【8】
小さな子供が泣いている。花畑の中、膝を抱えて泣いていた。
そこに一人の女性が現れた。黒髪なのはわかるが、目深にかぶったフードで顔は見えない。彼女はひざまずき、子供に向かって何かを言った――。
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ふと、ベレンガリウスは目を覚ました。見なれぬ部屋で一瞬考えたが、すぐに自分がハインツェル帝国に来ていることを思い出した。ゆっくりと身を起こす。
まだ朝早いようで、ヒセラもいなかった。室内履きを履いて夜着の上に上着を羽織る。
「おはようございます、ベレンガリウス殿下」
はっと顔をあげた。フェランディス語であったが、ヒセラの声ではない。だが、女性の声だった。
黒髪に目深にかぶったフード……。ベレンガリウスの脳裏を刺激する。そう。忘れていたのに、先ほど見た夢を思い出した。
この女だ。幼いベレンガリウスにささやいたのは。しかし、あれは二十年近く前の話であるのに、目の前の女は全く変わった用には見えない。まあ、そもそも顔は見えていないのだが。
「美しくなられたこと。私のことは覚えていて?」
黒髪の女性が微笑む。ベレンガリウスはベッドに立てかけていた剣をつかんだ。
「お前、何者だ」
「あら? 覚えていないのかしら。私があなたに真実を教えて差し上げたのに」
「王族の部屋に侵入したんだ。覚悟はできているだろうな」
会話が成立していない。互いに一方的なことを言っている。黒髪の女性はせせら笑った。
「王族! まあ、確かにそうだけれど、あなた……」
「っ!」
ベレンガリウスは女性に斬りかかった。女性が剣を避ける。女性の嘲笑が響いた。
「真実を暴かれそうになって焦ったのかしら。でも、真実は変わらない……私の予言も外れない!」
さらに剣を振り下ろす。ベレンガリウスの技量はアミルカルやフアニートには劣るがかなりのものだ。なのに、女性は身軽な動作で剣をよける。ベレンガリウスはベッドに飛び乗り、その反動で女性に剣を振りかぶった。
「ふふっ。それくらいで私は殺せないわ」
すっと女性の体が後ろに下がる。扉が開いているわけでもないのに後ろに下がった女性の姿が消えた。
「何……!?」
ベレンガリウスは寝室から隣の今に続く扉を開いた。勢いよく開けたので朝の用意をしていたヒセラが驚いた表情を見せた。
「殿下?」
そこにも、黒髪の女性はいなかった。いや、いるにはいるが、これはヒセラだ。ベレンガリウスは剣を鞘に納め、とりあえず腰帯に突っ込むと、そのまま客間から廊下につながる扉を開いた。……やっぱりいない。と言うかそもそも、この扉は鍵がかかっていた。
「殿下。いったいどうなさったのです? ここはティヘリナ宮殿ではありませんよ」
「いや……わかっている」
ベレンガリウスはいぶかしげに自分を見上げてくるヒセラにそう返答してから、彼女に尋ねた。
「ヒセラ。フードを目深にかぶった黒髪の女性を見なかったか?」
「は? どこでです?」
「この部屋で」
とベレンガリウスは客間を示した。ヒセラが何言ってんだお前、的な顔になる。
「いるわけないでしょう。たとえいたとして、私が取り逃がすとでも?」
「……うーん。そうだよね……」
あの女性がヒセラの目に触れていたのなら、ヒセラが必ず捕らえようとしたはずだ。ベレンガリウスの居室に無断で侵入したのだから、当然である。ヒセラが嘘をつくとは思えない。こうして呆れた目でベレンガリウスを見てくるが、彼女の忠誠心は疑いようもない。
ならばベレンガリウスの見間違いだったのか? いや、やはりそうは思えない。ならば、あの女性は一体なんだったのだろう。
「殿下。お召し替えを手伝いますので、どうぞ中に」
ヒセラに言われて、そう言えばまだ夜着のままだった、と思いだし、ベレンガリウスは部屋の中に入ろうとする。その時、「あーっ!」という女性の声が聞こえて、ベレンガリウスとヒセラはそろってそちらを見た。
「すごいっ。ミレレス紋様の刺繍……本物、初めて見たっ」
その女性は淡い金髪で、同じく淡い色彩の紫の瞳を輝かせて見入っていた。何に、かというと、ベレンガリウスが纏っている上着の刺繍に、である。
金髪のその女性はベレンガリウスの上着の裾をつかみ、まじまじと刺繍を眺めていた。見たところベレンガリウスとそう変わらない年齢の女性に見えるが、落ち着きがないと言うか、好奇心旺盛なのだろうか。
「これ、どこで手に入れたの!? ほかの紋様も持ってる!?」
「は、はあ……」
いつもどちらかと言うと傍若無人であるベレンガリウスが勢いに押されると言う珍しい事態である。相手がおそらくやんごとなき身分の女性なので、強く出られないのである。
それをわかっていてかわからずしてか、その女性はさらにベレンガリウスに詰め寄った。
「ほかの紋様があれば見てみたいんだけど! あ、あとあと、作り方もわかったら教えてほしいなぁ!」
「ああ……えっと」
さしものベレンガリウスも困ってヒセラと目を見合わせた。と、不穏な気配を感じた。
「そこの色男。俺の妻から離れてもらおうか……!」
重低音の声。怒りをにじませたその声音に、ベレンガリウスは降伏を示すために両手をあげた。
「ちょっとヴォルフ様、邪魔しないでよ~。今は私と話してる最中なの!」
と、女性はやっぱり状況をわかっているのかいないのか、のんびりした口調で言った。気配でヴォルフガング帝が剣の柄に手をかけたのを察した。ある意味恐れ知らずのベレンガリウスであるが、その顔から血の気がさあっと引いた。
これは、斬られる。確実に!
