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黄金の夜明け前~畏歴二千年前史~ 上  作者: ノウェル・ウィチタ
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大陸西部簡易歴史年表

 大陸西部簡易歴史年表

 イイスス歴にて記述する。皇暦の場合は300年を足すこと。

 

 紀元前300年 皇祖シャモ・シャルトルの発見。生年は不明である。シャンティラ巫女国の成立年とされ、皇暦元年とされる。


 紀元前290年 古文献によると、シャンティラ巫女国の玉璽が初めて押印された文書は、この年のものであるという。


 紀元前253年 シャモ・シャルトル死去 異能者であったという彼女は、ある日突然行方不明となった。伝説では、寝床から起き上がったシャモは波止場へゆき、そこで泡となって消えたという。


 紀元前113年 領域が拡大し、シャモの子孫であるシャンティラの大巫女が女皇へ即位する。以降、シャンティラ大皇国と名乗る。


 紀元前100年頃 現白狼半島北西部とアイサ孤島を除く、シャン人の生息地域がほぼシャンティラ大皇国に呑まれ、単一人種国家の性格を帯び始める。このころまでは、大皇国の他にも原住民的な生活を営むシャン人の部族があった。


 紀元前50年頃 古文献によると東方騎馬民族との大規模な戦闘があった。(カニーラフェの戦い)


 0年 イイスス生誕


 24年 シャムトナ戦争 農民同士の諍いから、シャンティラ大皇国はムトナというクラ人の国と戦争になった。シャン人側からの侵略的な戦争であり、ムトナ国は滅び、大量のクラ人が難民となった。この戦争によって、将軍の影響力が増したと言われる。


 30年 ムトナ内乱 増長した将軍が起こした反乱であり、主に先の戦争で獲得したクラ人の戦争奴隷を使った。戦争による将軍と騎士の増長を恐れた皇家は、将軍(軍部)への牽制の意味から専守防衛を掲げ、奴隷の所持を禁止する。シャンティラ大皇国からは侵略的性格が消えた。


 45年 イイスス死亡(入睡年)


 54年 ヨハプルトキ建市


 105年 ヨハプルトキ事変 ヨハプルトキは消滅した。


 106年 高弟漂流 クセス族宣教 以降、クセス族の活動が活発化する。


 152年 クセス国がクセス神衛帝国と改名、王は神聖皇帝を名乗り、イイスス教の庇護者を自認した。


 200年 クスル半島北方に居住していたイーエニチという部族が改宗に応じる。神衛帝国のクスル半島掌握。


 210年 クスルクセス神衛帝国と改称する。

 

 248~315年 フリューシャ布教戦争 この時期、フリューシャ地域は三つの土着王族がそれぞれ国を作っていたが、全て滅ぼされた。


 512年 ティレルメ地域の教化 ティレルメ地域の貴族は自ら神衛帝国の統治を受け入れた。


 521年 ペニンスラ半島布教聖戦 ペニンスラ半島には太陽信仰の宗教と、統一王権があったが、滅ぼされた。

 

 532年 第一次北方布教戦争 総動員数、公称十万人、実働六万人とされる。大規模な遠征であり、目標はシャンティラ大皇国への布教(侵略)であった。結果は、戦死四万の捕虜一万という惨敗に終わる。捕虜の身代金は、実際には戦後賠償金として引き渡された。


 560年 東方布教戦争(イストコンクエスト) 現在のクルルアーン海峡を渡って勢力を伸ばした。


 603年 第二次北方布教戦争 総動員数、公称十一万人、実働四万人とされる。先の戦争の結果から、徴兵に応じぬ人々が多く、思うように数が集まらなかった。兵募の遅れにより攻勢予定がずれ、冬季の作戦行動を余儀なくされ、負傷者の多くが凍死した。


