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黄金の夜明け前~畏歴二千年前史~ 上  作者: ノウェル・ウィチタ
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クスルクセス神衛帝国

 クスルクセス神衛帝国は、古代に存在した超大国である。

 しかし畏歴1035年に滅び、2000年時点では存在すらしていなかった。

 

 この国家は、畏歴54年に建市されたヨハプルトキに続き、歴史上二番目のイイスス教国家である。

 210年にクスル半島全域を掌握して以降、クスルクセス神衛帝国を名乗り、以来800年の歴史を数えた。

 その終焉の理由は、ながらく最後の神聖皇帝クラニセス五世の狂気によるものと考えられてきたが、研究の進歩によって、近年ではその認識は改められてきている。

 

 クスルクセス神衛帝国では、700年の修道議会制の導入以来、ゆっくりと政治への聖職者の参入が進んでいた。

 修道議会は、神聖皇帝の助言機関として設立された、有力聖職者たちの議会である。

 

 これは、初期においては単なる聖職の助言機関であり、宗教的見地から見た助言を皇帝に提供する機能を持っていた。

 設立の端緒となったのは、設立前年に起きた南部大陸での挺身騎士団員の虐殺事件であったらしい。

 これは虐殺された住民側にも非があったようで、その市は白旗を振って城門を開け、挺身騎士団が近づいたのちに城門を締め、近づいた騎士団に矢を放ち、改めて抵抗を再開した。

 虐殺はその報復として行われたので、当時の感覚からいえば、挺身騎士団に全ての非があるとはいえなかった。

 

 時の神聖皇帝ヨハプルニキは善悪定かならぬこの事案について、高名な聖職に意見を求めるべく修道議会を設立した。

 以来100年の間、修道議会は助言機関として任を全うしてきた。

 だが、その後は少しづつ権利が与えられるようになり、単なる助言機関の枠を超え、政治権力を手に入れはじめた。

 

 畏歴1008年、カソリカ・ウィチタが聖窟(ホーリ・ケイヴ)を発見したことが、一般的にはクスルクセス神衛帝国崩壊の始まりとされている。

 聖窟(ホーリ・ケイヴ)とは、イイススその人が眠りについた場所である。

 

 聖典には、

 

「主は麻布でできたベッドに横たわり、弟子たちに入り口を塞ぐように言った。弟子たちは主が眠りにつくまで側にいることを求め、主はそれを許した。主が寝息をたてはじめると、弟子たちは眠りを妨げぬよう、注意して入り口を封じた。音を立てずにレンガを積み、練り石を塗って隙間を埋めた。弟子たちは頬を涙で濡らしながら仕事をした。涙が雫となり地面をうつ音だけがしていた」

 

 という文言があり、カソリカが発見した当初、聖窟はその表現の通り、レンガと練石で入り口が固められていた。

 そのレンガはあまり上手に積まれているとは言えなかったが、確実に入り口を塞いでおり、また壁表面は風化していて、景色と完全に混ざり合っていたという。

(イイススの十高弟には石積み職人や左官屋はいなかったので、石積みが下手であることは、そこが聖窟であることを裏付ける要素の一つであった)

 

 イイススが身を隠した聖窟は、高弟たちが入り口を塞いで以来、全員が死ぬまで口を閉ざしたままだったので、所在地不明の状態が続いていた。

 

 カソリカ・ウィチタは幅広い外典を読み解き、長年の研究で少しづつ情報を集めると、五ヶ月に渡るフィールドワークの末に、その地を発見した。

 彼が発見したとき、聖窟(ホーリ・ケイヴ)は未だ閉ざされており、下手なレンガ積みで出来た石壁は表面が風化し、完全に風景と同化していた。

 

 彼はすぐさま王都ヴァチカヌスへ帰還すると、発見についてクラニセス五世に報告した。

 聖窟は、その時点では開かれていなかったので、本当に聖窟なのかは疑問が残っていた。

 当地で人夫を雇って壁を崩せば確かめられたのだが、カソリカはそれはせず、聖窟を開けぬまま帝都に帰った。

 

