浮人形
浮人形…行水のときに子供が水に浮かべて遊ぶ玩具の総称。晩夏の季語でもある。現在でも子供向けの入浴剤とセットにした商品が販売されており、ポリエチレンや塩化ビニールや発泡スチロールなどのごく軽い素材が一般的。
東京に越してきて早1ヶ月。
別に東京に来たかったわけではないが、サラリーマンとしては転勤の辞令を受ければ、どこへでも行くしかない。
東京は人が多すぎて疲れるから嫌だった。
だが、今のご時世断るなんて選択肢はあり得ない。しかも東京本社への転勤といえば栄転だ。
本社へ行きたい人間は大勢いるのだから文句なんか言えば罰があたるってものだ。
うんざりしながらも東京生活を始めるしかなかった。
そんなある日、休日を利用して東京見物のため渋谷までやってきた。
なぜ渋谷なのか。
それは自分でも不思議なのだが、雑誌で見た「全国でも珍しい日本狼の狛犬」がどうしても気になったのだ。
その雑誌によると、珍しい狼の狛犬がいるのは宮益御嶽神社と記載されていた。そこでその狛犬を見るため渋谷までやってきたのだ。
山手線に限らず、東京というところはどの駅を降りてもとにかく人が多い。
渋谷も駅を出ると大きな交差点があり、やはり凄い人の量だ。
人混みが苦手なのにこんなところに来てしまうなんて……
少し後悔しながらも交差点で信号が青になるのを待つ。
7月も終わろうとしている東京の夏。天気予報での予想気温も今日は35度まで上がると言っていた。 直射日光に肌が焼ける。素肌を露出している部分が、じりじりと焼かれる音が聞こえてきそうなほど痛い。
ハンカチで拭っても拭ってもとめどなく噴き出す汗が、肌に服をまとわりつかせて気持ちが悪い。
交差点の向こう側にもたくさんの人がいるが、みんな日傘をさしたり、団扇であおいだり、汗を拭ったりと暑そうにしている。
そうして何気なくそちらの方を見ていると、その中にひと際存在感のある女性を見つける。
何がどうとは説明できないが人混みの中にあって何故か際立つ存在である。
その女性は暑くないのだろうか?ともすれば秋物に見えるような、濃い茶色のワンピースを着ているにもかかわらず、涼しげに立っている。何故かその女性から目を離すことが出来ない。
不思議な気持ちで女性を見ていたが、信号が青に変わると一斉に人の波が動き出す。
その人波に遮られ一瞬目を離した隙に、その女性は人波の狭間に消えてしまった。
私は交差点を渡りながら懸命に見失った女性を捜すが、見つけることができない。
私は仕方なく目的地である宮益御嶽神社へ歩きだす。
宮益御嶽神社の入口は、宮益坂に面するビルの間にあり、少し分かりにくい。
雑誌にあった地図の記憶を頼りに石段の参道を見つけ、その石段を上ると境内への道があり拝殿へと続く。
拝殿前に目的の狛犬がある。
雑誌で見てからというもの、どうしても来てみたいと思っていた宮益御嶽神社だが、実際きてみると何も感じない。
不思議だ、なぜあんなにここに来たいと思ったんだろうか?
本殿を一回りしたがやっぱり何も感ずるものがない。しかしせっかく来たのだからとお参りをして、来た道を引き返す。
と、その時。
石段の参道を下りる女性を見つける。
私は心が高鳴るのを感じる。あの後ろ姿…… 交差点の反対側から見ただけなのに、その後ろ姿の女性があの女性だと確信を持っている。
大急ぎで走って石段の坂まで戻るが、もうその女性の姿はなかった。
とにかく参道を下り辺りを見回すがやはりその女性を見つけることは出来なかった。
しばらく周辺をうろうろしていたが、いつまでもこの辺りにいても仕方ないので帰ることにする。
宮益御嶽神社へ来ること以外、特に目的もなかったし、今からどこかへ行ってもよかったのだが、結局東京というところは、どこもかしこも人だらけで疲れるだけだ。
そう考えここから直接家まで帰ることにした。
家には、渋谷から山手線に乗り、新宿で東京メトロ丸ノ内線に乗り換えて荻窪まで約20分の道のりだ。
荻窪は快速が停まるのだが各停とは5分ほどしか違わないため駅に着いて先に来た電車に乗るようにしている。
新宿に着くと各停の電車が停まっていたので乗ろうとしたが、丁度快速がやってきて、その快速の発車待ちだったため、快速に乗ることにする。
荻窪まではすぐなのでドアの前に立つ。そして電車が動き出した時、鋭い視線を感じて先ほど乗ろうとした各停電車を見る。と、あの女性がいた。
先ほどは後ろ姿だったが今度は正面だ。しかも明らかにこちらを見ている。完全に目が合っているのだ見間違いではない。
しかし動き出した電車の中ではどうすることも出来ず、結局荻窪まで帰ってきてしまう。
荻窪の駅で降り、先ほどの女性を気にしながらも、徒歩で10分程にある自宅マンションへ向かう。
自宅と言ってもここは会社が独身者用に借りているマンションだ。
以前は東京本社に勤めていた誰かが使っていたのだが、私と入れ替わりで出て行ったらしい。
マンションの1階はコンビニエンスストアになっており、そこでビール2缶とちょっとしたつまみに雑誌を買ってエレベーターへ向かう。
このマンションはおしゃれでエレベーターがガラス張りになっていて外が見えるようになっている。
そのエレベーターを使い私の部屋がある23階のボタンを押す。23階の1フロア8室全てが会社の持ち物となっている。
その時また視線を感じた!