 632年 南方布教戦争(サウスコンクエスト) 主要仮想敵国をシャンティラ大皇国から南方大陸にシフトさせた。


 700年 クスルクセス神衛帝国にて、修道議会制が導入される。


 894年 アイサ孤島の発見 シャンティラ大皇国は陸軍国であり、航行技術が未熟であったため、植民はあまり進まなかった。(1フネ194 アイサ孤島 皇暦1194年の出来事であった)


 951年 アナンタ一世誕生


 978年 クルルアーン竜帝国建国


 1000年 預言者ココリス生誕(ココルル教では依憑子(よりわら)ココリスと呼ぶ)


 1006年 第三次北方布教戦争 総動員数、公称二十万人、実働十万人とされる。万全を期して挑むが、駆鳥を使った陽動戦法にかかり、騎馬軍団が歩兵軍団から分断。個別包囲され、大敗。


 1008年 カソリカによる聖窟(ホーリケイヴ)の再発見 速やかに港が建設され、都市計画ができる。皇帝自ら光輪(ヘイロウ)市と名付けた。


 1012年 クルクス戦役勃発 第三次北方布教戦争の傷の癒えぬ状態での遠隔地戦争は、不利を招いた。


 1012年 ヴァチカヌスの大聖堂教会の改装開始。大聖堂教会中心部にイイススの眠る聖寝室を作るための改築であったが、構造力学的に無遠慮な改築であったために無理がたたり、二度の崩落があり工事は難航した。当時は戦時中であり、これは敗北した時のための保険的な事業であった。国庫が戦費に圧迫されていたため、職工は脅迫的な無賃労働を強いられた。


 1020年 改装終了 このころ、すでに戦局の劣勢は決定的になっていた。最前線では休戦派と主戦派の争いが激化していたが、皇帝は最後までの抵抗を指示し、休戦派は処刑された。休戦派は、戦火の喧騒がイイススに届かぬうちに休戦し、恐れながら聖体の移動を願うのが賢明であると主張していた。


 1021年 恐縮遷体・光輪(ヘイロウ)市破壊


 1022年 神聖皇帝による狂信的改心運動(ファナティミション)開始 貴族を含む全国民に信仰の徹底を呼びかけるもので、聖職主導で行われた。


 1025~32年 クスルクセス神衛帝国各地で反乱が多発する。最初の反乱は、トット語の習得がままならず試験に落ち、累代の代官の座を降ろされたペニンスラの貴族であった。


 1030年 ペニンスラ半島の過半数の貴族が離反


 1031年 カルルギニョン・ペストパセリという挺身騎士団の武僧が反乱を起こす。


 1032年 カルルギニョン帝国建国(属州フリューシャ離反)


 1032年 ティレルメ地方、カルルギ派に改派(属州ティレルメ離反)


 1033年 クラニセス五世発狂 国土白化令(ピュアティミション)発動 その本質は虐殺(ジェノサイド)であった。


 1033年 ペニンスラ半島貴族が結集し、メトシュラ公爵を担ぎ上げ、ペニンスラ公国を立ち上げる。


 1034年 挺身第十二師団(親衛師団)離反 白化団の虐殺 クラニセス五世弑逆 クスルクセス神衛帝国消滅 同年、聖寝室侍従長が神聖皇帝代理の執務を担い、教皇位に就く。


 1035年 教皇領宣言 神衛帝国残地を教皇領と宣言するが、既に支配権を失った土地に関しては統治権の破棄することを暗に述べ、周辺諸国を安堵させた。


 1036年 メトシュラ公爵、晴れて国王を名乗り、ペニンスラ王国が誕生する。


 1038年 カソリカ・ウィチタ死去 激動の時代を生きた人であった。神学者としての功績のほか、教皇領の発足と最初期の方針決定に多大な貢献をした。クラニセス五世の信望厚く、幻の教皇とも呼ばれる。


 1038~1100年 カソリカ派が徐々に広まり、各地でカルルギ派と衝突。


 1019年 東方にてカンジャル・ロー誕生


 1039年 カンジャル族長就任、草原地帯では土地の優劣が決まっており、放牧に向いた草が大量に生える地が優れた土地とされ、カンジャルのロー族の縄張りであった土地は比較的劣った土地であった。カンジャルは就任したその年に近隣の族を襲い、吸収した。