 カソリカが聖窟を開けずに帰ったのは、宗教的見地から言えば、イイススは未だに中で生きていると考えられたからであった。

 中を開けば、その喧騒で飛び起きたイイススが聖窟の奥から出てくるかもしれない。

 イイススの眠りを妨げ、覚醒させることは、どう考えても教理に反することであったので、それはできなかった。

 また、当地はクルルアーン竜帝国の領土内にあり、人夫を雇えば竜帝国に聖窟の所在を掴まれるかもしれず、その観点から言っても危険であった。

 

 つまり、聖窟の発掘においては、それが真贋定かやらぬとはいえ、高度な政治的・宗教的判断が必要であり、カソリカは神聖皇帝に指示を仰がねばならない。と考えたのである。

 クラニセス五世は、報告を受けると、すぐさま発掘を命令した。

 

 それをきっかけにし、1012年にはクルルアーン竜帝国と戦争が起こる。

 このクルクス戦役の前夜では、まともな外交交渉が成り立っていなかった。

 修道議会の横槍により、柔軟性のある外交交渉が行えず、そのまま戦争に突入してしまったのであった。

 

 実際に戦う挺身騎士団にとっては、たまったものではなかった。

 もちろん、彼らは戦争をしろと言われれば否とは言わなかった。

 どれほど強大な敵であろうと、信仰のために戦えと言われれば、喜んで己の命を捧げる彼らであった。

 だが、彼らは1006年に第三次北方布教戦争を(おこな)ったばかりだった。

 

 この戦争では、挺身騎士団は各地の鎮護兵を除き、ほぼ全軍を動員してシャンティラ大皇国を攻めた。

 しかし、その結果は惨敗であった。

 ホレイショ会戦と呼ばれた戦いで、彼らは大皇国軍と対峙したのだが、最初に起きた騎兵戦で機動力に勝る鳥騎兵に陽動されてしまい、騎兵を包囲殲滅されてしまう。

 機動戦力を失ってしまった挺身騎士団は、やはりこちらも包囲され、命からがら逃げ延びてきたのは、十万人中わずか一万人であった。

 捕虜となった三万人は、賠償金と引き換えに帰ってきたものの、挺身騎士団は装備と兵、そして予算を大幅に失ってしまい、それはわずか五年程度で補充できる規模の損失ではなかった。

 

 彼らにしてみれば、戦うのはいいが、もう少し後にしてくれ。と言いたいところであっただろう。

 クスルクセス神衛帝国にとっては、当時まだ出来たばかりのクルルアーン竜帝国は、言ってみれば格下の相手であった。

 しかし、一代で帝国を築いたアナンタ一世は、当時もう高齢ではあったものの、間違いなく天性の戦上手であったので、侮れない相手であった。

 

 実際、聖窟周辺に作った光輪(ヘイロウ)市という要塞都市に篭った挺身騎士団は、苦戦を余儀なくされた。

 劣勢は覆せず、最終的には撤退しか方法がなくなる。

 外交感情の悪化から、聖体を現地に放置したままの撤退は選択肢に入らず、聖体は聖窟から運び出すこととなった。

 

 聖体を騒音に晒すことは、イイスス教においては耐え難い背信行為であり、神衛帝国としてはどうしてもやりたくなかった。

 運搬するということは、その過程でどうしても騒音や振動に晒されるということである。

 声や靴の音は当然抑えるにしても、波の音や、風が帆をうつ音、船の揺れなどは、当時の技術では消しようがなかった。

 

 恐縮遷体と呼ばれる事業によって、イイススの聖体はヴァチカヌスへ運ばれた。

 この事業は、クスルクセス神衛帝国にとってはまさに屈辱であった。


 遷体に携わったものたちは、いつイイススが起き上がりはしないかと怯えながら従事し、聖体を船に積みこむと、無音のまま出港した。

 帝都ヴァチカヌスでは、大聖堂教会にて聖職者たちが集まり、嵐避けの祈りを昼夜問わず捧げ続けた。

 

 イイススの聖体がヴァチカヌスに運ばれ、大聖堂教会が聖寝神殿と名を変えると、一応の平和が訪れた。

 クスルクセス神衛帝国は紛争の余波で現在のクルルアーン半島を失っていたが、これは大した問題ではなかった。

 恐縮遷体という大事業に成功し、イイススの聖体を聖寝神殿の大聖寝室に横たわらせても、クラニセス五世の憤りは冷めなかった。

 