エレベーターの中、ガラス越しに外を見ると、マンション前の歩道から誰かがこちらを見てる。
あの女性だ。顔ははっきりと見えないが私は確信する。
しかし…… あんな場所から私が分かるのだろうか?
それよりも今日一日ずっとあの女性が俺の周りに居る。なぜだ?
初めはなんとなく興味を持ったが、今は……
完全に私をつけいる、私を見ている。そしてあの電車での鋭い視線。それらを考えると逆に恐怖すら感じる。
私は言い知れぬ恐怖に駆られエレベーターを降りると走って自分の部屋である2311号室に向かう。
こんな時に限って鍵が見つからない。何度もポケットを探し、やっと探り当ててドアに鍵を差し込む。
後ろでエレベータが動くモーター音が聞こえる。
エレベーターは2基ある。しかも高層マンションだ。常に動いていてもそれほど不思議ではないが今は何故かすごく嫌な予感がする。
鍵を開けた私は大急ぎでドアを開け中に入ると震える手で鍵を閉めチェーンをかける。
そしてドアに耳を当て外の様子をうかがう。
エレベーターが開く時に鳴る音がかすかに聞こえる。
どうやらこの23階で止まったようだ。
ドアノブを両手で押さえながらさらに神経を集中させて様子をうかがう。
両手は汗でびっしょりだ。暑さのせいではない。
しばらくじっと聞き耳を立てているが、その後何の音も聞こえない。
どうやら思い過ごしか……
そう思い、一つ息をつき玄関で靴を脱ぐ。
玄関からは廊下がのび、突き当たりがリビングになっている。
廊下の左手には風呂とトイレが、右手には6畳の部屋が1つある。
私はとりあえずリビングに向かう。
そしてリビングのドアを開けた時、心臓が止まりそうな衝撃を受ける。
あの女性がリビングの中央に後ろ向きに立っているのだ。
私は女性を指さしたまま言葉にならない声を弱弱しく発しながら硬直してしまう。
女性はゆっくりと私に向き直る。
そして一言……
「あなた…… 私のこと見えてるよね?」
「あ、あ、ああ…… 見えてる」
なんとかそれだけ発声することができた。
「よかった……」
そう言うと、その女性は満足したようにスッと消えていなくなった。
女性が消えたと同時に、体の硬直が解けた私はその場に座り込む。
あの女性は誰だったんだろう……
ふと見ると、先ほど女性が立っていた場所に、日本狼をかたどった狛犬の浮人形が落ちていた。
震えの止まらない手でその人形を掴む。
後日、ひょんなことからある事実を知ることとなる。
東京本社で仲良くなった同僚を家に招いた時のことである。
「お前、この部屋なの?」
「そうだが…… 何か問題でもあるのか?」
「だってお前…… ここは、以前住んでた女性が自殺したってんでずっと使われてなかったはずだぜ?」
どうやら私の前に、この部屋を使っていたのは女性で、自殺をしたらしい。
しかも、あの宮益御嶽神社の拝殿近くの木を使っての首つりだったようだ。
女性はいわゆるキャリアウーマンで、若くして課長になったものの、あるプロジェクトで会社に多大な損害を与え、一線から外されたようだ。
それによって直属の上司にまで疎まれ、早い出世を妬んでいた同僚達からも無視されるようになり、最後は窓際へ追いやられ、誰も彼女に話しかけることもなったようだ。
遺書はなかったらしいが、全員から無視され続けたことが自殺の直接の原因と噂されているらしい。
同僚からそれを聞いた私は、もう一度あの場所へ行くことにした。
境内では、あの日部屋に落ちていた物と同じ浮人形が売られていた。
あの女性は何かを訴えかけたかったのだろうか?
私があの女性を雑踏の中で見つけ、もう一目見たいと捜したことで満足したのだろうか?
未だに謎のままだが、あの日以来彼女を見たことはない。