 1043年 カンジャル汗国誕生 就任から4年で6つの族を武力でねじ伏せ、(カーン)国を名乗った。


 1060年 カンジャル第一次西方遠征 一万騎の弓騎兵軍で、シャンティラ大皇国国境を侵犯する。研究によれば、国境紛争というよりは、継続的な掠奪の可否を判断するための威力偵察であったらしい。歩兵や攻城兵器を伴わず出征し、戻ってきたのはカンジャル自身を含む五騎だけであった。


 1066年 カンジャル第二次西方遠征 領土を増やし、騎兵二万騎 戦争奴隷三万人を引き連れてゆくが、これも惨敗であった。


 1067~80年 カンジャル東方遠征 大陸東部に進軍する。無人の野を行くが如しという、大成功の遠征であった。


 1080~96年 カンジャル中東遠征 中東を南下し、クルルアーン竜帝国と激突する。伝説では、カンジャルその人が大弓を射り、王竜を絶命せしめたと言うが、後世の研究では一種のプロパガンダとされている。


 1098年 カソリカ派の浸透したティレルメ地域にて、カルルギ派宗教指導者が国外追放される。


 1101年 カルティレ戦役(旧ティレルメ属州地域への侵攻。後の参戦国増加をあわせ、カルルギニョン戦争という)


 1102年 教皇領の聖戦宣言 教皇領とペニンスラ王国の参戦。


 1106年 第一次カルルギニョン戦争終結 教皇ハンナバルの宣言による不自然な戦争終結であった。終戦協定は文面的にはカルルギニョンに不利なものではあったが、戦況を鑑みればカルルギニョンに大幅に譲歩した内容であった。


 1108年 ティレルメ神帝国建国 レオン・サクラメンタを帝王に据える。

 

 1111年 6月14日 ミナリ大会戦 カンジャル・ハンの二十五万(うち騎兵十万)の軍が国境を侵犯。迎え撃つ大皇国軍は11万であった。一時は包囲に成功するが、数の暴力に屈して突破を許し、潰走に陥る。この大会戦には東方・中東方面から連れて来られた戦争奴隷が数多く参加しており、天下の大会戦として、世界中に広く知れ渡った。


 1111年 7月1日 カンジャル・ハン死去 91歳であった。残った息子たちと将軍は疑心暗鬼になり、軍団規模からしてみればろくに略奪を行えぬままに撤退することになった。その収奪は戦死者十万の対価にしては、釣り合うものでは到底なく、経済的に見れば失敗に終わった遠征であった。


 1111年 9月1日 第一次十字軍(当時は第四次北方布教戦争とも呼ばれた)宣戦布告はなかった。


 1111年 9月30日 シャンティニオン陥落。女皇と二人の皇女が自害。


 1111年 10月5日 捕虜となった次女、拷問死。同日、教皇ハンナバル、シャンティニオンにて死去


 1111年 12月15日 皇家遺子会議 シャンティラ大皇国の消滅の日とされる。


 1111年 第二次カルルギニョン戦争開始 カルルギニョン帝国が唐突に周辺諸国に宣戦を布告する。まともに防戦できたのは、本土に兵を残していたペニンスラ王国のみであった。


 1115年 アルビオ酋長国、カルルギニョン帝国から独立


 1118年 第二次カルルギニョン戦争終結 第一次十字軍から軍勢が引き返してくると、すぐに和議に入った。


 1123年 第二次十字軍 カルルギニョン帝国も参加し、兵を出した。ただし土地の取得はなく、対価は戦費の保証で賄われた。実質的には後顧の憂いをなくすための措置であった。


