ガリラヤ連合
ガリラヤ連合は、イイスス都市国家地帯の最初期、主に第一次十字軍で奪った地域で産まれた都市国家連合である。
ガリラヤ連合は、一般的にはシャンティラ大皇国の首都、シャンティニオンを改称したガリラヤニンの代官が興したとされている。
当時、ガリラヤニンはカソリカ教皇領の飛び地であり、イイスス都市国家地帯の経済的中心地であった。
ガリラヤニンは十字軍が行われるたびに、軍需物資の積み下ろしをし、また戦争が終われば収奪物やシャン人奴隷を南方に送った。
十字軍がガリラヤニンにもたらした富は凄まじく、回次によっては教皇領の国家予算の四割がガリラヤニンから出たこともあった。
だが、1111年の第一次十字軍から三百年以上の時が経つと、ガリラヤニンを始めとする最初期の都市国家群の意識は変わり始めていた。
その時には、市民の半分以上が祖父代から母国と切り離され、母国をまったく知らないし、帰属意識も母国にはない。という都市が増えていたのである。
ガリラヤニンは貿易都市であったため、人の入れ替わりが激しく、その意味での問題は少なかったのだが、違った観点からの不満は他市以上に噴出していた。
収税した税金の大部分が教皇領に持っていかれる構造になっていたため、商売人の多いガリラヤニンでは、やはり母国への不満を持つものが多かったのである。
そのような背景があったが、やはり都市国家が母国に離反するということは、1111年以来起きていなかった。
もし離反したとしても、次は周りじゅうの国家から攻められ、また違う属国都市国家になるだけで、それは損をするだけであった。
だが、叛乱の契機となる出来事が起きる。
畏歴1507年に勃発した第一次ペニンスラ戦争である。
第一次ペニンスラ戦争では、ペニンスラ王国とそれ以外のカソリカ派連合国軍が戦った。
これは1035年の教皇領宣言以降、多少のいざこざや極小規模の諸侯単位での紛争があった以外は、概ね一致団結してきたカソリカ派諸国にとって、初めての大規模な同胞同士の戦争であった。
ペニンスラ王国は、第二次以降はあまり十字軍に熱心でなかったが、第一次十字軍については、当時は純粋に宗教的な意味を帯びた遠征であったため、熱心に戦った。
よって、最初期に組み入れられた南部にはペニンスラ王国の属国都市国家はたくさんあり、範囲も広かった。
もちろん、母国同士で戦争が始まれば、都市国家の代官にも手紙が届き、都市を攻めよという指示が下ってくる。
戦争を行わないわけにはいかず、ガリラヤニンをはじめとする都市国家群は、遥か南の地で起きた戦争のせいで、北の地で血みどろの戦争をすることになった。
「向こうのブランコで子どもが遊んでいる とばした靴が アセスナをうった」(アセスナはペニンスラ王国の代表的な属国都市国家であった)
という大衆歌から、ブランコ戦争と呼ばれた小規模な代理戦争は、ペニンスラ王国の属国都市国家が全周囲からめった打ちにされるという形になり、籠城戦としては大方の予想よりも善戦はしたものの、短期間のうちに終結した。
しかし、後を追うように第一次ペニンスラ戦争が終わってみると、母国の指示により都市国家の全てはペニンスラ王国に返還された。
教皇が擁したペニンスラ王の弟が新しく王になったためであり、悪王を交代させて戦費を賠償金で補てんした以上は、領土を望むものではない。ということになったのである。
この出来事に、各都市はやるせない不快感を抱いた。
本国の都合で戦争をさせられ、終わってみれば戦争自体が無かったことのように、返還を求められたのである。
ガリラヤニン総督であったヨハンセム・ハトランが、後におおやけになる第一回の秘密会議を開いたのは、1534年のことであった。
ハトラン家はガリラヤニンの名家であり、周辺の都市国家と血縁関係を結び、ヨハンセムの妹の一人はアセスナに嫁いでいた。
ヨハンセムが叛乱を決意したのは、その妹の死が関係しているとも言われる。
だが、彼は動機を記した手記を残したり、他人に語ったりはしなかったので、実際の所は不明である。
独立宣言を発する1537年までに、秘密会議の回次は25回に及んだ。
1537年、ガリラヤニンを始めとした南部都市国家群は、唐突にガリラヤ連合の成立を宣言する。
ヨハンセムは慎重な男で、このときまで謀議が外に漏れたことはなかった。
彼は、代官の人となりを考え、都市によっては代官を密議に引き入れ、代官が本国に忠実な男であれば、市民代表者を引き入れた。
市民代表者による都市長の交代という、実質的なクーデターの様相を呈した都市国家は、全体の過半に登った。
当然、教皇領を始めとしたティレルメ帝国以外の本国は、怒り狂い、1538年、叛乱を討伐しようと軍を差し向ける。
しかし、いざ軍容を整え打って出ようという矢先、船でクルルス海峡を渡ろうとすると、クルルス海峡にはクルルアーン竜帝国の軍船が並んでいた。
ヨハンセムは、クルルアーン竜帝国に根回しを済ませており、この海峡を封鎖するという密約をとりつけていたのである。
当時のクルルアーンの皇帝にとっては、イイスス教国家の仲間割れは望むところであったらしい。
仕方なく船を戻し、陸路で行こうとした連合軍であったが、途中のティレルメ帝国領でまたしても難に遭う。
行く先々の街道が荒らされており、林間の道となれば必ず倒木と岩が行く手を阻んだ。
これもまた、根回しが済んでいた。
結局、この討伐軍は実に一年の間、右往左往の放浪を続け、兵糧と軍費を使い果たすと、士気が低迷し、自然消滅するように散り散りになった。
ガリラヤ連合の存在はなし崩し的に認められることになった。
その後、主に金銭を持って都市国家を買い取ることで、ガリラヤ連合は拡大を続けている。