ティレルメ神帝国
ティレルメ神帝国は、諸侯のしたたかさで知られた国である。
この地域は、クスルクセス神衛帝国がやってくる以前は、蛮域と呼ばれていた。
シャムトナ戦争後、シャンティラ大皇国から侵略的性格が失われることがなければ、この地域は永らえていなかっただろう。と考える研究者は多い。
宗教的には、南方のフリューシャ地域の多神教に影響を受けた、森を恐れる信仰が存在していた。
特に狼を特別視し、人狼という一種の怪物を信じていたようで、現在にもその影響を見ることが出来る。
人狼とは、狼にとりつかれた人間であり、狼に咬傷をつけられると、半人半狼の怪物と化すという内容である。
そのため、精神障害者や無闇矢鱈に乱暴を働く人間は、人狼になりつつあるとして、しばしば裁判的手続きなしに処刑された。
国家的には、長らく統一国家がなく、クスルクセス神衛帝国以前は、とりとめなく部族が乱立していた。
だが、決して閉鎖的ではなく、そこにいた族長たちは、旅人などからよく情報を集めていたらしい。
彼らは、南にあるフリューシャ地域が攻め落とされ、そこにあった国家が軒並み倒れ、布教が始まるのをじっと見ていた。
そして、布教が概ね終わり、布教や統治が安定すると、自分たちの番が回ってきたことを鋭敏に察した。
彼らは、フリューシャ地域にあった王国が叩き潰され、王が吊るされたことを知っていた。
同じように吊るされるつもりはさらさらなかった。
そして、クスルクセス神衛帝国が、イイスス教を拒んだり侮辱したりする者には厳しくても、それ以外には意外と寛容な国家であることも知っていた。
フリューシャ地域では、戦争が終わったあとは、大規模な投資や治水施設の整備などが惜しみなく行われ、復興は迅速で民衆の暮らしは以前よりむしろ良くなっていたほどであった。
ティレルメ地方の諸侯らは、次々にクスルクセス神衛帝国に使者を送ると、自らへりくだって宣教師を送ってもらった。
そして、数年を経て教理を学ぶと、自ら従属を申し出て、正式に神衛帝国の地方領主となった。
その後のクスルクセス神衛帝国の統治はおおむね鷹揚なもので、進んだ技術指導やインフラ整備も惜しみなく行われ、この地域の生活水準はどんどん向上していった。
だが、そのような1012年、カルカソ戦役を端緒とし、そのような暮らしぶりは終わった。
時の神聖皇帝クラニセス五世は、この戦役以降、民衆・諸侯に宗教的義務を次々に課しはじめた。
だが、属州ティレルメの諸侯たちは、そのような無茶な義務に応じるつもりはさらさらなかった。
彼らは属州ティレルメを総督する高齢の大司教を毒殺すると、次の大司教を自ら指名する。
これが受け入れられると、大司教に多額の賄賂を渡し、義務とされた聖職の試験を金で通過することに成功した。
属州ティレルメは、聖都ヴァチカヌスからしてみれば辺境であったため、そのような無茶も大方成り立った。
しかし、それは諸侯の話であり、民衆レベルでは誤魔化しも聞かず、やはり歪んだ狂信的改心運動の波は暗い闇をもたらしはじめた。
1032年、カルルギニョン帝国が誕生すると、さっそくカルルギ派に鞍替えし、賄賂を渡していた大司教を暗殺。
クスルクセス神衛帝国と決別する。
当時クスルクセス神衛帝国の没落は決定的であり、もし再興が成ったとしても、反攻と再支配の際にはカルルギニョン帝国が先に攻められ、言わば盾になるだろう。という見通しがあったと見られる。
現実には反攻も再支配もなく、クスルクセス神衛帝国は、そのまま歴史から姿を消した。
そして、ティレルメ地方の諸侯は、誰からも支配されないただの諸侯に戻った。