「ニコラもその男から離れろ!」
って、やっぱりハインツェル帝国皇妃ニコレットか! 紫の瞳と言うあまりない特徴的なものを目にしていたのに、とっさに気付かなかった自分に嫌気がさす。それに、皇妃ニコレットは変わり者で、実験や研究が好きな女性だと言われているではないか!
嫉妬に怒るヴォルフガング帝であるが、ニコレット妃は落ち着いていた。落ち着いていたと言うか、状況がわからないと言うように目をしばたたかせている。
ややあってニコレット妃はベレンガリウスの腰のあたりに抱き着いた。
「!?」
「ニコラっ!」
ベレンガリウスが恐怖に声にならない悲鳴を上げ、ヴォルフガング帝が怒りの声をあげた。その中で、ニコレット妃は何かを察したようにからからと楽しげに笑いながらベレンガリウスから離れた。
「ヴォルフ様、勘違い! この人、女の人だもの」
沈黙。
「は?」
再起したヴォルフガング帝が間抜けな声をあげた。ベレンガリウスとニコレット妃を見比べ、ベレンガリウスに尋ねた。
「……そうなのか?」
「……まあ、生物学上は女に分類されますね……」
これで難を逃れられるかとベレンガリウスは青ざめながらもニコレット妃の言葉を肯定する。
「……本当か?」
疑うようにヴォルフガング帝が尋ねてくる。彼に背を向けているので、彼からは見えないのだろう。
「お疑いなら、証拠を見せても構いませんが」
「……いや、いい」
しばらく考えたようだが、ヴォルフガング帝は結局断った。寝起きなので胸元にさらしを巻いておらず、ちょうど良いかと思ったのだが。
とりあえず危機が去ったことに息を吐くと、体がよろめいた。あわてて壁に手をつく。
「殿下っ」
ベレンガリウスが斬られるようなことがあれば間に入ろうと身構えていたヒセラが心配そうな声を上げる。ベレンガリウスは壁になついたまま言った。
「大丈夫……ただの貧血……」
「いや、その……気づかなかったとはいえ悪かった」
脅した自覚のあるヴォルフガング帝が謝罪してきたが、このある意味先ほどよりも恐ろしいこの状況にベレンガリウスは反応もできなかった。
「ホントにそうよ。どう見ても女の人じゃん! 骨格も細いし、胸だって私よりあるよ!」
「いや、後ろから見ていたから気づかなかったんだ」
ヴォルフガング帝がニコレット妃に言い訳している。何とか復活したベレンガリウスは青白い顔をハインツェル皇帝夫妻に向けた。
「……遅れましたが、おはようございます。お騒がせして申し訳ありません」
フェランディス風の礼をとるベレンガリウスとヒセラだ。ゆったりとした上着を着ているベレンガリウスは、確かに体格がわかりづらい。
「いや……騒がせたのはこちらの方だ。女性を脅すなど、本当に申し訳ないことをした」
「いえ、こちらこそ紛らわしいのでお気になさらず」
ベレンガリウスと言う名も第二王子と言う肩書も格好も、全て紛らわしいのでヴォルフガング帝だけのせいではない。どちらかと言うと、ベレンガリウス本人のせいかもしれない。
中性的な顔立ち、とも言っているように、決して女性に見えないわけではないのだが、先入観もあり、たいていの人は間違える。
誤解が解けたところで部屋に引っ込もうとしたベレンガリウスであるが、ニコレット妃に引き留められた。
「あ、待って! ミレレス紋様のこと、教えてほしいんだけど! 一緒に朝食とかどう!?」
引き留められ、ベレンガリウスは困惑した。というか、朝食って本気か?
ベレンガリウスのためらいを察したヴォルフガング帝が妻の肩にぽん、と手を置いた。
「朝食は勘弁してやれ。せめて、一緒にお茶くらいにしろ」
「えー?」
ニコレット妃は不満げな声をあげたが、結局ヴォルフガング帝の提案にうなずいたので、ベレンガリウスは心底ほっとした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ついに出てきましたニコレット。書くのが久しぶりすぎて何度も読み返してしまった……。
そして、さらっと流されていますが、ベレンガリウス(女)です。
いつもよりやや短いのに、なにやら内容が濃い気がする。