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黄金の夜明け前~畏歴二千年前史~ 上  作者: ノウェル・ウィチタ
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ペニンスラ王国

 ペニンスラ王国は、クスルクセス神衛帝国の崩壊後に建国された王国である。


 畏歴2000年当時を語るにおいては、そのときの領土は建国当時のものとは様変わりしていたことに留意する必要がある。

 建国当時、ペニンスラ王国はペニンスラ半島を拠点に、特定の支配者のなかった南部大陸領をいち早く吸収し、世界でも随一の大国家となっていた。


 ペニンスラ王国は、熱心なカソリカ派イイスス教国であったが、歴史上において、カルルギニョン帝国とは違った方向で教皇領と衝突した。


 ペニンスラ王国は、建国当初は非常に堅実な為政を行い、カルルギ派を受け入れつつ南部大陸領を攻伐した。

 そして、第一次カルルギニョン戦争が終結すると、第一次十字軍では熱心に兵を出した。

 第二次カルルギニョン戦争では、母国への帰路を塞がれはしたものの、ペニンスラ半島の付け根にある山岳地帯で敵を防ぎ、半島を守り通した。


 第一次十字軍において、ペニンスラ王国が熱心だったのは、それが純宗教的な行事だったからである。

 当時、ペニンスラ王国は熱心なカソリカ派イイスス教国であり、教皇領への忠誠も示さなければならなかった関係上、信仰の証として出兵するのに異論はなかった。


 だが、第二次以降、十字軍活動が収奪目的に変化すると、彼らは急速に十字軍に興味を失っていった。

 南方に位置するペニンスラ王国にとって、シャンティラ大皇国などは大きな国を二つ飛び越えた更に先にある国であり、地理的にあまりに離れすぎていた。

 それほどの遠隔地になると、寸土を得ても管理が難しく、実際に彼らは第一次十字軍で得た属国都市国家は幾つか持っていたものの、島流しや棄民、左遷の先としか使っていなかった。


 ただでさえ遠いのに、第二次以降の十字軍は、戦場がさらに北方へ遷移していく一方であった。

 端的に言えば、彼らは北方の地に領土を得ることに意味を見出せなかったのである。


 十字軍では、土地のほかにもシャン人奴隷の入手や略奪によって金銭を得ることが、重要な目的になっていた。

 しかし、その代わりに兵站にかかる費用は自国持ちであった。

 地理的に遠方にあるペニンスラ王国では、諸国と比べ遠征の費用は割増しになり、収奪によってそれを賄うのも難しかった。


 そのような事情があり、ペニンスラ王国は回次を重ねるに連れ、出兵数を縮小させていった。

 第七次十字軍においては、ついに211名の兵を出兵しただけで終わった。


 211名は軍団から募った義勇兵であり、このときは戦功会議も欠席している。

 義理で出兵しただけなので、土地はいらない。というわけであった。

 そのことは、教皇らにとっては不満の種であった。


 そんな折、1475年、ペニンスラ王国南部大陸領、サモネウム県において、エンターク竜王国の侵攻が始まる。

 後世、サモネウム戦争と呼ばれたこの戦争は、最初から仕組まれた戦争であった。


 エンターク竜王国は、1474年、つまり戦争の前年にクルルアーン竜帝国の南部に、国王となるエスラターカが独立建国した国である。

 その領土は小さく、一村にすぎなかった。

 だが、サモネウム県には、クルルアーン竜帝国軍の十万を超える兵が押し寄せた。


 エスラターカは、当時クルルアーン竜帝国を支配していた後アナンタ朝のアナンタ九世の弟であり、戦争前夜においても軍事的天才と呼んで差し支えない実績を持っていた。

 彼は竜帝国の東方地域で主に活躍をし、この頃には全軍の指揮官に就任していた。

 実際、文献などを読みとくと、この時の彼はアナンタ九世よりよほど人望があり、民からの人気も高かったようである。


 エスラターカはこの戦争で奪った地域に自分の国を建て、もってこれまでの功績の対価とするという取引を、兄である皇帝と交わしていた。

 前年に領地の割譲を受けて、一村のみの王国を建国し、名目上クルルアーン竜帝国に直接の宣戦布告をさせない。という措置も、もし戦争に失敗した場合、母国への類火を防ぐ狙いがあった。


