クルルアーン竜帝国
クルルアーン竜帝国は、大陸西方において、畏歴2000年時点でもっとも古い国家であった。
千年以上の歴史を重ねた国家は、史上でも稀であろう。
ただし、建国の父であるアナンタ一世が開いたアナンタ朝は、歴史上では1108年を最後に断絶し、内部では幾度かの内乱と王朝の交代が起こっている。
畏歴2000年当時の王朝は、現在では第五期アナンタ朝と呼ばれているが、当時は後アナンタ朝と呼ばれていた。
アナンタ一世は現在ではクルルアーン帝国の一部となっている、小さな村落の村長の子として産まれた。
クルルアーンの建国神話によれば、アナンタは生まれながらに龍霊ヴァスキの加護を受けていたという。
神話では、アナンタが生まれると、たちまちに五匹の王竜が村に降り立った。
王竜とは、百歳から二百歳までの間の飛竜のことである。
荒涼とした乾燥地帯に生息する飛竜種は、その多くが百歳になる前に病気や縄張り争いで死ぬが、特に強健な個体は百歳を超えて更に体格を巨大化する。
二百歳を超えた竜は老竜と呼ばれ、歴史上には野生のものを含め三匹の存在が記されているが、実在は疑わしい。
実際には、王竜は百五十歳を超えると、老化による衰えのため徐々に飛翔が困難となる。
飛翔ができなくなると、飛竜は足を折った馬のように具合が悪くなり、ついには衰弱死してしまうので、現在では二百歳まで生きることは難しいと考えられている。
飛竜という生物は、野生に育った個体は決して人に慣れないので、卵から育てる必要がある。
その卵は、アナンタ一世が生きた時代には、主に人工交配や野生の竜巣からの採卵によって得られていた。
もちろん、竜騎兵たちが駆る飛竜は、そのすべてが人間が卵から育てたものであった。
なので、人に慣れた王竜を作るためには、野生に発生している王竜を調教する。という手段は不可能なので、人間が百年間、餌を与え続けて育てなければならない。
とはいっても、飼育環境下にある飛竜は、運動量や特定栄養素の欠乏、また飼育舎の衛生環境の不備などにより、健康を損ないがちで、王竜まで育つ率は、自然環境下よりむしろ低かった。
ゆえに、人に慣れた王竜は今も昔も非常に貴重な生物である。
王竜の名に、特に王という名が冠される理由は、その貴重さから「まさしく王の持ち物」であると同時に、「自然界の王」という意味もある。
人に慣れた王竜は、いくつかのケースを除いて王の持ち物であったが、野生に発生した王竜はまさしく「自然界の王」であり、アナンタ一世が産まれた当時は、非常に危険かつ厄介な野生動物であった。
野生の飛竜は、数年に一度の巣替えにより、縄張り自体がゆっくりと移動する。
成長して王竜になったあとも、その性質は変わらず、王竜は体格に見合う広大な縄張りを、数年に一度移動させた。
人間にしてみれば、王竜の縄張りを避けて暮らしていても、巣替えで移り変わった縄張りが村落に引っかかれば、当然のように餌狩り場の一つにされ、人が喰われた。
王竜は、人間にとって理不尽かつ恐ろしい脅威であった。
畏歴2000年にもなると、様々な技術を用いた「竜狩り」の方法が考案・実践されていたが、アナンタ一世の産まれた950年頃にはそのような方法もなく、野生の王竜を退治するには王が国軍を出す必要があった。
当時、王竜一匹を退治するには、おおよそ竜騎兵十騎、騎兵二十騎、歩兵三百人の犠牲が必要とされたという。
当時の方法では、竜騎兵が空中で王竜をなんとか迎撃し、王竜が地上に降りると騎兵が突撃して翼を折り、最後に歩兵が人海戦術で倒すというものだったので、犠牲は必ず出た。
その損害は、たいていの場合、村落一つの安全に見合うものではなかったので、場所が要衝や都市でもない限りは、実際には放置されていた。
一匹でもそのような状態であったわけで、一度に五匹の野生の王竜が降り立ったアナンタの村は、これはもうどうしようもなかった。
村人たちは、混乱するより前に絶望に襲われ、立ちつくした。
五匹の王竜といえば、国軍を総動員しても狩るのが難しい戦力であり、村一つくらいは鼻息混じりに灰燼に帰することができるだろう。
だが、五匹の王竜はアナンタの生家を取り囲むと、飼竜が竜騎兵を背に導くときにするように、頭を垂れたという。
その後、アナンタは生まれついての王として育ち、当然のように己の国を建てると、王竜を従えて瞬く間に諸国を征伐していった。
***
その建国神話の真偽はともかく、アナンタ一世が竜騎兵を有効に使い、幾度もの戦役を勝ち抜いたのは史実である。
アナンタ一世は一代で広大なクルルアーン竜帝国を築き上げた。
齢六十に差し掛かるころには、周辺諸国で敵となるのはクスルクセス神衛帝国くらいしか残ってはいなかった。
だが、アナンタ一世は決して神衛帝国と矛を交えようとはしなかった。
神衛帝国は広大であり、西の果てまで広がっている。
一度二度の戦争では勝つ自信はあったものの、全領土を侵し、滅亡までもっていくことは不可能と考えたのである。
征伐の中途で自分が死亡してしまえば、戦下手の息子たちのこと。どう転んでしまうかわからない。
アナンタ一世は、後に禍根を残すくらいであれば、平和を貫いたほうが利口と考えた。
