EPISODE84:戦慄のクモ地獄
翌日、早朝。暖かい日光が差し込む警視庁の廊下を一人の男が歩いている。前髪にピンク色のメッシュを入れた青い髪にピンク色の瞳をした男だ。
凛としたその瞳を隠すように知性的な輝きを放つ、銀縁のメガネをかけていた。いつも軽い調子の彼だが、今回は凛々しく真面目な表情を浮かべており、いつものおちゃらけた雰囲気を微塵も感じさせなかった。
「きゃっ」
「ご、ごめん」
しかしながら婦警や上司に肩がぶつかれば慌てふためきながらもちゃんと謝る姿は、いつもの彼らしいといえる。
そんな軽い調子が抜け切らない、冴えない男である彼――村上翔一が向かうは、捜査一課の先にあるエレベーター。
エレベーター内で特定の数字を打ち込み、地下へ地下へと下っていく。エレベーターを降りた先にあったのは――警視庁が誇るシェイド対策課の本部。東京二十三区の様子を一度に見渡せるモニタールームをくぐり、主要メンバーが集う会議室の扉を開く。
己の席について、戦闘部隊、オペレーター、調査班――全員そろっている事を確認する。
「……全員そろっていますね。では、これより作戦会議を行う!」
この中には年下の者はもちろん、彼より年上かつ経験豊富なものも少なからずいた。村上はいつも、そんなプレッシャーと戦いながら的確な指示をこなしてきた。
今でもベテランの突き刺さるような厳しい視線に威圧感を感じるが、それでもこの職についた以上はそれしきのことで屈するつもりはない。
シェイドに屈さず、上からのイヤガラセやプレッシャーにも屈さず。――それが、シェイド対策課主任を続ける条件だ。
「先日から池袋、新宿、渋谷――この3つの副都心を中心にクモ型のシェイドが発生しています。調査班の報告によれば、大きさは約1メートルから2メートル弱。立ち上がれば我々人間とだいたい同じぐらい。そして調査の結果、そいつらは都内の下水道で繁殖しているということがわかりました。そこで皆さんに――」
「主任、他にそいつらの特徴は!?」
話しに割って入るように戦闘部隊の男性が手を上げた。目を丸めた村上は眉をしかめながら、別の資料を手に取り
「奴らは硬い外殻に覆われている。唯一カラに守られていない腹部や頭を狙えば倒せる……かもしれない」
胸を張って特徴をなるだけ簡単に説明する。語尾がやや頼りなさそうに感じられるのは、きっと気のせいであろう。
説明を受けて満足した隊員は軽く礼を告げる。他に質問があるものはいないか聞いてみるが、先程の男性以外には誰もいなかった。
「……質問は以上でよろしかったですか?」
「はい」
「わかりました。……では、これより本題に移ります。複数の場所でシェイドが発生している以上、戦力をひとつだけに固めておくわけには行かないですよね? そこでシェイドが発生した地域の数だけ戦力を分散させます。そこで皆さんには池袋に向かうA班と新宿に向かうB班、そして渋谷に向かうC班――この3つのグループに別れていただきたい」
「だが村上君、敵が強かった場合はどうするんだね? 君の案は確かにいいアイディアかもしれないが、そいつらは仮に少人数で相手をしても本当に大丈夫なのか?」
年配の刑事(所轄のベテラン)が村上に抗議する。正直所轄の仕事はどうだっていいと村上は思ったが、そのような下品な言動はとりたくないのでここは耐えることにする。
「ご心配なく。今回の作戦におきましては出来る限り強力な武装とありったけの銃弾を用意してあります。必要とあればレールガンや焼夷弾、特殊ガス弾やマイクロミサイルといった兵器類を使用しても構いません」
立ち上がった彼は胸を張って自信たっぷりにそう返答。他のものからすればやや鼻につくような態度だったが、それも己に対する絶対の自信から来るものだった。
エスパーでなくとも対シェイド用にカスタマイズ及び開発された武器を使えば討伐すること自体は可能だということは、これまでの戦闘で証明済み。
今回思いついた作戦は、少々、いや――かなり危険な賭けだ。この前のように巧くいかないかもしれない。それでも今は、やるしかない。
すべては市民を怪物の脅威から守るため、手段など選んでいる場合ではない。かつて善のエスパー、悪のエスパー、そしてシェイドが三つ巴の戦いを巻き起こした時、警察は無力で何も出来なかった。
しかし、シェイド対策課本部が本庁に設置された今は違う。今は生き残るためなら何でもしなければいけない時代なのだと――そう村上は考えていた。
