ユーフォス連邦
ユーフォス連邦は、畏歴1803年に成立した、2000年前後においては若い国家であった。
ユーフォス連邦が成立した背景は、その土壌にある。
ユーフォス連邦の根拠地のある低地地帯は、古くから干拓によって可住地を増やしてきた地域であった。
干拓というのは、水深のあさい浅瀬地帯を、堤防で海と区切ることにより、海水の侵入を防ぎ、陸地化する技術である。
干拓地は、堤防の建造も一仕事であるが、堤防が完成したのちも、継続的な管理が欠かせない。
堤防はいつ切れるか解らず、また満潮時には堤防から海水がにじみ出ることもあり、その維持には努力が必要であった。
地理学的な事情から、住民らに独特な結束力が生まれたのは、ある意味当然のなりゆきであった。
ユーフォス連邦が独立宣言を発した1803年、西方世界は戦乱の渦中にあった。
南方はペニンスラ王国で始まった、第二次ペニンスラ戦争において、フリューシャ王国はペニンスラ王国に多大な援軍を出し、共同して戦争に当たっていた。
また、一方では教皇領とティレルメ神帝国が共同でクルルアーン竜帝国を攻めており、両戦線で行われた戦争を合わせて畏仔戦争と呼ぶが、この戦争は西方世界全土を巻き込んだ大規模な戦争であった。
ユーフォス連邦は、当初の計画で併呑を予定していた地域の大部分ががフリューシャ王国にかかり、多少の部分はティレルメ神帝国に帰属していた。
彼らは、現在の首都ユラニカの上流にあるユーフォスという都市で旗を揚げ、反旗を翻した。
都市としてのユーフォスは、今はもう存在しない都市である。
独立における戦乱の渦中で、一時フリューシャ王国に陥とされ、その際に奪還を恐れられ徹底的に焼かれた。
後に建設されたユラニカに役目を譲ってしまったため、復興はまともに行われず、今は遺構が残っているだけである。
ユーフォス連邦は、当初予定していた地域を切り取ると、次は大アルビオ島を攻め、大アルビオ島南部のフリューシャ領を併合した。
結局、外患と内患を同時に抱えたイイスス教軍勢は、なし崩し的にユーフォス連邦を認め、講和せざるを得なかった。