世界史において、アナンタ一世はカンジャル大汗と良く比較される英雄であるが、彼がカンジャルと全く異なった点は、外交内政の両面において国のその後に心を砕いた点にあった。
だが、結局、二国は矛を交えることになった。
イイスス神学の研究目的で入国していたカソリカ・ウィチタという男が、領内で救世主イイススの寝所を見つけたのである。
当時、すでに大版図を確立していたクルルアーン竜帝国は、聖典時代にイイススが活動していた地域の大部分を、既に版図に組み入れていた。
宗教的には古代二グロス都市国家群の多神教をおおむね引き継いでいたが、クスルクセス神衛帝国の隆盛に伴ってイイスス教の宣教の勢いが激しくなり、イイスス教徒は増加の傾向にあった。
アナンタ一世は、クスルクセス神衛帝国に対しては一貫して外交的譲歩を惜しまなかったので、イイスス教の古都市ヨハプルトキの調査をはじめ、聖地の巡礼や研究者の来訪については全面的に受け入れていた。
(当時、ヨハプルトキの遺跡と思われる遺構は五ヶ所あり、そのうち有望な一ヶ所がヨハプルトキだろうと考えられていた。しかし、後の文献調査により、そのどれもがヨハプルトキではないと確認され、否定されている)
イイススの寝所は、小さな漁村が点在するだけの、あまり人気のない海岸線にあった。
海岸沿いの目立たない丘陵にあった聖窟は、発見当時粗末な日干し煉瓦で閉鎖されており、入り口は見事なまでに風景と同化していたという。
クスルクセス神衛帝国は、聖窟を暴き、聖体を確認するやいなや、当然のように軍隊を送り込んだ。
軍を無人の海岸に置くと、続々と職工と資材を送り込み、海岸に港を作り、城壁で洞窟と海岸線とを繋ぎ、城壁の間に街を作り始めた。
一連の行動に一切の事前通告はなく、宣戦布告もなかった。
彼らの行動を弁護するとすれば、彼らは、ようやく発見した万物万象の中で最もかけがえのないものを守ろうと、一心不乱であったのだろう。
そこが遠方の僻地であれば、アナンタ一世は黄金や別の土地を対価に場所を明け渡していたかもしれない。
だが、不幸なことに、聖窟はクルルアーン帝国の帝都にほど近い場所に位置していた。
帝都の近くに大軍が進駐できる都市ができてしまっては、必ず将来の禍根になる。
今まで譲歩に譲歩を重ねてきたアナンタ一世といえども、それは許しておくわけにはいかなかった。
しかし、ただちに戦争が起こったわけではなく、アナンタ一世は神衛帝国の高官たちと交渉の場を何度も設け、平和的解決を図った。
アナンタ一世は、寝所を保護して巡礼者を無条件に受け入れるだとか、二国共同で聖体をヴァチカヌスへ運ぶだとか、様々な条件を出した。
だが、それらの提案は全て無駄であった。
クスルクセス神衛帝国という国は、一連の交渉においてほんの少しほどの妥協もしなかった。
彼らは、聖体を別の場所に移すことでイイススの安眠を妨げることは、天下の大罪だと考えていた。
もちろん、聖体の安否を他国に委ねるなどということは言語道断であった。
つまり、彼らが望むのは現状維持であり、彼らにとっての交渉とは、土地の譲渡、もしくは購入、あるいは租借の金額交渉だった。
対して、竜帝国側の絶対条件は進駐軍の撤退であり、都市の無防備化である。
交渉が平行線に終始したのは当然で、最初から両者に交渉の余地はなかった。
平和を望むアナンタ一世にとっては、寝所の発見は、まったくもって唐突に降って湧いた災難でしかなかった。
交渉の決裂は、結果的に当時の二大国のその後を分けることになる。
クスルクセス神衛帝国は、カソリカが発見した大聖地を破壊しようとするクルルアーン帝国を、当然のように神敵とした。
国力の全てを注ぎ込み聖地を防衛するが、様々な要因が不利を招き、敗北する。
瀬戸際でイイススの聖体をヴァチカヌスへ移すと、大聖堂教会に聖体を安置し、聖寝神殿と改称した。
だが、敗戦が遠因となり、結局は帝国自体が消滅した。
一方、クスルクセス神衛帝国の狂信を見たアナンタは、イイスス教に嫌悪を抱き、同時期に発生したココルル教を強力に保護した。
戦後、アナンタ一世は聖地に作られた街を徹底的に破壊すると、聖体の消えたイイススの寝所からありとあらゆる聖遺物を剥がし、ヴァチカヌスへ送りつけた。
これは盗掘を警戒してのことで、後に保護責任を問われるのを免れるための措置であった。
そして空っぽになった寝所を厳重に封鎖すると、イイスス教徒の迫害を開始した。
現在クルルアーン竜帝国で信仰されているココルル教は、神憑りの少女ココリスが創始したものである。
イイスス歴1000年、ココリスはイイスス生誕からちょうど千年後に産まれた。
神の言葉を預かったと、年齢不相応に荘厳な声色でいった少女は、紡いだ言葉を親に書かせた。
その言葉は新聖典として纏められ、ココルル教の原典となる。
ココルル教では至高の神の下に、各々人格を持つ八の下位神が並び、その下に大天使が仕える。
イイスス教がイイススその人とする神は、下位神の一人であり、古代二グロスの神々もこれに並び、八つの下位神のうち二つはココリスの独創とも言える「名を忘れられた神」であった。
ココルル教は、多神教の結束が一神教に劣ると感じたアナンタ一世により強力に保護され、国中に広がった。
新しいその宗教は、砂漠の水が砂に染みこむように人々の間に浸透していった。