「しかしその手の武器を使えば街に甚大な被害が……!」
「あなたのような歴戦の猛者が、何を今さら臆病風を吹かせているのです? わけのわからない怪物に壊されるよりはマシでしょう! なんなら自衛隊から許可をもらって核兵器や戦車でも持ち出しますよ」
「ふざけないでくれ! 君は東京を吹っ飛ばしたいのか!?」
今度は初老の警察官僚が抗議を申し立てる。このままでは収拾がつかなくなる! 眉をひそめ、メガネのブリッジを上げると「静粛に」とこの場に全員に言い聞かせ落ち着かせる。
初老の官僚はまだ、ほとぼりが冷めていないようで厳めしい顔をしていた。咳をして一旦呼吸を整え、
「――とにかく、今は攻めるべきなのです。多少強引な手でなければ奴らには勝てません。会議はここで終わりにしましょう」
強引に話を切り上げて会議の終了を告げた村上は、そのまま会議室を出て行く。そんな彼を見て心配になった黒髪赤眼の婦警――宍戸も会議室を飛び出す。
向かった先はモニタールーム――ではなく、外においてある大型トレーラーだった。数台あるそのトレーラーの内部にはモニターや武器庫が設けられており、大型自動車であることを忘れてしまいそうなほど広かった。そのうちの1台に、宍戸と村上はいる。他にはオペレーターや待機中の戦闘部隊メンバーがそこにいた。
「警部補っ! いいんですか、無理矢理終わりにしちゃって!」
「大丈夫だよ、宍戸ちゃん。ああいう頭でっかちなジジイどもにはあれぐらいキツく言ってやらなきゃ」
「でも、そんな言い方は……」
「そうは言うが、最近の政治家を見りゃ分かるけどね。今のご時世お偉いさんは口ばっかりだ。シェイドというのがどれだけ危険な化け物なのか、何もわかってない」
壁にもたれ、腕を組みながら村上が語る。その表情は警察の上層部――ならびに、ここ数年の日本における政治界の内情に嘆き、呆れがついているようだった。
彼が言うように近年の政治の状況はあまり褒められたものではない。トップはほぼ毎年交代し、誰も彼も必ずといっていいほど問題発言を口にする。
とある総理大臣が辞任したのをきっかけに、連鎖的にこんな信じがたいことが起きている。たとえるならば、うっかり踏んでしまった地雷が連鎖的に爆発しているようなものだ。
もしかすれば日本列島も村上も、巧妙に仕掛けられた悪意ある地雷の中でも一番大きくて、危険なものを踏んでしまったのかもしれない。
「……まあ、愚痴っていても仕方ないか。宍戸ちゃん、他のトレーラーにいるメンバーと連絡を取ってくれ。オペレーションも頼むぞ」
「わかりました」
宍戸が頷く。彼女はすぐ席に着いてモニターに向き合う。
「要、落合! 君達もオペレーション頼む」
「分かりました、警部補!」
「……ここではチーフって呼んでくれ。それか主任で!」
「分かりました、主任!」
「よし、では持ち場につけ!」
要と呼ばれた女性と落合と呼ばれた女性がそれぞれモニターの席に座る。ちなみに要はピンク色のロングヘアーで、落合はきれいなエメラルドグリーンの短髪である。両者共に上司である村上からの信頼も厚い、優れたオペレーターである。
「準備完了だ。あとは……」
戦闘部隊のメンバーがいる控え室に入り、一人一人に準備が済んでいるか確認を取る。いずれも最新技術で作られた強化スーツに身を包み強力な武器で武装した強豪揃いだ。
そんな彼らに村上が確認したところどうやら全員OKだったようで、中には既に戦いたがっているものもいた。
「なんでオレまで……」
「全員OKだな。……ん? そこの隅っこでふてくされてるヤツは誰だ?」
「え? あ、ああ。あれは不破さんです」
戦闘部隊が着ている強化スーツはいずれも頭から足のつま先まで全身が入る設計となっており、誰が誰かを見抜くためには体格や癖に注目する必要があった。
さて、防御力と機動性を両立したこの強化スーツだが、部屋の端でふてくされている男――不破にとっては走りづらいらしい。事実、彼は念仏でも唱えるように『重たい』だの『さっつぁと脱ぎたい』だのと次々口にしていた。
「……ま、まあいいか。ともかく! 君たちは敵の巣がある下水道に突入することとなっている。敵は強大だ、心してかかれよ」
「ラジャー!」
気合の入ったかけ声と共に、戦闘部隊メンバーが一斉に敬礼する。ただ、一人だけやる気がなさそうに「へーい」と気の抜けた声を出しているものもいた。言わずもがな、不破だった。