 サモネウム戦争は、エンターク竜王国軍の勝利に終わった。

 この戦争で、ペニンスラ王国は南部大陸の領土を根こそぎ失うという大損失を被る。


 その敗北の原因は、端的に言えば、戦略の優劣というより単純に軍力の差によるものであったが、外交的な要素を加味すれば、イイスス教国からの援軍があれば勝てた戦であった。

 ペニンスラ王国は、再三に渡って援軍を求めたが、教皇は援軍要請をすげなく断り、フリューシャ王国も教皇領に遠慮し援軍を出さなかった。


 教皇からしてみれば、第六回、第七回と十字軍が不首尾に終わったのは、ペニンスラ王国の非協力的な態度が原因であり、援軍を出さぬのは当然であった。

 しかし、ペニンスラ王家からしてみれば、十字軍に軍を出さないのは地理的な事情があるからであり、そこには当然に合理的な理由がある。


 二者のわだかまりは深まり、しかし一方的にしてやられた形のペニンスラ王国は、仕返しのしようがなかった。

 1492年、ペニンスラ王国はアルビオ共和国と秘密協定を締結する。


 当時、アルビオ共和国は、大陸西方の海沿い地域において活発に海賊行為をおこなっていた。

 だが、度重なる海賊行為によって、村によっては防備を固めたり、廃れてしまったり、商船を襲うにしても護衛がついたりと、実入りが少なくなってきていたのも実情であった。


 アルビオ共和国とペニンスラ王国が結んだ協定というのは、アルビオ共和国は海賊がペニンスラ王国を襲わないように監督し、代わりにペニンスラ王国は港を解放する。というものであった。

 この協定は、アルビオ共和国にとって非常に利のある協定であった。

 アルビオ共和国にとっては、密貿易をしなくてすむ国家が近場に増えるという単純なメリットの上に、もう一つ重大な役得があった。


 アルビオの海賊たちは、これまでペニンスラ王国に海峡を封じられていたため、それまで地中海を襲うことができなかったのである。

 だが、この協定によって地中海側の港が使えるようになり、豊かな地中海内部の沿岸地域で存分に海賊行為を働けるようになった。

 海峡の通過には、収奪した物品の一割を通行税として納める必要があったが、それでも十分な利益が出た。


 ペニンスラ王国にとってこの協定は、海賊から逃れるという意味よりも、むしろ教皇に対するあてつけの意味が大きかった。


 この秘密協定は、もちろん公表はなされなかったが、教皇領には即座に露見した。

 教皇領にアルビオ海賊が出没するなどということは、それまでなかったのに、突如アルビオ人が海岸沿いの村落を襲い始めたのである。

 ペニンスラ王国に密偵を出せば、アルビオ海賊が港町でごく自然に酒を飲んでいるところが目撃された。 


 教皇領は公にペニンスラ王国に抗議するようになり、外交関係はさらに悪化の一途をたどった。

 1507年には、教皇領主導の連合軍がペニンスラ王国を襲った。

 後の戦争と比較して、ペニンスラ制裁戦争、あるいは第一次ペニンスラ戦争と呼ばれるこの戦争は、実に二十六年の長きにわたって続けられた。


 結果、連合軍が勝利し、ペニンスラ王国は首都を落とされ、国王は斬首された。

 その後、国王の座に登壇したのは、国王の弟であった男であった。

 彼はペニンスラ制裁戦争の最初から教皇に担ぎ上げられていた男であり、その無能さから前王に嫌われ、放逐された過去を持っていた。


 1791年、第二次ペニンスラ戦争(畏仔戦争の南方戦線として捉えられることが多い)が起こると、激戦の後に勝利したが、得るものはなかった。

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