EPISODE83:東條家にて
東條健の実家は、彼や母親が言っていたように浜大津の住宅街にある。
京都で借りているアパートの部屋に比べたら大きな家で一階には広いリビングや客室があり、二階には健の部屋、その姉である綾子の部屋や父と母の寝室がある。とはいえ、本当に何もかもが大きい白峯家に比べればまだ中くらいの大きさだったが。
「お母さん、健が帰ってくるってホンマ?」
「うん。さっき電話もかかってきたよ。せやからごはん作ってるんや」
「へぇー、そうなんや」
一階にいたのは黒いセミロングで活気がある女性と、おっとりした口調の黒いロングヘアーで前者より年上の女性――前者は健の姉の東條綾子。学生時代は軽音楽部と文芸部(+マンガ研究会)に所属していた。
活発で割とサバサバした性格であり、幼い頃からちょくちょく健を翻弄し時にはケンカすることもあった。そんなこともあってか今ではすっかり仲良しである。
現在は郵便配達屋として働く傍ら、趣味でギターや英会話を楽しんでいる。ちなみに今日は休みなので、こうやって家でくつろいでいるというわけだ。
後者は健と綾子の母である東條さとみ。割と控えめでおっとりした性格をしており、とても料理が上手い。
またご近所の旦那から羨まれるほどの美人であり、夫である明雄が生前によく周囲に自慢していたほど。彼とも仲むつまじく娘に息子と子宝に恵まれ、まさに幸せな家庭を築いていた。
明雄が行方不明になってからは健を女手ひとつで育て上げ、綾子もそんな母を出来る自分に限りの範囲で支援した。
紆余曲折を経て現在は綾子とともにやんわりとした平穏な日常を過ごしている。今でもその若々しく美しい外見は変わらず、周囲からも『和服を着たら絶対似合う!』と言われるなど高く評価してもらっている様子。
「あいつ今年に入ってから全然帰ってこーへんかったしなぁ。楽しみやわ」
「せやね〜」
両者ともに口元を上げて笑った。久々に健と出会えるゆえ、嬉しくてたまらないのだ。その為かどうかは分からないが、さとみは調理が弾んでいた。
「できたで〜」
そして完成。綾子にもそう告げてその完成した料理を持っていく。大きなざるにありったけ入った冷やそうめんだ。ちりばめられた氷がまた涼しげで食欲をそそる。
「スゴい量やな!」
「綾子も健もぎょうさん食べるやろ? お母さんそう思って多めに湯がいたで。それにみゆきちゃんも来るみたいやしなぁ」
にんまりとさとみが微笑む。対する綾子も心の底から嬉しそうな笑みを浮かべ、健の帰宅がより待ち遠しくなったことうけあいだ。
ラップを張り、そうめんを食べるための器も用意した二人はテレビを見ながら待ち続けることにする。やがて待ちきれなくなった綾子が「まだかー!?」と叫びながら容器をハシでドラムのごとく鳴らしはじめたが、すぐにさとみに止められた為しょんぼりした。
そうしているうちに――玄関のインターホンが高い音を鳴らした。ハッと振り向いた二人は緊張したのか凛とした表情を浮かべながら、玄関に赴く。恐る恐るドアを開ける、すると――そこにはいつになく嬉しそうに笑う健がいた! よく見れば彼だけではなく、みゆきや見知らぬ白髪の女性もいる。
「ただいまー!」
「お帰り〜! 相変わらず元気そうやな」
「えへへ、おかげさまで」
「あれ? お母さん、みゆきちゃん以外にあと一人いるけど……」
「言われてみれば」と口を細めたさとみが言う。確かに電話ではみゆきと一緒だと健は言っていたが、実際会ってみれば彼を含めて三人もいたではないか。しかも見知らぬ女性だ――だが、今更細かいことは気にしない。それに新しい友達かもしれないのに、彼女だけ追い払ったら可哀想だ。
「まぁ、ええやん。どうぞ上がってくださいまし〜」
「はーい!」
「お邪魔しまーす♪」
さとみがスッと身を横に引き下がり、それを合図に健とみゆきが靴を脱いで上がっていく。しかし、白髪の女性の様子がどこかおかしい。
先程までニコニコしていて乗り気だったのに、今は遠慮しているのか少しためらうような表情と仕草を見せている。
顔を横にそらしていてちょっと恥ずかしそうだ。気になったさとみが「――お姉さん、どないしました?」と声をかける。
「いや、その……本当に上がってもいいのかなって」
「何を言うてんの」
恥ずかしがる彼女を励ますように、綾子がそう言った。サンダルを履いて外に出ると彼女の肩をポンと叩き、
「そんな遠慮せんでええって。別に悪いことしませんし」
「は、はいっ」
「ほら、お姉さん上がって!」
精一杯励まし、女性を元気付ける。そして半ば強引な形で女性をグイグイと家の中へと連れ込む。全員家に上がったことを確認すると、さとみは家の扉を閉めた。
順番に手を洗った三人はささっと座り、手荷物を近くにおく。さとみや綾子も敷かれた座布団に正座して、皆で手を合わせる。
「いただきますっ!」
透明な器に注がれた赤茶色のめんつゆに無色の氷が浮かび、燦々と輝く。
そこへ運ばれる白く細い麺もまた美しい。色合いからすする音まで、これほどまでに清涼感を漂わせる食べ物がどこにあるだろうか?
