ファーストコンタクト前
5月も半ば。
夏の熱気は未だ見えず、春の朗らかな陽気が残る。
私立天宮学園の正門前。
並ぶ桜並木は葉桜へと姿を変え、生徒を出迎える。
ここへ通う生徒は企業の後継者、議員の息子、名家の跡取り等々。
俗に言うお坊ちゃま、お嬢様が大多数。
門前には送迎用の高級車が多数行き来している。
現在、午前7時50分。
転入生の伏見昴は茫然と門の前に立っていた。
怪訝そうに他の生徒が通り過ぎる。
「……ここが、学校……」
知識としてはある。
この国では9年の教育が義務であり、更に多くは数年の追加教育を受けることが出来る。
その事は知っている。だが実感は無い。
昴が施設で受けた「教育」は、他の大多数の一般人の受ける物とはベクトルが全く異なものだった。
施設にも昴と同様の子供が数人いたが、せいぜいその程度。
生まれて初めて、何十人と共に共同生活を行うのだ。
気おくれが無いと言えば嘘になる。
「―――よしッ、行くか。」
とはいえ、今までとは違い命の危険はない。
そんなに気張らずとも大丈夫だろう。
―――考えに没頭していたせいで、周囲の騒めきに気づかない。
自分に喝を入れ、正門に足を踏み入れる。
その直後。
(!?)
背後に威圧感!
後頭部に銃口を突き付けられたような…ッ!
「―――ッ!」
本能に従い、水平に横っ跳ぶ!
振り返ると、そこには男。
昴と同じ制服を着た、真っ直ぐ正門に向かう男。
身長は180はあろうか。
程よく筋肉がついた理想的体格。
黒の長髪を一纏め、黒の眼鏡が日差しを跳ね返す。
奥から覗く眼は、欠片も昴を視界に捕える事無く。
周囲の喧噪を意に介さずに、男は校舎に向かった。
その間、男が通り過ぎる間は時間が止まっていたようだった。
誰も動けず、一言も発せない。
圧倒的威圧…!
昴がこれまで相対したどの刺客にもこんな存在はいなかった。
隙がどこにも見当たらない。
―――そして男が通り過ぎ、校舎に入り見えなくなった瞬間。
一気に空気が弛緩した。
「ふぅ、相変わらずおっかないな神宮寺会長は。」
「今日はいつになくオーラ全開だったね。なにかあったのかな。」
「会長の道塞ぐとか誰だよあの命知らずは。お家取り潰しになっても知らんぞ。」
「ザ・御曹司って人だからな。はなから眼中に無しだろ。」
「はぁ…今日もお美しいです神宮寺様…」
「知的…」
「凛々しい…」
「ビューティフォー…」
昴はしばらく動けない。
認識の違いを認める必要があった。
(なる程、命のやり取りが無いとはいえ気は抜けないという訳か…!)
