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( いらっしゃい、透子ちゃん。何にもないけど、ゆっくりしていってね )

( いやあ、女の子がいるだけで、家が華やぐなあ )

( 透子ちゃん、良かったら晩御飯食べていってくれないかしら。実はもう用意しちゃってるの )

( 透子ちゃんもう、うちの子になっちゃいなよ )


 胸に残る笑顔が、耳に思い出を蘇らせる。その残響に自然と浮かんだ笑みを、トイレから響いてきたジャーっという情緒の欠片もない水音が流し消した。

「透子、昼飯食った?」

 トイレから出るなり廊下から声を投げてきた皐月に、「まだ」と短く返しながら、正していた姿勢を崩して立ち上がる。隣室に戻れば、ちょうど同じく皐月も戻ったところだった。

 何とはなしに互いに見合わせた顔に、皐月がふと、目元と口元を小さく綻ばせて緩く笑う。見慣れたその表情。基本的に、皐月は昔とあまり変わらない。勿論、高校生の頃は髪は短かったし、目も鼻も口もずっとあどけなく、今みたいに笑うと生じる皺もなかったが。そういった部分部分は変わっても、全体的にはあまり変わらない。まるで、この部屋みたいだ。

「なによ?」

 そんなことを思いつつ、微笑んでくる皐月に眉間を険しくして言う。皐月はやっぱり緩く笑いながら、自分の鼻を指した。

「透子、鼻真っ赤。可愛い」

「うるさいわね、仕方ないでしょ。外寒かったんだから」

 笑う皐月を軽く睨んで、私は炬燵の上に放置されていたゴミをゴミ箱に捨てた。

 大して色白でもないくせに、私の鼻は寒いとすぐに真っ赤になる。みっともないし、小さい頃結構からかわれたこともあって実はちょっとコンプレックスだったりしたのだが、皐月は昔からそれを可愛いと言っては笑う。やめてと言っても言う。おかげさまでもう慣れた。

 そのまま皐月に顔は向けずに、そそくさと炬燵に足を潜り込ませ、炬燵脇に置かれたポットと茶器セットに手を伸ばしてお茶を淹れる。まさに、勝手知ったる何とやらだ。皐月は皐月で、そのまま台所へと姿を消しながら、声だけを寄越す。

「寒い思いをして、昼もまだな透子に、ちょうどいいものがあるよ」

「ちょうどいいもの?」

「七草粥。胃袋からあったまるよ。食べるでしょ?」

 いつもの調子で訊いてくるその声に、私は手を止めて、顔を台所のほうへと向けた。

「うん。あるなら食べるけど。てか、なんで今更、七草粥?」

「なんでって、透子が来るし、ちょうどいいかなと思って」

 素朴な気持ちで尋ねた事柄だったけど、返ってきた答えが素敵に意味不明だ。何がどうちょうどいいのか、全く分からない。今日はもう十八日だし、七草粥は別に私の好物というわけでもない。皐月は昔からたまに脈絡なく、奇妙なことを言ったりしたりする。

「皐月、知ってる? 七草粥って普通、一月七日の朝に食べるものなのよ?」

「大丈夫、大丈夫。旧暦じゃまだ一月七日過ぎてないし、セーフだよ」

「セーフって……。そういうものじゃないでしょ」

「別に七日の朝以外食べちゃ駄目ってこともないんだし、要は気持ちでしょう、気持ち。今年も一年無病息災で過ごせますようにってさ」

 言いながら、皐月が台所から戻ってくる。どうやらその七草粥は今、コンロの上で温められているらしい。慣れた動作で炬燵のいつもの定位置、私の正面に座りながら、皐月は言葉を続ける。

「それに透子、今年は年始から旅行行ってたし、食べてないでしょ? だからさ。透子には元気でいてもらわないと色々困るしね、僕が」

「あっそ。じゃあ私も、あんたの無病息災を祈って食べてあげるわよ」

 真正面から皐月の視線を受けながら、私は出来るだけ素っ気無く言葉を返した。うっかりにやけそうになる顔を隠すべく、湯飲みを口に持っていく。

 別に七草粥を食べたからって、一年の無病息災が約束されるわけじゃない。だけど、皐月が私を思って七草粥を作ってご馳走してくれるというのなら、私はそれだけで元気に一年過ごせよう。内心でそんなことを考えている自分に軽く呆れ、ずずっとお茶を啜る。いい年こいて、いつまで乙女なんだ、私は。