そんな彼らを乗せたトレーラーは、目的地にして敵地である下水道の入口へと進んでいく。やがてシェイドの発生源であるそこにトレーラーが到着し、後部の重々しい扉が開く。
強化スーツに身を包んだ戦闘部隊が一気に降り立ち、下水道の中へと突入していく。この東京の地下に広がる水路の中は汚い下水に満たされているため非常に臭く、しかも生ゴミやヘドロが流れ付いていて不衛生だ。
バクテリアが蔓延しているとかネズミが病原菌を運んできているとか、ゴキブリがうじゃうじゃと群れを成しているとか、もはや『汚い』の一言で済むレベルではない。
「きったねーな……ちゃんと掃除とかしてるんですかね」
「するにしても、こんなに広くて複雑じゃあお掃除ロボットか何かに任せた方がいいんじゃないか?」
――などと冗談を交えながら、戦闘部隊(+不破)は強烈な悪臭と散乱するゴミの中を切り抜けていく。やがて彼らは、壁に大きな穴が開いた区画を発見する。
電車一本は入りそうな大きさで、天井も高い。そして何より――ココより先、恐ろしい『何か』が出てきそうな悪寒がする。
隊員たちは皆、覚悟を決めて唾を呑んだ。幸いここまでくだんのクモ型シェイドとは遭遇しておらず、誰一人消耗していない。
万全の状態が保たれているというわけだ。――下水やヘドロの猛烈な悪臭がついたままではあったが。
「こちら村上。レーダーが強力な反応を察知した……全員気をつけろ」
「……了解」
村上からの警告をあとに、彼らは大穴の中へ入っていく。下水道の横に無理矢理開けられたその穴は、まるで新しく出来た洞窟のようだった。
ひんやりとしていて、異様なほどに静まり返っている。コウモリは飛び交うし、遠くから水滴の音も響いてくる。一種の神秘的な雰囲気と不気味さ――その両方をこの大穴は醸し出していた。
穴の奥へ奥へと進むにつれ、そこかしこにクモの巣が張り巡らされるようになっていく。例のクモ型シェイドも出始め、隊員の緊張感は増していく。
「来るな! あっちいけ!」
人間一人分ほどはある大きさのクモが身軽に動き、噛み付いたり飛び掛ってきたり、捕食しようとその糸を絡めてきたり――。
しかしその度に彼らは銃や特殊警棒などで立ち向かい、駆逐してきた。ときには不破もその槍でクモをなで斬りにし、邪魔なものはどんどん駆逐していった。
やがて――大穴の最深部に戦闘部隊は辿り着いた。天井が非常に高く、まるで大きな空洞のようだった。そしてこの、静まり返った空気――。このとき全隊員が同じ事を考えた。
嫌な予感がする――、と。
「……ここにはオレら以外に誰もいないのか? ここまで静かだとかえって怖いぞ」
そう不破が呟いたその時――この場にいる全員が抱いていた『嫌な予感』が的中した。上から巨大な何かが降ってきたのだ。
「な、なんだコイツは!? クモの親玉か!?」
――全体的に黒ずんだ青紫色に染まった見上げるほどの巨体。緑色に光る複眼。鋭いキバ、大きく太い足と爪――。
一言で表すなら『異様な光景』だった。相手のその大きさときたら、体長約4メートルから5メートルほどはあった。その巨体と鋭い眼光、禍々しい外見が戦闘部隊を威圧し恐怖を与える。
「……ぐッ!?」
一瞬巨大グモの額から紫の波動のようなものが発せられたかと思えば、それと同時に不破の頭に激痛が走る。肉体にではなく、精神に攻撃を仕掛けているというのか?
――殺シタナ。ワタシノ 子供ヲ――
狼狽し激痛に悶える不破の頭の中に声が響く。それは重々しく低い女性の声だった。テレパシーか何かの類だろうか?
立て続けに予想外の事態が起こり部隊は混乱、経験豊富な不破もこれには動揺を隠せない。
「うっ……」
――許サナイ……ユルサナイ――
「あ、頭が」
―― コ ロ シ テ ヤ ル ! ! ――
「ぐああああああッ!!」
不破が頭を抱えて苦痛に叫んでいる間に、他のメンバーが巨大グモに蹂躙されていくのは時間の問題だった。
巨大グモの堅牢な体には並の銃弾は弾かれ、やわな刃物ではかすり傷ひとつつかない。対してクモが吐く毒液はいとも簡単に強化スーツの装甲を溶かし、その鎌の様に鋭利な爪はやすやすと強化スーツを切り裂き、穴を穿つ。
「はぁ、はぁ……くそッ!」
――死屍累々。ようやく頭痛が治まりまともに立ち上がれるようになる頃には、他のメンバーは皆血を流し息絶えていた。
「みんな先に死んじまいやがって! 残るはオレだけかよッ! ちくしょおおおおおおおおお!!」
あまりに絶望的な状況の中で絶叫しながら、不破は巨大グモに立ち向かっていく。たった一人でランスを手にしながら――。