誰も王を名乗りはしなかったが、この地域は公国や伯国、侯国が乱立する地帯となった。
だがその後、1035年の教皇領宣言があり、カソリカ派の宗教改革が進むと、息苦しいほどに先鋭的であった教理が軟化し、再び人々に受け入れられ始める。
ペニンスラ王国などでも北部ではカルルギ派が台頭していたが、教理の軟化が進むと、すみやかに駆逐された。
そのような背景があり、カルルギ派が少数派になったと見て取った諸侯は、改めてカソリカ派に鞍替えし、カルルギ派の聖職者の弾圧を始め、民にも改派を強いた。
カルルギ派の総本山であったカルルギニョン帝国にとっては、これは看過できるものではなく、1098年にカルルギ派の聖職者の国外追放令が出、信徒への迫害が本格化されると、諸侯らに宣戦布告がなされる。
1101年に起きたカルティレ戦役である。
ティレルメ地方の諸侯は、仲間意識はなかったが同属意識は明らかにあった。
この戦役では、早期から会議が開かれ、個別の侯国や伯国といった小国単位で立ち向かっても勝ち目はなく、各個撃破の末に全地域が制圧されるのは明らかであるから、まとまって対応にあたろう。という方針が速やかに決定された。
彼らは、国力や情勢からいって、カルルギニョン帝国がティレルメ地方に向けられる兵力は僅かであるから、分の悪い戦争ではないと思っていたらしい。
だが、彼らは敗けた。
数で上回っていても敗け、有利な地形でも敗けた。
彼ら諸侯は、長すぎる期間、戦争をした経験がなかったのである。
クスルクセス神衛帝国が兵を求めるときは、それは兵を求めたのであって、将を求めたわけではなかった。
兵を率いる将軍は、これは神衛帝国の挺身騎士団にはいくらでも優秀な将軍がいたので、わざわざ世襲の無能な貴族に兵を率いさせる必要はなかった。
なので、彼ら諸侯にとっての戦争とは、送られてきた代官に求められるまま民に兵役を課し、集めた兵を手を降って送り出すことだったのである。
あとは挺身騎士団の将軍が勝手に訓練をし、戦争をした。
独立の際も、属州ティレルメに駐屯していた挺身騎士団は、カルルギニョン独立の際の攻防戦に出払ってしまっていたので、戦う機会がなかった。
対して、カルルギニョン帝国軍は、その挺身騎士団と激しい戦いをくりひろげ、ついには独立を勝ち取った強者どもの軍である。
実戦経験も豊富であり、実戦志向の彼らは練度も高かった。
結局、諸侯連合軍は、カルティレ戦役の全局面において、ただの一度も勝利を得られず、全ての戦闘で敗けた。
だが、それでも戦争には勝った。
いよいよ背筋に寒気を感じてきた彼らは、教皇領に助けを求めたのであった。
こちらもまたティレルメ諸侯に有利と楽観していた教皇領であったが、助けを求められればすぐに参戦した。
ペニンスラ王国も抱き込んでの戦争であったため、カルルギニョン帝国は突如として三正面作戦に耐えなければならなくなった。
カルルギニョン帝国は、さすがに軍団をティレルメ地方の奥地に置いたままでは防衛はできぬと、一人の将軍と少しの軍を遅滞戦闘のために残すと、あとは水が引けるようにティレルメ地方をあとにした。
さして苦労もなく得た地域であったので、捨てる時もあまりこだわりはなかったらしい。
教皇領が参加してからのこの戦争をカルカソ戦争といい、これは数をかぞえて五回まで続けられることとなる。
第一次カルカソ戦争の終結したあと、ティレルメ地方の諸侯たちは、深い恐怖と切実な危機感を感じた。
教皇領とペニンスラ王国が兵を出さなければ、本格的に自分たちは滅ぼされていた。と感じたのである。
そして、軍を強化するために会議を繰り返した。
