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黄金の夜明け前~畏歴二千年前史~ 上  作者: ノウェル・ウィチタ
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カソリカ教皇領

 カソリカ教皇領は、畏歴1035年の教皇領宣言によって誕生した国家である。

 クスルクセス神衛帝国の直接的な後継として現れた。

 

 カソリカ・ウィチタは、聖窟の発見者として歴史に永遠に名を刻まれた偉人である。

 1038年に死亡してから二年後の1040年に列聖されており、聖人の一人でもある。

 現代においては学問を司る聖人として最も有名だが、これは列聖された当時からそうであった。

 

 彼は、976年にウィチタ家の五男としてヴァチカヌスで産まれると、物心付く前に修道院へ入れられた。

(当時、幼い子どもを修道院に預けることは、信仰心を示すと同時に厄介払いもできるという一石二鳥の方法で、貴族の間では良く行われていた)

 

 修道院では歴史と神学をことさら好み、祈りを蔑ろにすることはなかったようだが、むしろ本を読むことを好んだ。

 修道士というよりは、学者に向いた気質であったのだろう。

 16歳にして修道院を去り、当時神学校とでも言うべき機能を持っていた、ラルゴランコ僧院に入る。

 18歳のときには、神衛帝国の制度の中で最も難しい聖職の試験(アストラセアン)に最年少で合格した。

 

 この試験に合格したものは、各地の司教座教会の司教職につくのが一般的であったが、カソリカはその道を拒み、僧院に戻った。

 その後、22にして僧院も去り、ヴァチカヌスの大聖堂教会で神学理論の研究に打ち込む。

 大聖堂教会の特別研究席は、当時においては神学研究の権威職であり、大変名誉なことであった。

 

 カソリカ・ウィチタの神学理論は当時から一貫しており、深いストラ学の理解に立脚した、真摯な理論構築に特徴があった。

 しかし、学者としての名声は得たものの、その宗教的にストイックな主張は修道議会からは嫌われ、一般に広まることはなかった。

 だが、大聖堂教会内では活発な議論が行われており、カソリカの主張は着々と賛同者を増やしていた。

 

 そして27歳のころ、カソリカは新たな研究対象を見つける。

 その研究とは、イイススの聖なる体が今も横たわっていると考えられる、聖なる洞窟の位置の同定であった。

 

 イイスス教の聖典は二十四編からなり、うち六編はイイススその人の著作とされる。

 だが、それに含まれなかった、外典とよばれる資料は山ほどあり、カソリカは熱心にそれを読みふけり、真贋定かやらぬと言われるものまで丁寧に研究し、かなり地域を絞ることに成功した。

 研究結果を携え、当時はまだ外交関係が悪化していなかったクルルアーン竜帝国へ旅だったのは、30歳の時であった。

 

 カソリカは五ヶ月間の熱心なフィールドワークの末、ついに聖窟(ホーリ・ケイヴ)を発見した。

 

 その後、一躍名声を得たカソリカは、発掘団の団長として聖窟の発掘に携わった。

 細心の注意を払い、音を立てぬように壁を崩すと、その奥には石の寝台と麻のベッドがあり、その上にはイイススその人の聖体が横たわっていた。

 カソリカは一躍時の人となり、クスルクセス神衛帝国にカソリカ・ウィチタの名を知らぬ者はいなくなった。

 

 その後のカソリカ・ウィチタは、聖体をヴァチカヌスへ即時に運ぶことを提言するが、これは許されずに終わる。

 その提言が修道議会に知れると、カソリカは即時に任を解かれ、ヴァチカヌスに戻された。

 彼は一言の反論もなく、粛々とそれに従ったという。

 

 聖窟を発見して以来の彼は、信仰に徹するというより、むしろ戦争を回避するために行動した。

 そのため、カソリカ・ウィチタは、後世ではしばしば「聖体を見た時に信仰を失ったのだ」と言われる。

 聖体発見以降の彼の姿勢は、確かに聖職的でなく、むしろ学者的であり、理屈めいていた。

 聖体の即時移動を提言したのも、移動させないのならば当然に戦争は起こるのだから、そんな馬鹿らしいことはない、と思っていたのかもしれない。

 

 情勢が混乱する中で、カソリカは口をつぐみ、大聖堂教会へ戻ると、再び神学理論の研究に没頭した。

 その間にも自分の発見が引き金になった戦争は悪化の一途をたどる。

 大聖堂教会が改装に入ると、彼はヴァチカヌスの郊外に位置する古巣のラルゴランコ僧院に移った。

 戦争が終わり、クラニセス五世の暴走を蚊帳の外から眺めながら、カソリカは世捨て人のように研究に没頭していたという。

 

 十二師団の叛乱のあと、初代教皇になった聖寝神殿の侍従長は、カソリカの思想の信奉者の一人であった。

 彼はクラニセス五世及び、修道議会の古びた教えを払拭する意味で、教皇領にカソリカという名前を付け、カソリカ派という新しい言葉を作った。


 それまでは、カソリカ派という宗派は、あえていえば聖寝神殿の中だけにあやふやに存在するものであったが、ここに来て表舞台に現れることになる。

 カソリカは、その時60歳の誕生日を迎えようとしていた。

 

 彼は、そのころ体力の衰えとともに、精神を病みはじめていたらしい。

 聖窟(ホーリ・ケイヴ)の発見は、二国の運命と同時に、発見者の精神も壊した。


 彼は、クルクス戦役の悲惨を引き起こした遠因となってしまったことで、長い間良心の呵責に苦しみ、晩年には聖窟の発見は宗教史上に残る大汚点と考えるようになっていた。

 聖窟発見の立役者のように扱われることを何よりも嫌い、最晩年には自らを聖職者と名乗ることもなくなり、他人に聖職者と呼ばれると、頑なにそれを否定した。

 

 だが、教皇領宣言の後、カソリカはヴァチカヌスへ呼び戻された。

 カソリカは、聖窟の発見から始まった一連の騒動の責任は自分にあると考えていたのだが、周囲はそうは考えていなかった。

 聖窟を発見したのはカソリカであっても、実際の発掘を指示したのはクラニセス五世であったのだから、周囲の反応は当然であろう。

 

 カソリカは、あらゆる官職を拒んだので、結局はヴァチカヌスに新設されたカソリカ神学院という学院の初代学長になった。

 だが、その教員生活も長くは続かず、就任から二年、62歳で亡くなった。

 

 カソリカ教皇領は、そのようにしてカソリカ派イイスス教を国教として成立した。

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