 1129年 第三次カルルギニョン戦争勃発


 1146年 第三次カルルギニョン戦争終結 善戦はしたものの三方面作戦の不利は覆し難く、全体を見ればカルルギニョンの敗北であった。


 1200年 第四次カルルギニョン戦争勃発


 1219年 第四次カルルギニョン戦争終結 やはり全体に劣勢の戦争であり、更に領土を削られた。


 1250年 第五次カルルギニョン戦争勃発


 1250年 小アルビオ紛争 アルビオ酋長国が小アルビオ島を奪う。それに伴い議長職であった酋長は国の代表者という名目から降り、共和国を名乗った。


 1302年 第五次カルルギニョン戦争終結 カルルギニョン帝国は大陸領土を全て失い、大アルビオ島に篭った。正確には終戦協定は結ばれていないが、カソリカ派国の戦勝宣言はあった。


 1319年 第三次十字軍 カルルギニョン帝国の脅威が実質的になくなったため、カソリカ派国の目標が北方にシフトした。


 1330年 第四次十字軍 第三次に続き成功を収めた。

 

 1390年 第五次十字軍 旧カルルギニョン帝国領の諸侯が活躍し、団結を深める。同十字軍の戦功会議では、広い領土を手に入れる。


 1391年 都市国家領域の領土を全てと引き換えに、旧カルルギニョン帝国領の領主たちが旧カルルギニョン領土を交換、フリューシャ王国が誕生する。


 1400年 第六次十字軍 フリューシャ王国が参戦しなかったために、戦果は芳しくなかった。


 1403年 斑火戦争(フリューシャ・カルルギ戦争)勃発 海峡を渡り、フリューシャ王国軍は、全軍をもってカルルギニョン帝国に乗り込んだ。


 1404年 カルルギニョン帝国消滅


 1404年 アルビオ島紛争 カルルギニョン帝国の消滅に続き、フリューシャ王国はアルビオ共和国を攻めた。だが、北部山岳地帯の地形を熟知したアルビオ共和国を攻め落とすことはできなかった。


 1457年 第七次十字軍


 1474年 後アナンタ朝 アナンタ九世の弟、エスラターカが南部の一村に分離独立し、エンターク竜王国を名乗る。


 1475年 サモネウム戦争勃発 ペニンスラ王国がエンターク竜王国と戦う。サモネウムとはエンターク竜王国が最初に奪った県の名前である。


 1480年 サモネウム戦争終結 当時のエンターク竜王国は弱小国であったにも関わらず、ペニンスラ王国は南部大陸領土をすべて失った。エンターク竜王国軍にはクルルアーン竜帝国軍が混じっており、実質的に一国対二国の戦争であった。ペ国は宣戦布告なしのク竜国の参戦に抗議したが、アナンタ九世は参戦を認めなかった。また、時の教皇アルアナフ四世は十字軍に非協力的なペニンスラ王国に憤りを抱いており、ク竜国への報復要求にも応じなかった。


 1492年 ペニンスラ―アルビオ秘密協定締結 内容はアルビオ共和国海賊船がペニンスラ半島全域を襲わないこと、開港と海賊船への補給を始めとした物資の融通、海賊船の地中海への侵入と、海峡の通行税の制定など、多岐にわたった。ペニンスラ王国なりの、カソリカ派王国への報復であった。


 1493年 秘密協定についてヴァチカヌスにて密議が開かれる。アルビオ共和国の海賊が突然ペニンスラ半島を狙わなくなり、港も堂々と使うようになったので、露見は早かった。


 1494年 海峡を通ったアルビオ海賊船が教皇領を荒らしはじめる。


 1507年 第一次ペニンスラ戦争(ペニンスラ制裁戦争)勃発 教皇領との戦いであり、教皇領とフリューシャ王国の連合国軍と対した。また、教皇領軍はペニンスラ王の廃嫡された弟を擁していた。