その結果、やはり諸侯が各々小国を作り、バラバラでいてはどうしようもない。という結論に至った。
ここにきて、彼らはひとつの旗のもとに集い、一つの国を作ろうと考えた。
実際には、各々が別個に軍事に注力しはじめれば、必ず弱い国と強い国が現れるので、結果内戦に繋がることを恐れてのことだったらしい。
ひとつの旗のもとに集うといっても、諸侯の間には突出して力を持った勢力はなかった。
あったとしても、誰かが王となって皆を従える。という構図には、彼らは賛成できなかっただろう。
結局、彼らは他のところから王を連れてくることにした。
他の、というのは、カソリカ教皇領であった。
後に王となる彼は、クスル半島の先端のあたりの漁村で、漁師をやっていた。
レオン・サクラメンタというその男は、クスルクセス神衛帝国の神聖皇帝その人の曾孫であった。
神聖皇帝の家系の人間は、神聖皇帝クラニセス五世が弑逆されたあとは、特別に罪を得ることもなく、野に放たれていた。
クラニセス五世の暴虐とは、信仰を徹底させることであり、再編された教皇領においても、それは罪とは呼べないものであったからである。
公的には神聖皇帝を弑逆したのちに自決した師団長に罪がきせられ、神聖皇帝の子どもたちは処刑されることはなかった。
といっても、神衛帝国なきあと教皇領を作った人々は、彼ら血族に王朝を再興させるつもりはなかった。
求められれば修道院にいれ、生活の保護はしたが、教皇領の要職につくことはなく、一種の公職追放のような扱いになった。
レオンの祖父は、妻と息子を連れてヴァチカヌスを離れると、持ちだしたいくつかの財宝を売り、南方の漁村で隠棲し、ついに生涯を終えた。
レオンの父は、そのころまだ若かったので、平民と一緒に網を取って働いた。
後には村長となり、晩年には網元と村長職を兼任していたらしい。
レオンはその漁村で生まれ育ち、大人になると当然のように網を取り、父が死ぬと村長職も継いだ。
諸侯らがレオンに声をかけたのは、他に適任者がいなかったからであった。
レオンと同じような境遇の神聖皇帝の子孫は何人かいたが、ほかは皆聖職者になっていた。
皇室の贅沢な暮らしから離れたとき、庶民の地域に住み着き、地に足がついた生業を得、泥臭い生活をすることに適応できたのは、レオンの父だけだったのである。
レオンはそのころ、三十歳を超えており、退屈な田舎の生活に飽きていたところだった。
まさに渡りに船と、諸侯らの話に乗った。
諸侯らはレオンを連れてくると、首都と称された小都市を彼に与え、家庭教師を付け、最低限の教養を身につけさせた。
そして二年後、神衛帝国の後継として神聖帝を名乗らせ、国号をティレルメ神帝国とした。
といっても、彼らは旗頭が欲しかっただけで、元よりへりくだるつもりもなければ広大な領地を与えるつもりもなかった。
また、諸侯の意に反する者が王になっては困るので、帝は代替わりの際は選帝侯と呼ばれる特定の大諸侯に選ばれる仕組みになっていた。
レオンは首都という名が冠された小都市で、多少の贅沢をしながら、諸侯から少しづつ貸し出された国軍の最高指導者として、退屈な暮らしをしていた。
指導者といっても、彼には軍事的な教養はなかったので、高い給料で他国から連れてきた軍人に調練を任せ、自分はたまに軍服を着て馬に乗り、訓練中の兵を励まして回るだけであった。
そんな彼に転機が訪れたのは、彼が神聖帝になってから三年後だった。
時の教皇であったハンナバル二世が、唐突に北方十字軍の再開を宣言したのである。
当然、教皇はティレルメ神帝国にも参加を求めた。
ティレルメ神帝国からしてみれば、カルティレ戦役の際に助けてもらったばかりであるし、なにより神衛帝国の後継を自認し、神帝国を名乗ったのはつい先ごろのことであった。