 自分への呆れをお茶と一緒に流し込んで、話題を変える。

「そういえば最近、真生来た? ちゃんと元気にしてるの、あの子?」

「うん、元気だよ。今は人探しで忙しくしてる」

「人探し?」

 きょとんとする私に、皐月は自分用のお茶を新たに淹れながら頷いて返す。

「うん。三百年指輪に封印されてた女の子とね」

「は?」

「多分そのうち透子も会うことになるんじゃないかな。まあ、いい子だから大丈夫だよ」

「………あっそ」

 何の話なんだかさっぱり分からないものの、諦めも手伝って、私は適当に相槌を打つ。皐月が脈絡なく奇妙なことを言ったりしたりするのは今に始まったことじゃないが、それにしてもいい年こいて、いつまで不思議くんを素で行くつもりなんだ、こいつは。

 私は炬燵に肘をついて、軽い溜息を吐いた。

「真生に言っておいてよ。たまには私のところにも来なさいって。あの子ってば、一人暮らし始める時にちょくちょく顔見せるように約束させたのに、連絡も殆ど寄越さないんだから。最後に会ったの、去年のお盆よ?」

 愚痴る私を目に、皐月は気持ち眉尻を下げて困ったように笑う。

「真生くんも色々忙しいんだよ。それに多分だけど、あの子、少し僕に遠慮してるんじゃないかな」

「遠慮?」

「透子はもう僕のだから、あんまり甘えちゃいけないって、どっかで思ってるんだと思う」

「……馬鹿じゃないの」

「まあ、それだけ真生くんも大人になったってことなんじゃない? 透子からしたら寂しいだろうけど、これも成長の証だと思って、寂しいのは僕で紛らわしてよ」

 さらりと言って、皐月は何食わぬ顔で湯飲みを口に持っていった。私はその顔を見ながら喉元まで出掛かった言葉を、目を逸らすことで押し留めて、代わりに違う言葉を口にする。

「そろそろ、お鍋焦げてるんじゃないの」

「おっと」

 両手を炬燵につき、おっこらしょと年寄り染みた掛け声と一緒に立ち上がり、皐月が台所へ消えていく。その後姿を何とはなしに眺めながら私は、先ほど押し込んだ言葉を心の中だけで呟いた。

 寂しさを紛らわせているのは、どっちだ。


 彼らがいた頃、度々この家を訪れるようになって、私は自分の勘違いを思い知らされた。いくら学校で長い時間一緒にいて、他の女子より仲良くしていようとも、皐月の重心、心の中心は、ここにしかなかった。

 あの頃の、十代の少年だった皐月が想っていたのは、私ではない。真帆さんだ。思春期特有の激しさと一途さと愚かさで、皐月は彼女に恋をしていた。大好きなお兄さんのお嫁さんである、彼女に。

 女の子に対して無関心に見えたのは、もう既に、特別な人がいたからに他ならなかった。私は初めて皐月の気持ちに気づいた時、本気で愕然としたが、もう遅かった。私は私で既に、皐月に恋をしていたのだ。それこそ、思春期特有の感情の強さで。

 あの頃皐月が、キャンパスに描き出していた強い光と影。あれはきっとそのまま、あの頃の皐月の心だったのだろう。愛情と恋情の狭間の煉獄で苦しんでいた皐月だからこそ、あの鮮烈なまでの光と影を表現することが出来ていたのだ。

 しかしながら、皐月が何よりも大切に思って大事にしていた彼らは、ある日突然、いっぺんに消えてしまった。大学二年の冬だった。

 事故の後、暫く皐月は本当に抜け殻だった。魂が抜けたようなという表現があるが、まさしくそんな感じだった。私は出来る限り傍にいたが、結局何も出来なかった。皐月に魂を戻したのは、真生だ。あの子だけが、皐月をこの世に留めることが出来た。弥生さんと真帆さんの忘れ形見である、あの子だけが。


 今が未来だったあの頃から、もう二十年近く。あの事故以来、皐月は絵を描かなくなった。大学を辞めて働かなきゃいけなかったからではない。恐らくもう描けないのだ、皐月には。光も、影も、もう何も。

 そうして気がつけば、いつも絵の具の匂いをさせていた青年は消えて、いつのまにか目尻に皺ができる中年男になっていた。学生だった私は、いつのまにか美術の教師になっていて。真生なんか、ついこの前ランドセルをからってはしゃいでいた気がするのに、いつのまにかもう大学生で。そんなふうに時間というものは一定の速度で少しずつ、いろんなものを変えていく。私と皐月の関係も、そんな時間の中で少しずつ変化して、ようやく私が望むものに変わった。

 だけど、そうやって変わっていく時間の中にあっても、けして、変わらないものもある。

 彼らがいたあの頃のまま、何も変わらない部屋の様子を軽く見回し、私は僅かに目を伏せた。そのまま静かにお茶を啜る。

 皐月はけして、この部屋の内装を変えることはないだろう。この先もずっと。二度と絵を描くことがないのと同じように。



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