――――――――――
転入の手続きを行う為職員室へ向かう。
当然事前に校舎の地理は把握済みである。
(しかしまぁ…随分だな。)
心中で感嘆する。
広さはそれ程でも無い。(といっても普通の学校を知らないので感覚のみだが)
だが校舎の造りは一見しただけでもかなりの耐久性を持つことが予想される。
更に窓は防弾用の強化ガラス。この厚さならロケット弾すら貫通出来ぬだろう。
(対爆性能は万全。流石に富豪の子息を預かるだけの事はあるか。)
考えつつ、職員室へ向かう昴。
と、正面から歩いてくる教員らしき男と眼が合う。
多少くたびれたスーツの痩せ形の男は昴に会釈をする。
「おはようございます。」
「はい、おはようございます。」
昴へ挨拶を返し、通り過ぎる男。
だが、昴は見逃さない。
男のネクタイに刺さるタイピン。そこに描かれる羽の生えた犬。
鞍馬の印である。
(こいつが例の協力者か。)
「人にて人にあらず。」
丁度真横に通り過ぎる男に向け、小声で呟く。
鞍馬で用いられる符牒である。
「鬼にて鬼にあらず。」
男はほぼノータイムで符牒を返した。
疑いようもない。この男だ。
男は続けて、小声で呟く。
「放課後、情報処理室へ。」
そう言うと男は何事もなかったように立ち去る。
その姿は、完全にこの学園に溶け込んでいた。
(優秀の様だな。ありがたい事だ。)
――――――――――
「初めまして、伏見昴君。私が君のクラスの担任の笹塚志乃です。」
職員室で昴を迎えたのは、穏やかな雰囲気の女性だった。
挨拶を交わし、手続きを済ませる。
「…病気で長く休学していたそうだけど、大丈夫ですか?困ったことが有ったら何でも言ってくださいね。出来る限り力になりますから。」
そういう事になっている。
昴は話を合わせる。
こういった日常会話の方法も施設で学んだ。
潜入工作の際にどうしても必要だからだ。
「はい。今は体も全然平気ですから。勉強のほうは、少し自信がないですけど…」
「うふふ、大丈夫ですよ。先生方もついていけるように補講を組んでくれます。それに、うちのクラスは皆優秀な子ばかりですから、分かりやすく教えてくれるはずですよ。あっ、もちろん私も聞かれたらなんでも教えちゃいます!」
「はい、頼りにします先生。」
手続きが終わり、教室へ向かう。
その道中も、笹塚は終始笑顔で話し続ける。
「伏見君は、以前何か部活動はやってました?」
「いえ、特には。病気が治るまではあまり動けませんでしたから。」
「体調に問題が無ければ、これを機に何か始めてみましょう?この学校にはいろんな部活がありますから。因みに、私が顧問のテニス部はいつでも歓迎ですよ!」
笑顔で相槌を打つ。
確か比佐鷺柚葉は吹奏楽部に所属していた筈だ。
出来る事なら同じ部活に入りたかったところだが、吹奏楽部は女子限定。
(まぁ贅沢は言えないな。しかし、部活動か…)
標的との接触が許されるのは学園内のみ。
部活動、という事ならば授業後も長時間居座っても不審には思われない。
願わくばほぼ実体のない部活に幽霊部員として所属したいところだが…
(その件は、あの協力者と詰めるとするか。)
――――――――――
…その後他愛もない話を続ける。
これまでに会ったどの人よりも穏やかな人だ。
文字通り、自分とは住む世界が違うのだ。
そしてこれから口説く比佐鷺柚葉もまた、そういう日なたの世界の住人だ。
軋む心を無視し、昴は笑いながら相槌を打つ。
(ふん、上等だ。殺しも恋愛も変わらない。要は言葉というナイフで相手の心を深く差せばいい。)
少女漫画、「アサシン☆ラヴァーズ」の文言を心中で引用しつつ己を鼓舞する。
そうこうしているうちに、二人は教室にたどり着いた。
2-B。教室からは幾人もの話し声。
笑ったり、ふざけ合ったり、楽しげな声だ。
「…はい、到着です。後から呼びますので少し待っててくださいね。」
そう言って、笹塚は教室に入る。
…直前に振り返り、笑顔で言った。
「多少個性の強いクラスですけど、皆いい子たちですから。仲良くできますよ。」
