カンジャル大汗国
本書ではカンジャル大汗国と便宜上呼称しているが、畏歴2000年当時はカンジャル大汗国というものは存在しなかった。
正確に言えば、大汗を名乗るものたちが、2000年時点では4名はいた。
多い時では、最大6名いたこともある。
彼らは、その全員がカンジャル・カーンの子孫であり、カンジャル大汗国の正当な後継者として「大汗」を名乗っていた。
中には、家系図が相当怪しい者もいたが、少なくとも子孫を標榜していはいた。
カンジャル・カーン以降、この地は900年以上統一した王朝が登場せず、カンジャルの子孫たちが争いを続けてきた。
つまりはカンジャル大汗国を名乗る複数の少国家の群雄割拠地帯であったと言っていい。
もちろん、その中には百年以上の歴史を刻む小王朝も存在したが、ひとところに定住し、農耕に励むことを下等とする彼らの文化にあっては、国境などあってなきが如しであった。
国境は非常にめまぐるしく変わったため、専門の研究者であっても、当時の勢力図を明らかにすることは難しい。
なので、本書では便宜上カンジャル大汗国という名称で、まとめて扱っている。
カンジャルの子孫を名乗るカーンたちは、時には無から産まれたように興り、そして時には滅ぼされ、現れては消えていった。
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カンジャル・カーンは、カーンになる前はカンジャル・ローといった。
彼には、自らの人生を伝説で飾る趣味はなかったので、幼少期の伝説はない。
彼は自伝を書かなかったが、愛妾の一人であったフョータルの書いた手記が残っており、彼の幼少期を知るには良い資料となっている。
カンジャルは幼いころから乱暴者で、族長の長男という生まれでなければ、盗賊にでもなっていただろう、という人物であった。
その性格は、歳を経るごとに際立ち、残忍かつ狡猾になってゆく。
彼は8歳の頃から殺人を犯し、欲しいものは強盗で奪っていた。
この犯行は後世、フョータルと同じ臥所に入り寝物語に話したものであり、当時は露見していなかった。
12歳ごろになると、一族の若者と徒党を組み、組織的犯行に及んだ。
犯行内容は、主に強姦と強盗、あるいは殺人であり、それらは若者らしい鷹狩りなどの遊びのついでに行っていたらしい。
カンジャルは、仲間内では制裁制度を敷き、それらの犯行を徹底的に秘匿していたので、周囲の評判は上々であった。
つまりは、若者たちのリーダーということで一目置かれていたということになる。
20歳になり、父親が落馬で死ぬと、若くして族長になった。
以来、カンジャルは嵐の渦中のような激しい戦場に、常に身を置いた。
周辺の部族と戦ってはこれを吸収し、四年後には小さいながらも一つの国を作っていた。
彼が族長に就任したとき、真っ先に部下となったかつての悪童仲間は、四年間の激しい戦闘で全員が戦死していた。
カンジャルがカーンを名乗ったのは、この時である。
国名もカンジャル汗国と変更した。
だが、その頃はたった六つの族が合体しただけの、人口一万人に満たない、小さな国であった。
その後、彼の前半生は、同胞の騎馬民族を併合して回ることに費やされる。
およそ同じ暮らしをする同胞を全て統合し、カンジャル大汗国となったときには、彼は41歳になっていた。
もちろん、彼は同胞を配下にいれただけで、自らの覇道を終わらせるつもりはなかった。
彼はまず、西方に位置する、シャンティラ大皇国に目を向けた。
シャンティラ大皇国は、当時の世界ではもっとも富んだ国であり、カンジャルには肥え太った得物に見えたことであろう。
早速、彼は一万騎の兵を起こし、シャンティラ大皇国を襲う。
だが、この時の彼は、あっさりと敗れた。
彼の率いた騎兵は、全員が軽装に弓を備えた騎兵であった。
歩兵の中に自ら突っ込む重装騎兵と違い、重い槍や防具などは身につけず、持ったのは弓と矢、そして反りの入った剣程度のものである。
だが、軽装ゆえに彼らは常に戦場で一番疾く、誰にも捉えられることがなかった。
誰にも捉えられないということは、つまりは一方的に矢を浴びせかける状態が延々と続くということであり、これは当時の世界では無敵といってよかった。
疾いゆえに矢を当てることも難しく、流れ矢や落とし穴では数を減らせず、一方的に攻撃され、総崩れになったのをみると、切り込んでくる。