いくら弁が達者な彼らであっても、参加を断る方法はなかったらしい。
このとき、大方の予想では、この遠征は大敗に終わるだろう。と思われていたし、諸侯もそう考えていた。
イイスス教の領域は、クスルクセス神衛帝国の崩壊とカルルギ派の分派により、その軍事力は過去に比べて大幅に劣っているものと考えられていたからであった。
それは当時としては正確な分析であった。
特にティレルメ神帝国の諸侯は、クスルクセス神衛帝国の三回に及んだ北方遠征を送り出しており、精強で知られた無敵の挺身騎士団が惨敗して帰ってくるのを、一番近くで見ていた。
挺身騎士団は、その名の通り神のために身を挺する者達の集まりであり、東方産の逞しい馬を駆り、敵陣に突っ込めば馬とともに暴れ回り、馬から落ちれば全身から血が抜けきるまで戦うのをやめない。
そんな彼らをもってしても、全ての戦闘で惨敗するほどに、大皇国軍は強かった。
その戦争は、もちろんこの時当主だった諸侯らが直接見ていたわけではないが、第三回北方十字軍は彼らにとって曽祖父代の話であり、まだまだ忘れ去られるほど昔の話ではなかった。
そのような大国に宣戦布告をして出征するということは、通常であれば国を滅ぼすほどのリスクを負わなければいけないことだが、シャン人の支配するシャンティラ大皇国に限っては、そのリスクはなかった。
代々女性が皇帝を務めるという不思議な国は、何故か侵攻をされても、自領土で迎え撃つのみで、もちろん激しく迎え撃ち熱心に追撃はするが、決して国境を超えては来なかったのである。
なので、彼らにとっては、この遠征で負けるということは、兵を失うだけのことで、撃退されたあと余勢をかって国境を侵されるという心配はしなくてもよかった。
とはいえ、当時のカルルギニョン帝国は、領土を多少削られたとはいえ、まだまだ健在であり、北方を攻めるということは、後背に敵性国家を放置していくこととなる。
しかし教皇は、カルルギニョン帝国は第一次カソリカ戦争で国土を削られ、兵も消耗しつくしているので、まだまだ脅威ではないと釈明した。
これは事実とは反する嘘であり、教皇領に現存している資料を読み解けば、教皇領は当時カルルギニョン帝国の軍事再編を把握していた。
つまり、ハンナバル二世の第一次十字軍は、これは純軍事的に見れば純然たる無駄であり、子犬が獅子に襲いかかるような自殺行為であった。
だが、この十字軍は完全な成功をおさめることとなる。
同じ1111年に、一代で大帝国を作った戦争の天才、カンジャル・ハンが、東方からシャンティラ大皇国を攻めていたのであった。
これは綿密な計画のもとに行われた空前絶後の大戦争であり、これは畏歴二千年までに行われた戦争のなかで、最も動員数の多い戦争であった。
数年がかりで兵站を準備し、一地域に二十万以上という大軍勢を集めたカンジャル・ハンは、その軍勢を一気に叩きつけ、大皇国軍を瓦解させた。
第一次十字軍は、僥倖と呼ぶほかない幸運によって、大成功を収めた。
レオン・サクラメンタもこの時に大いに活躍した。
ティレルメ神帝国は領土を大きく広げ、シャン人の奴隷を大量に確保することになる。
その広がったぶんの領土と、奴隷については、すべてがレオンのものになった。
カンジャルの思惑など知る由もない諸侯らは、どうせ十字軍など成功するはずがないと、そういう約束をしてしまっていたのだった。
ティレルメ神帝国では、その後も十字軍が行われるたびに神聖帝領が増え続けた。
しかし、なお諸侯の勢力は強く、当初の選帝侯の仕組みもまだ生きている状態にあった。