気がするが、彼女は五年前に嫁いでいる。ああ、それに最近ではダリモアの王太子にもこの名を名乗ったか。
「じゃあベガで」
ニコレット妃が手をたたいて結論を出した。他国の皇族に愛称で呼ばれるのは恐れ多いと言うか、ちょっとくすぐったい。
「で、ミレレス紋様~!」
ニコレット妃の発言は脈絡がなくてついて行くのが大変だ。ちらっとヴォルフガング帝を見ると、われ関せずとばかりに紅茶を飲んでいた。
「ミレレス民族ってベルガラ半島の一部にしか住んでない少数民族でしょ。ミレレス紋様と呼ばれる紋様が特徴で、紋様を織りこんだ布地と、刺繍するものがあるって聞いたことがあるわ。これは織り込んだものね」
すらすらと言葉が出てくるニコレット妃に正直驚く。この人は民俗学に精通しているのだろうか。
「少数民族の紋様だから市場にもほとんど出回らないのに……どうやって手に入れたの?」
キラキラとした目で尋ねられる。好奇心旺盛な皇妃様にベレンガリウスは苦笑を浮かべる。
「私はミレレス民族が暮らすアラーニャ地方の領主なのですよ」
なので、ベレンガリウスがいつも纏っているゆったりとした上着はミレレス民族から租税と一緒に納められたものだ。外出や式典用にはできないが、紋様が美しいのでベレンガリウスも気に入っている。
アラーニャ地方はフェランディスに置いても独特な風土で、治めにくい。なのでベレンガリウスに押し付けられたともいえるが、それはそれ。結構うまくやっている第二王子である。
フェランディスは単一民族の国ではない。帝国のように極端ではないが、いくつかの民族が集まってできた国家であり、ミレレス民族はその『いくつかの民族』の一つだ。やや閉鎖的であるが、ベレンガリウスは彼らの文化を尊重することで信頼関係を保っていた。
「じゃあじゃあ。紋様の描き方とかもわかる!?」
「一応習いましたが、ミレレスの族長より『特別に』と言われておりますのでお教えすることはできません」
帝国の皇妃に対して不遜な物言いであるが、ニコレット妃はむくれただけで怒ったりはしなかった。たぶん、ベレンガリウスならキレて説教している。
「ニコラ。やめておけ。教えてもらっても、お前が作れるような模様じゃないぞ」
「それを言われると痛い!」
ヴォルフガング帝に突っ込まれ、ニコレット妃はうなだれた。確かに、ミレレス紋様を刺繍するのは難しい。模様が複雑だからだ。でも、初心者用の簡単なものもある。実のところ、ベレンガリウスも初心者用のものしか縫うことができない。
ひとしきり落ち込んだニコレット妃は顔をあげてさらに質問を重ねてくる。
「ベガはミレレス民族の領主なのよね」
「正確にはミレレス民族が住んでいる地方の領主なのですが……まあそうですね」
「じゃあ、風習とかわかる? あ、フェランディスの文化とか歴史も教えてほしいなぁ」
ニコレット妃が身を乗り出すようにして頼み込んでくる。ベレンガリウスは苦笑した。
「まあ、お答えできる範囲でよろしければ」
場合によっては機密事項にも抵触する。文化や歴史などは調べればわかることなので特に問題はないが。
次々と質問を繰り出すニコレット妃に、ベレンガリウスは知っている限りのことを答える。どう考えてもフェランディスやミレレス民族とは関係のないことまで聞かれた気がするが、とりあえずはツッコまないでおいた。
「ベガ……お前、博識だな」
会話が落ち着いたところでヴォルフガング帝が口を挟んできて言った。ベレンガリウスはニコレット妃のティーカップに紅茶をつぎながら言った。
「そうでしょうか。私より詳しい者などいくらでもいます。それより、私はニコレット皇妃様の知識の深さに感服しておりますが」
「……それは少し変わっているからな」
「ヴォルフ様、ひどいっ。事実だけど」
と、ヴォルフガング帝の言葉をあっさり肯定するニコレット妃である。ベレンガリウスはこの夫婦のあり方がいまいちよくわからなかった。仲がいいのはわかるけど。
「ベガ、お前、いくつだ?」
「は?」
ポットを置きながら不敬ともいえる声をあげたベレンガリウスである。思わず咳払いしてから答えた。
「二十六になりますが、それが何か」
すると、ヴォルフガング帝は妻の方を見た。
「ニコラ、同い年だぞ。ベガくらい、とは言わんが少しは見習って落ち着けばどうだ」
「ええ~? 無理」
即答した。ベレンガリウスの後ろでヒルデが笑いをこらえている気配がする。まあ、確かに、実際のベレンガリウスは落ち着いているとは言い難い。短気だし、腹黒いし。
とりあえず、一言言ってくれようか。
「夫婦喧嘩をなさるのなら、私は退席いたしますが」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ニコレットってこんなに自由だっただろうか……。
ベレンガリウスのことは『彼』とも『彼女』とも表現しづらいです。なので、性別を限定しない三人称を使っているのですが、やりにくいです。
そもそもベレンガリウスって打ちにくい←