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黄金の夜明け前~畏歴二千年前史~ 上  作者: ノウェル・ウィチタ
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フリューシャ王国

 現在のフリューシャ王国の地は、イイスス教の歴史に翻弄されてきた。

 時代に応じて柔軟に教派を変えてきたティレルメ帝国の諸侯とは違い、この土地の人間は教派の勢力図が変わるたびに血を見ることになった。


 まだ未開であった時代、この地にイイスス教を運んできたのは、類に漏れずクスルクセス神衛帝国であった。

 フリューシャ地域には、それ以前には三つの小国があったが、畏歴248年から開始されたフリューシャ布教戦争によって順次制圧され、おおよそ畏歴300年前後には神衛帝国の一部となった。


 以後700年の間、クスルクセス神衛帝国の属州フリューシャとして、概ね平和に発展していった。

 その間にイイスス教はフリューシャ地域の隅々にまで浸透し、土着の宗教を駆逐した。


 変化が起きたのは、畏歴1012年クルクス戦役の後のことであった。

 クスルクセス神衛帝国とクルルアーン竜帝国が戦ったこの戦役では、属州フリューシャからも兵が出たものの、大渦があったわけではなかった。

 問題だったのは、戦後である。


 クルルアーンに負け、イイススの寝所という大聖地を奪われたクスルクセスは、その敗北の理由を信仰の不十分に見出した。

 史上最悪の改革運動と呼ばれる狂信的改心運動(ファナティミション)が実行に移されると、属州フリューシャの人々は辛酸を舐めることとなった。


 クスルクセス神衛帝国全土で同時多発的に叛乱や一揆が起こるが、属州フリューシャではカルルギニョン・ペストパセリという従軍武僧が蜂起をし、彼を旗頭にして反乱軍が立った。


 従軍武僧は神衛帝国の挺身騎士団特有の階級であり、彼らは平時あるいは行軍中に部隊単位の信仰を監督する役目を担っていた。

 主な仕事は礼拝日の祈祷の監督、説教、そして懺悔の受付であり、加えて軽微な軍機違反及び軽犯罪に対しての裁判があった。

 そして都市占領あるいは収奪時においては、宗教的に逸脱した行為をしないように監督もした。

 もちろん、部隊が戦闘に突入するにあたっては、彼らも鈍器を持って戦闘に加わった。


 カルルギニョンは、自分の部隊を糾合すると、またたくまに辺境の小都市を一つ乗っ取った。

 そうして、周囲にふれをだし、民兵や治安維持の属州兵を募集した。

 民兵や属州兵たちは農具を持って立ち上がり、鎮圧にやってきたクスルクセス神衛挺身騎士団と戦闘し、多くの血を流しながらこれを撃退した。

 この抵抗運動は、クスルクセス神衛帝国の崩壊時において、間違いなく最大のもので、民間人をあわせ十万人以上の死者が出たと予想される。


 最初こそ激しく鎮圧に乗り出していた神衛帝国であったが、次第に狂信的改心運動の無理が祟り、全身が病巣のように成り果て、最終的に属州フリューシャ全土の独立を許してしまった。

 属州フリューシャが独立すれば、フリューシャ地域を跨いで海の向こう側にある属州アルビオの維持はもちろん困難で、カルルギニョンは大小アルビオ島をほぼ無血で奪った。


 戦後、カルルギニョンは自らは王座に座らず、属州長の息子を座らせ、自らは助言役の立場を取り、教会を握った。

 そして、自らの研究をもとにカルルギ派という新たな宗派を作り出し、全土に広めた。

 カルルギニョンの名は国名として残った。


 元々、フリューシャの土地はクスルクセスの時代から最も恵まれた土地とされていた。

 国土の大半が平地であり、川も多いために農耕適地が非常に広い。

 すぐに国力を取り戻し、強国となった。


 国教であるカルルギ派も順調に勢力を伸ばし、一時はイイスス教徒の過半はカルルギ派であったこともあった。

 しかし、カソリカ教皇領が成立すると、カソリカ派の伝道が始まり、各地でカルルギ派からカソリカ派への乗り換えが行われ始める。

 これは、カルルギ派の主張が支離滅裂であったわけではなく、単純にカソリカ派の持つ説得力が強かったからであった。


 カソリカ教皇領は聖都ヴァチカヌスを握っており、ヴァチカヌスの聖寝神殿にはイイススの聖体が眠っている。

 それがもたらす正当性は、イイスス教徒にとっては絶大なものであり、その点でカルルギ派は分が悪かった。


 1101年には、明らかにカルルギ派に将来性がないと見限ったティレルメ地方の諸侯が、合同してカルルギ派の排斥に走る。

 カルルギ派聖職者たちの国外追放が始まると、カルルギニョン帝国はカルルギ派の保護を目的に宣戦を布告する。

(この国外追放では、実質的に財産は没収されたので、カルルギ派の聖職者からは不満が噴出した)


 カルティレ戦役と呼ばれるこの戦争では、カルルギニョン帝国が圧倒的に優勢であった。

 だが、 翌年にティレルメ諸侯の要請でカソリカ教皇領が兵を起こすと、戦況は逆転する。

 カルルギ派対カソリカ派の様相を呈した全面戦争を、カルティレ戦役と区別して特にカルルギニョン戦争という。


 カソリカ教皇領はペニンスラ王国を引き連れて参戦したので、カルルギニョン帝国は三方を敵に戦わねばならなくなった。


 1106年には、戦局は圧倒的に劣勢になっていたが、このとき「教皇の慈悲」で唐突に講和が成り立つ。

 当時の教皇ハンナバルは、この戦争を可及的速やかに終わらせ、対シャンティラ大皇国の戦争の準備に入る必要があった。


 1111年、後に第一次十字軍と呼ばれる戦争が始まり、各国が大皇国を蹂躙しはじめると、カルルギニョン帝国は巻き返しを計って後背で戦争を起こす。

 第二次カルルギニョン戦争で失地を取り返すと、とりあえずの講和が成り立った。


 各国は、成功に終わった第一次十字軍の続行を早くしなければという焦りに駆られていた。

 第二次十字軍が行われたが、カルルギニョン帝国を残しておけば、後背に不安が残るということで、カルルギニョン帝国も参戦することになった。

 ただし、カルルギニョン帝国軍はほとんど活躍させてもらえず、第二次十字軍自体が不調に終わってしまった。


 その後、やはり後背に敵性国家を抱えたままの十字軍は出来ぬと、カルルギニョン帝国を滅ぼす機運が高まる。

 その背景には、やはりカソリカ派による異端への敵視があった。

 立て続けにカルルギニョン戦争が行われ、ついに第五次カルルギニョン戦争において、帝国は大陸から追い落とされることとなった。

 それは1302年の出来事であり、第二次十字軍から179年の月日が経っていた。

 カルルギニョン帝国は、三方を敵に囲まれ、驚異的な期間粘ったと言える。


 カルルギニョン帝国は、その後旧属州フリューシャの地域に成立したフリューシャ王国に滅ぼされた。

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