そして笹塚はドアを開け、入室。
一人残された昴は、最後のシミュレーションを行う。
(ファーストコンタクトだ。ここが肝要、進退が決まると思え。)
席順は把握している。
彼女の席は正面から左の最奥部。
転入生が前の席というのは考えづらい、近くの席になる確率はそう低くないだろう。
性格は特に暗いわけではない様だし、転入生の立場を利用して質問がてらに接近できる。
とは言え初めから距離を詰めすぎて避けられたらアウトだ。
『皆さん、おはようございます!』
笹塚の声。
続いて生徒の、『おっはようございまぁぁああああす!!』
声で目の前のドアが振動する。
…なんか元気良すぎないか。
多少訝しんだが、構わずシミュレーションを続ける。
まずは自己紹介。ここは奇をてらわずに。本番はその後だ。
先ほど先生が何やら言っていたが、問題はないだろう。
目当てはあくまで比佐鷺柚葉、その他は眼中に無し。
『さて、皆さん。噂になってるとは思いますが、今日はこのクラスに転入生がやってきます!』
『イヤッホォオオオォオオオオオウ!!』
「!?」
ドアどころか後ろの窓ガラスまで振動した。
いや…ちょっと元気良すぎないか。
『龍宮ァ!うるせぇぞオラァ!』
『だって!転入生!この時期に!テンション上がるゥウウウウアアア!!』
『お前はいつでもそのテンションだろうがァ!』
『お前も五月蠅いよ宇佐』
『アァ!?誰だ今ウサミンって言った奴は!?人参突っ込むぞオラァ!』
『誰も言ってないです。』
『突っ込む!?人参を!?どこに!?』
『落ち着いて吉良。涎でてるから。』
『男か女かどっちかな〜できれば見た目年齢12歳ぐらいの子がいいなーッ!』
『黙ロン。』
『黙ロン。』
『朝から元気な事だな。ほら王手。』
『むッ…やるな…』
『うるせぇなぁ、人が飯食ってんのに。ズゾゾーッ!』
『いや飯食ってるお前もおかしい。しかもラーメンて。』
俄かに教室が騒がしくなるが、
『全員静粛に!先生がお困りだ!』
凛とした女の声。
その声と共に水を打ったように静まる。
なる程。確かに個性的だ。
最後の声と同時に膨れ上がった気迫。昴は強烈に感じ取った。
朝のあの眼鏡男と同質の、いわばカリスマのようなものだ。
これまで殺してきた人間の中にも、ああいう性質を持ったのは何人かいた。
主に組織の首領、企業の社長、ヤクザの組長、マフィアのボス。
ただ、この女。そしてあの眼鏡男。
この二人と比べたら、今までの連中のなんと小さな事か。
『あはは…すいません朱音さん。』
『いえ、委員長の務めです。』
…いけないな。
こんな殺伐思考では怪しまれる。
なるべく標的以外とは近づきたくはないのだが…
周囲と壁を作るのも不味い。
「転校初日の慣れない学生」を演じきるのだ。
こういう潜入自体は初めてではない。やれるとも。
『さて、気を取り直して。それでは伏見くーん!入ってきてください!』
深呼吸。
半秒目を閉じ、開く。
眼前のドアに手を掛け、開く。
瞬間感じる無数の視線。
敢えて視線を外し、真っ直ぐ教壇に向かう。
体の緊張は隠さない。転入生ならば自然の動きだ。
そして教壇に立ち、初めてクラス全体を見渡―――
「―――」
クラス最前列、中央。つまり教壇の真正面。
そこに座る女生徒を見て、昴の思考は2秒間全停止した。
なぜなら女生徒の顔には、鼻から上を覆う、真紅の仮面が鈍く煌めいていたからであった。
そしてそこから感じるのは、まごうこと無く先の威圧感。カリスマオーラ。
先ほどの笹塚の言葉がリフレインする。
「多少個性の強いクラスですけど」
(どこが多少なんだよォオオ…ッ!)
決して表情には出さず、昴は脳内で絶叫した。
【天宮学園】
私立高校。
創立は戦前。
代々貴族の子息達がここで学び育った。
現在は広く門戸を開き、一般家庭の生徒も多い。
数々のVIPを預かる性質上、情報の機密性が保たれており。
表沙汰にできない状況の生徒もいるという噂。
普通課と特進課に分かれている。
もっとも、特進課に選ばれる基準は学園への寄付の有無である為特別優秀というわけでは無い。