彼ら騎馬民族の戦法とは、そういったものだった。
一番手ごわいのは、同じ戦法を使う味方であり、他の連中はつまるところ雑兵にすぎない。
馬上で弓を扱って敵を射るという戦法は、非常に高度な専門技術を要するものである。
彼らにそれができたのは、それが日常の狩猟生活に直結した技術であるからだった。
国民が地を耕して生きる国家では、同じような軍隊が編成できるわけはなく、つまりは同胞を全て倒した以上は、もう敵はいない計算であった。
カンジャルが無警戒にシャンティラ大皇国に侵入した背景には、そのような事情があった。
つまりは、よほどの滅茶苦茶をして包囲されない限りは、いつでも逃げられるのだから、負ける道理がない。
彼は既に何十回もの戦を勝利に導いてきた練達の将であったので、そんな愚かな真似をするはずもなかった。
だが、彼は敗れた。
その原因は、鳥であった。
シャンティラ大皇国には、駆鳥という、地を蹴って走る鳥類が生息していたのである。
何故かシャン人以外には慣らせないこの鳥類は、非常に脚力が強く、馬より速かった。
馬に乗った軽装弓騎兵の強さの根幹は、つまりは戦場においてもっとも疾いという一点にあった。
だが、駆鳥に跨がり、槍一本を携えた駆鳥兵は、更に速かった。
常であれば颯爽と馬を駆り、戦場を堂々と走り回る弓騎兵たちは、次々と追いつかれ、串刺しにされていった。
この時、カンジャルは這々の体で逃げ帰り、一万騎のうち、無事に戻れたのはカンジャルを含む5騎のみだったという。
カンジャルは、六年後にもう一度大皇国に挑む。
いくつかの国を攻め、戦争奴隷を三万人引き連れ、騎兵も二万騎を集め、総勢五万の兵で攻めた。
しかし、これも惨敗に終わる。
その後、彼はシャンティラ大皇国については、先延ばしした。
そうして、東方や南方(今日でいう中東方面)に勢力を拡大し、クルルアーン竜帝国などと矛を交えた。
これらの戦いで、カンジャルは常に圧勝した。
駆鳥兵を持たぬ人々に対しては、やはりカンジャルの弓騎兵隊は圧倒的な強さを誇っていた。
野戦で叩き潰し、戦争奴隷に城塞を攻略させ、国を取るという方法を繰り返し、カンジャル大汗国は史上空前の大国家に成長した。
そうして、1111年、カンジャルは満を期して大軍を興した。
カンジャルはそのとき90歳を超えていたが、40年以上も昔の屈辱を、忘れることなく抱き続けていた。
このときカンジャルが用意した兵力は、騎兵十万騎、戦争奴隷十五万人。
戦争奴隷といっても、彼らには十分な武装が与えられ、粗末な服を着たまま駆りだされた者はいなかった。
カンジャルは、シャンティラ大皇国軍を叩き潰すために、二十五万の兵を用意したのである。
兵站の問題から、それほどの軍を一時的にしろ、一箇所に集めるというのは、当時の限界に近い大事業であった。
そして、ミナリの大会戦と呼ばれた一戦で、それまで無敗を誇ってきたシャンティラ大皇国軍は、ついに敗れた。
得意の包囲戦法も、自軍に倍する軍勢を前にして包囲を破られ、散り散りになった軍勢は各個に撃破されていった。
会戦に勝利すると、彼は「全てを奪え、犯せ、そして焼け」と言った。
軍団はその通りに行動し、カンジャルは村々を焼き、異人種を犯す兵たちを見て、満足そうに笑ったという。
そうして、勝利から半月後、カンジャル・カーンは死亡した。
齢92歳であった。
死に際して、側近の人々は、再三に渡りカンジャルに「遺書を残せ」「後継者を指名しろ」という内容の陳情を行っていたが、カンジャルはそれらを全て無視していた。
彼にとり、大汗の座とは、親から譲られるものではなく、自分で奪い取るものであった。
死後、歴史が自分をどう判ずるかなど、彼には心底どうでもよかった。
また、二十三名の息子の命運についても、一切興味がなかった。
末期の際までしつこく後継者の指名を迫られると、「もっとも強き者が後を継げ」とだけ言った。
そうして、彼はこの世を去った。
結局、カンジャルが興した二十五万の大軍は、会戦が終わった時は十三万に減じていたが、空中で分解するように解散され、帰国した。
カンジャルが死亡した以上、帰国して国葬を行わないわけにはいかず、また内乱が起こるのは必定であったからである。
その後、彼の二十三名の息子たちは、彼の遺言を忠実に実行するように、各々で弓を手に取り、内乱に身を投じた。
そうして、カンジャル大汗国は、その繁栄を燃え焦がすような激しい内乱に包まれた。




