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オリジナル現代ファンタジー『精霊奇譚』のサイドストーリーで、皐月と透子(とおこ)という名の女性のお話です。※本編の主人公や精霊達は登場しません。
山茶花、山茶花、咲いた道。
と、思わず童謡を口ずさみたくなるほど、花が咲き誇っている山茶花の垣根を目に、溜息をひとつ。
盛りの時を過ぎた山茶花の花はそれでも、濃い緑の葉を引き立て役に、いまだ競い合うように花開き、そして、開いた順から競い合うように、その大量の花びらを遠慮なく地面に撒き散らしてもいる。
私は正直、あまりこの花が好きではない。
垣根の下、側溝の蓋を覆い隠すように散り積もる花びらを横目に、住居側の玄関に面した門を開ける。いつもなら、店舗側の出入り口を利用するのだが、定休日の今日、生憎とあちら側はシャッターが閉まっている。おかげで、いつも車を停める百円パーキングから少し遠回りしなきゃいけなかった。
一瞬強く吹いた寒風に体を縮め、城戸と彫られた表札の横にある、今時カメラもついていない音声のみの古いインターフォンを押す。ややあって響いてきたのは、聞きたかった声。
『はい』
耳に馴染んでいるその声に、私はマフラーに埋めていた顎を少し上げ、手短に告げた。
「透子」
『鍵開いてる』
間を置かず返ってきた答えに溜息をまた零して、玄関のドアノブに手をかける。手袋をしていない手に、冷え切ったドアノブが容赦なく冷たい。
「鍵くらいかけなさいよ。ほんっと無用心なんだから」
中に入り、鍵をかけながら聞こえるように小言を言えば、それを掻き消すように、廊下の奥の襖ががたごとと開いた。
「やあ、おはよう」
立て付けの悪い襖の向こうから現れ、間延びした声でそう言ったロン毛の中年男に顔を向ける。着古した藍色の作務衣に、いつぞやか私が買ってあげた綿入れ半纏を纏い、やや猫背で顔を向けてくるその顔には今朝剃らなかったのだろう髭が、遠目でもうっすらと見て取れた。いや、髭どころかこの男の場合、顔を洗ったかどうかも怪しい。
「おはよう。もうすぐ正午だけどね」
いくら休日とはいえ、私が来ると知っていてのその出迎えに肩を落とし、淡々と言葉を返す。皐月は気にする様子もなく、寒そうに半纏の袖に両手を入れて猫背を更に丸める。そして、
「ああ、もう昼かあ。どおりで腹が減ったと思った」
そう納得顔で言うなり、「トイレ、トイレ」と私に背を向けた。遠ざかるその背に、もはやかける言葉もない。
呆れなのか鬱憤なのか、よく分からない気持ちは慣れでやり過ごして、靴を脱いで上がる。習い性で口から出た、お邪魔しますという言葉に返る声などありはしない。今現在この家には、トイレで大だか小だかをしている皐月しかいないのだ。数週間ぶりに顔を合わせる恋人に遅い朝の挨拶をする前に、「いらっしゃい」くらい言ったらどうなのか。「会いたかった、待ってたよ」なんて優しい言葉は期待しちゃいないが、せめて「よく来たね」くらいは。まあ、出迎えてくれただけいいほうか。トイレに行くついでだったとしても。
マフラーを外し、廊下の奥、今しがた皐月が出てきた部屋へと向かう。恐らく自分の部屋の次に慣れ親しんでいるその部屋は今日も、初めて訪れた二十数年前のその日と殆ど同じ姿で、私を迎え入れた。古びた棚付き箪笥に、炬燵、電話台、電気の傘、店舗との仕切りになっている引き戸の磨硝子。何も変わらない。テレビやヒーターといった一部の電化製品はあの当時とは別のものだが、他は配置すら変わっていない。
つけっぱなしのヒーターの温風を感じながら、かじかんだ手で脱いだコートと鞄を炬燵の横に置く。その際に目に付いた、炬燵の上の蜜柑の皮やら丸めたティッシュやらのゴミに軽く息を吐きつつ、いつもの流れで隣の和室へと足を向ける。
ぬくぬくに温まっている隣室とは違い、ひんやりとした空気が鎮座するそこで、することはただひとつ。私は静かに、仏壇の前に腰を下ろした。視線の正面には、こちらに向かって静かに微笑む人達の写真。もはや服の皺の位置すら覚えてしまっている写真の中の彼らは、今日もあの頃のままの姿で、ただじっと、変わらぬ微笑を浮かべている。私はそれを少し見た後で、お線香に火をつけて、手を合わせた。
私が初めてこの家を訪れた頃、この家には皐月の他に後二人、住人がいた。皐月のお兄さんの弥生さんと、そのお嫁さんの真帆さん。店舗を兼ねたこの家には、いつも彼らがいた。この部屋はいつも、彼らが作り出す明るい笑い声と暖かな空気で溢れていた。
私と皐月は当時、同じ高校に通っていて、一年生の時から同じ美術部に所属していた。皐月はその頃からひょろひょろと背だけは高かったものの、あまり目立つことのない地味な男子で、反対に私は学級委員や生徒会活動に忙しい、どちらかと言えば目立つタイプの快活な女子だった。ある意味正反対の性格の私達だが、私は皐月が好きだった。といっても、最初から恋愛感情で好きだったわけではない。皐月の描く絵が、純粋に私は好きだったのだ。
デッサン力もさながら、皐月は色彩の捉え方というか、光と影の表現が卓越していた。皐月がキャンバスに描き出す明暗には、他の誰にも真似できない鮮烈さがあった。事実、皐月の絵はコンクールなどで度々入賞していた。城戸画伯。私はよくふざけて皐月をそう呼び、からかっていたが、実際その才能に、同じく絵を描く者として崇拝にも似た憧れを抱いていた。だから、校内で皐月を見かけるたび、しょっちゅう私は自分から、皐月に絡みに行っていた。今思えば、あの頃の私はそれこそ、構ってもらいたくて仕方がない犬のようだった。
皐月はその頃から既に、なんというかマイペースで、女子に対して同年代の男子のように浮き足立ったところも、ぎらついたところもなく、とかく淡白で、もしかして女の子自体に興味がないんじゃと疑いたくなるくらい、無関心だった。少なくとも、その頃の私の目にはそう見えていた。そんなふうだったから最初のうちは当然皐月は私にも、かなり素っ気無かったのだが、廊下や部室で度々私に絡まれ、そのうちに、クラスが違うのに教室にまで出没しては絡み始めた私に、少しずつ気を許すようになり、高校生活も二年目の夏になる頃には、少なくとも他の女子よりは多少関心を持ってくれるようになっていた。
人間というのは不思議なもので、相手にとって周囲の者より自分が僅かでも特別であると感じると、それだけで、周囲には妙な優越感を、相手には不相応な独占欲を抱いてしまう。私の場合、その独占欲は恋心という形で現れた。都合のいいことに、皐月は他に仲の良い女子もいなかったから、周囲には、私と皐月は付き合っていると思っている人達も少なくなかったし、私も、言葉ではっきり告げたり、告げられたことはなかったものの、皐月も自分と同じ気持ちだと勝手に思っていた。
だけど、高校三年生になる春休み。デッサン集を借りるために初めてこの家を訪れ、それを機に度々通うようになってから、徐々に私は、全部が全部、自分の勝手な勘違いだったことを思い知らされていったのだ。