「おいしーっ! さすがおばさま!」
「メチャメチャおいしい!」
「うむ、うまいっ! うーまーいーぞー!」
ひんやりとしていてのど越しもツルツル。
暑くなりはじめるこのシーズンにはもってこいだ。現に三人ともこの味を絶賛していた。小さい頃から世話になっている健とみゆきはなおさらそう感じている。
「せやろ? ウチのお母さんはミシュランもビックリの料理上手やからなー、ウチもどないしたらこんなにおいしくできるんかわからんのよ」
「うふふ。お肉と野菜もあるからそっちも食べてや〜」
さとみが作っていたのはそうめんだけではない。大皿に焼き肉のタレで味をつけた豚肉炒めと、千切りキャベツを盛り付けたものもそこにあった。
これもまた美味だったようで、健たちは再び歓喜の声を上げた。さとみの味付けや調理が上手かったのもあったが、理由はそれだけではない。
彼女の優しさと愛情も料理の中に隠し味として入っていたのだ。それを差し引いても料理好きのみゆきを唸らせるほどの腕前を持っているのだから、まったくもって恐れ入るというものだ。
その後も談話しながら皆で昼食を楽しんでいたが、気がつけばあっという間に食べ終わっていた。やや惜しまれるが、楽しい時間はあっという間に過ぎる――世の中はそんなものである。
「ごちそうさまーっ!」
正しい姿勢で手を合わせ、その場にいた五人が声を揃えて言った。感謝の意味合いも込めたこの一言だけでも、彼らが如何に清々しい気持ちで食べていたかがひしひしと伝わる。
「こんなにおいしいの久々や。お母さん、ありがとう!」
「どういたしまして〜」
腹がふくれた健が満足げに言った。こう言われた方も作った甲斐があったであろう。それだけおいしかったという事になるのだから。
全員一服してから食器を片付けると、ソファーに座ったり昼寝をしたりしながら各自のびのびとくつろぎはじめる。
「仕事のほうはどうや、健? うまくいってる?」
「うん、まあ。データ入力とか荷物運びとかが多いで」
「ええなぁ、あんたは気楽で。ウチなんか肩こるし、帰ってくる頃にはヘロヘロやし。めっちゃ大変やわ」
「たっ、大変そうですね……」
多少嫌そうな顔で肩を回したりため息を交えたりしながら、綾子はそう語った。
みゆきが心配する一言をかけたあと、綾子は「おかげで毎日I'm tired」と流暢な発音の英語も付け加える。
「そういうみゆきちゃんは何の仕事してたっけ?」
「ファミレスでウェートレスやってます」
「へぇー、そうなんや。毎日楽しいんちゃうか? 顔にもそう書いたるでー」
「えーっ。そんなことないです、むしろ大変なんですよ〜」
「そうなん? ちょっと考えすぎやったかなぁ……アハハ」
照れるようにみゆきが笑った。とはいえ、彼女自身も忙しいウェートレスの仕事を楽しんでいる節があるので、そういう点では綾子の指摘はあながち間違いでもない。
健、みゆきと話した綾子が――次に視線を向けたのは、今日で初めて顔を合わせた女性。入る前は気弱そうにしていたが、食事した辺りから緊張がほぐれたか今はほがらかな笑みをたたえている。全体的に漂うどこか浮世離れしたような妖艶な雰囲気に、綾子は引き寄せられていた。
「そ、そういえばまだきいてへんかった。お姉さん、名前はなんて言います?」
突然そう言われた白髪の女性がドキッ! 肩を震わせ、綾子に振り向く。なびいた長い髪がまた美しい。
「……し、白石です。息子さんと同居してます」
「白石さんやね。ウチは健の姉の綾子です」
「母のさとみです。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」と白石――と名乗った女性は二人に返事をする。
「しっかし、健と同居してるんか……」