 1533年 ペニンスラ王国の首都、メトシュラが陥落する。


 1533年 ペニンスラ王、斬首。王国は再編され、王朝が変わった。秘密協定は新王朝によって公式に破棄された。


 1534年 なおも教皇領で海賊行為が続く。地中海の海賊行為に味をしめたアルビオ共和国は、今度はエンターク竜王国と海峡利用協定を結んでいた。


 1537年 カソリカ教皇領の飛び地であるガリラヤニン(旧シャンティニオン)の代官と、その周辺都市国家の都市が蜂起し、ガリラヤ・ユニオンを名乗る。イイスス都市国家地帯では、ペニンスラ王国の余波で都市国家戦争が起こっており、母国からの指示への不満が高まっていた。


 1538年 教皇領がガリラヤニンへ兵を起こそうとするが、クルルアーン竜帝国とティレルメ神帝国へ根回しが済んでおり、兵を進めることができなかった。


 1553年 トラッフェ王家の断絶。アイサ孤島がシヤルタ王国に組み入れられる。


 1602年 第八次十字軍


 1639年 アルビオ征伐 エンターク竜王国領を拠点としたアルビオ海賊の地中海荒らしに業を煮やした教皇領は、大アルビオ島にて大規模な軍事行動を起こす。だが、大アルビオ島山岳部に引かれた要塞線を超えるのは容易ではなく、失敗した。


 1665年 第九次十字軍


 1790年 エンターク竜王国がペニンスラ半島を攻める。(第二次ペニンスラ戦争)このとき、フリューシャ王家とペニンスラ王家は姻戚関係にあり、フリューシャ王国は積極的に援軍を出した。また、竜王国軍にはクルルアーン竜帝国の援軍が多く混じっていた。


 1791年 ティレルメ神帝国とカソリカ教皇領がクルルアーン竜帝国を攻め、ペニンスラ王国を間接的に支援する。これによって戦争は拡大し、一連の戦争は宗教戦争の様相を呈した。フリューシャ王国ユーフォス県が突如離反しフリューシャ王国を攻め始め、情勢は混迷を極めた。


 1803年 ユーフォス連邦独立宣言


 1825年 ユーフォス連邦が海を渡り大アルビオ島を攻め、南半分をフリューシャ王国から奪う。この時、アルビオ共和国は議会の分裂から機能不全を起こしており、兵を動かすことができなかった。


 1832年 ユーフォス連邦がカソリカ派国と終戦条約を結ぶ。ココルル教国と激戦を繰り広げている諸国にとり、背に腹は代えられない終戦であった。この条約で、諸国はユーフォス連邦をイイスス教国家として認め、独立を承認することとなった。


 1843年 畏仔戦争終結(第二次ペニンスラ戦争終結) 一時は王都メトシュラに迫った竜王国軍は戦線を押し戻され、半島から退いた。結局イイスス教国とココルル教国の国境は、戦前と全く変わらなかった。得をしたのは混乱に乗じて国を作り、それを認めさせたユーフォス連邦だけであった。


 1855年 第十次十字軍 ユーフォス連邦の初参加だったが、彼らに恨みを持つアルビオ共和国に遠征に出港した船舶を大量に沈められた。


 1872年 第十一次十字軍 ガリラヤ連合の初参加であった。


 1900年 クジャロ汗国のガリラヤ連合への宣戦布告。クジャロ王室との商取引のこじれが原因であった。


 1921年 戦争終結 戦争技術の格差から、ガリラヤ連合軍が勝利し、広大な領土を奪った。


 1952年 第十二次十字軍


 1978年 第十三回十字軍


 2000年 イイスス教国にて二千年祭が、ココルル教国で千年祭が執り行われる。預言者の再臨が各地で噂されるなどし、騒動がいくつか起こり、ヴァチカヌスには例年の百倍以上、262件の奇跡申請が舞い込んだ。うち奇跡認定がおりたのは三件であった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 拷問死したシャンティラ皇国の次女と、同じ日に死んだハンナバル教皇って 次女の拷問中に腹上死か 次女の強姦中に反撃で殺されて次女は拷問刑なのかな
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