 彼は大聖堂神殿の内装の充実に予算を大きく割きながら、修道議会と協議した。

 (大聖堂神殿の全床にコルクを張ったため、コルクの市価が十七倍に跳ね上がった記録が残っている)

 協議の結果、敗戦の責任は一重に信仰の不十分にあるということになり、軍人、市民、貴族を問わず内省を徹底させることで、皇帝と修道議会の意見は一致した。

 

 現代において、一般的に狂信的改心運動(ファナティミション)と呼ばれている一連の改革は、あまりにも極端なものであり、人々に多大な理不尽を強いた。

 国家の事務を担う官僚たちは、強制される信仰のために時間を割かれ、まともに仕事ができなくなり、官僚組織は麻痺した。

 軍人や貴族も改革から逃れられず、彼らは官位の重さに応じた信仰心を求められ、難しい聖職の試験を通過することを課せられた。

 その勉強のために時間を取られ、通過のできぬ者は容赦なく貴族位や官職を失った。

 

 商人たちは利益を教会に寄進することを実質的に強制された。

 一般的な市民や農民であっても、毎日の教会通いを強いられ、それをしない者は鞭打ちの刑に処された。

 人々は、信仰心よりむしろ恐怖心を背に教会に通うようになった。

 

 むろんのこと、そのような無理が長続きするわけがなく、税収が少なくなり、国家機能が麻痺し始めるとともに、全国で叛乱や暴動が頻発するようになる。

 属州フリューシャにおけるカルルギニョンの叛乱から始まり、属州ティレルメと属州ペニンスラが実質的に離反すると、クスルクセス神衛帝国は空中分解の様相を呈した。

 

 1033年、クラニセス五世は国土白化令(ピュアティミション)を発令する。

 この政令は、実質的な市民虐殺指令であり、その執行機関として白化団が組織された。

 白化団は修道議会の主導により組織された部隊であり、三歳以下の年齢から修道院で暮らした、俗世を知らぬ修道士のみで組織された。

 白化団には絶対的な審問権と執行権が付与され、皇帝と聖職以外には実質的に何をしても良かった。

 

 閉じられた世界でしか生きてこなかった修道士たちは、白化団に加わると、一片の慈悲もない審判者と化し、信仰に疑いが見られる(と彼らに思われた)人々を合法的に殺戮して回った。

 

 1034年、とある冬の日、挺身第十二師団が聖都ヴァチカヌスにて蜂起する。

 当日、ヴァチカヌスを守護するのは第十二師団だけであった。

 

 師団長レオストロ・テレンスタールは、共謀の末に師団員の大半を叫号し、従わぬと思われた師団員を当日朝に拘束、監禁した。

 彼らは完全武装で兵舎から出発すると、修道議会員の住む屋敷を強襲、議会の構成員全員を殺害する。

 次に白化団の本部へ行くと、目につく者たち全員を皆殺しにした。


 白化団は、武器を持たぬ市民には強かったが、厳しい訓練を耐えてきたわけでも、体力を基準に選抜されたわけでもなかった。

 日夜鍛えた強壮な体を持ち、武器の扱いに習熟した挺身騎士団員にとっては、赤子の手をひねるようなものであっただろう。

 

 そして王城に登ると、彼らは神聖皇帝クラニセス五世を弑逆した。

 当時、クラニセス五世は挺身騎士団を信頼しておらず、王城の守護は白化団に任されていたため、制圧は容易であった。

 

 最後に、彼らは白化団の残党が立てこもる聖寝神殿へ向かい、音の出る鎧を脱ぎ、剣戟の音を立てぬために剣も捨てた。

 そして、徒手空拳にて武装した白化団に立ち向かい、全員を殴殺した。

 レオストロ・テレンスタールは、聖寝神殿の前で副官に斬首を命じ、自らの命を絶たせた。

 

 その日、クスルクセス神衛帝国は終焉し、翌日には聖寝神殿の初代侍従長(実質的な神殿長)が担ぎあげられ、政務を司ることになる。

 一年後、教皇領宣言が発せられると、教皇領が成立した。

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