綾子が顎に手を添え、しばし思考する。もしかしたらデキているのでは、毎日イチャイチャしているのでは――そんなことを考えていた。
「……うまくいってます?」
「はい、おかげさまで……」
「もしかして……ラブラブ?」
綾子がそう白石(という名前らしい)に訊ねたとき、それぞれベクトルが違ったものの――綾子以外の全員が一斉に口にした。
「えっ!?」と。
「ちっ違います違います違います違います!!」
もちろん白石(誰のことかはもうわかるはず)と恋人同士なわけがない。第一彼には幼馴染みのみゆきがいる。
浮気などとてもできないというものだ。ということで健は全力で否定した。涙目で大声を出しながら。
「そ、そうですよ! 第一アル……」
何か言いかけたところでみゆきがむせる。いったい何を言おうとしていたのか? 言ってはいけない言葉だったのか、それとも――。
「おほん。……白石さんと健くんはあくまで同居人です! ねぇ白石さん!」
「そ、そうだ……です! みゆきさんの言う通り!」
みゆきから確認をとられた白石(そろそろこう名乗るのも苦しくなってきた)が断言する。敬語にやや慣れていないような口調で、少しばかりぎこちなかった。
みゆきや白石(さて正体は誰でしょう)本人に推測が否定されたため、見当はずれな推測をしてしまった綾子は「ありゃりゃ」と苦笑い。
「あらら。まあ、そういうこともあるわ。気にしない気にしない♪」
そんな一連の騒動にさとみはあえて口を挟まず、事態が収まるまでの様子を見守っていた。やはり母は強し、か。
あれから健は白石――もといアルヴィーと一緒に二階へ上がり、一息つくことにした。いろいろあって騒がしくなっていたが、ようやく落ち着けそうだ。ちなみにみゆきは下でまだ世間話をしている。
「ふぅ、なれない敬語は堅苦しい」
「でもあんなにかしこまることなかったのに。らしく無かったよ」
「そうかの?」
ふたりとも軽く笑い合う。アルヴィーもようやく肩から力が抜けたのか、たどたどしい敬語からいつもの堂々とした口調に戻っていた。
「……のう、健。ひとついいか?」
笑っていたアルヴィーが突如、その表情を曇らせる。まだ何か心配なことがあるのか?
何にでも首を突っ込み、困った人を見捨てられない『お人好し』である彼は相談に乗ってやらねば――と思い、首を縦に振る。
「明雄はこうして家に入れてくれたりはしなかった。だがお主は入れてくれた。なぜなんだ? 私のせいで明雄が死んだようなものなのに」
「なに言ってんの、そんなの決まってるじゃないか。……アルヴィーは僕にとって大切なパートナーだからだよ」
「え……?」
「それにサ――みんなでごはん食べるのに一人だけ仲間外れじゃ可哀想だって思うし」
さりげなく彼は言いきったが、理由は一貫して『アルヴィーを信頼しているから』、『仲間外れにしたら可哀想だから』。他に理由はない。これも東條健という男が持つ優しさの賜物だ。
「そうだったのか……お主、やはりいい奴だのぉ」
眉を垂らしたアルヴィーが笑う。嬉しくなったあまり彼女はバッ! と飛び出してベッドに座る健に抱き付く。
「……ありがとう!」
「どういたしォォォォオオウ!?」
ありのままに起こったことを書き記す。健がいきなりアルヴィーに抱きつかれたと思いきや、その豊満な胸が猛烈にアタックしていた。
興奮したあまり彼は奇声を上げた、というわけだ。むっつりスケベの彼にとってこれほど嬉しいことはなかっただろう。
ただ、声があまりにでかくて近所には丸聞こえだったが――。そしてその光景は案の定部屋の外から見られていた。見ていたのは――綾子だ。我が目を疑ったか何度もまばたきしていた。
「……お、お邪魔しました」
苦笑いしながら綾子は自分の部屋に入った。この気まずい空気をなんとかできないだろうか。本当にまずいかもしれない――。